呂氏春秋 / 誠廉②
昔周之將興也,有士二人,處於孤竹,曰伯夷、叔齊。二人相謂曰:“吾聞西方有偏伯焉,似將有道者,今吾奚為處乎此哉?”二子西行如周,至於岐陽,則文王已歿矣。武王即位,觀周德,則王使叔旦就膠鬲於次四內,而與之盟曰:“加富三等,就官一列。”為三書同辭,血之以牲,埋一於四內,皆以一歸。又使保召公就微子開於共頭之下,而與之盟曰:“世為長侯,守殷常祀,相奉桑林,宜私孟諸。”為三書同辭,血之以牲,埋一於共頭之下,皆以一歸。伯夷、叔齊聞之,相視而笑曰:“譆,異乎哉!此非吾所謂道也。昔者神農氏之有天下也,時祀盡敬而不祈福也。其於人也,忠信盡治而無求焉。樂正與為正,樂治與為治,不以人之壞自成也,不以人之庳自高也。今周見殷之僻亂也,而遽為之正與治,上謀而行貨,阻丘而保威也。割牲而盟以為信,因四內與共頭以明行,揚夢以說眾,殺伐以要利,以此紹殷,是以亂易暴也。吾聞古之士,遭乎治世,不避其任,遭乎亂世,不為苟在。今天下闇,周德衰矣。與其並乎周以漫吾身也,不若避之以潔吾行。”二子北行,至首陽之下而餓焉。人之情莫不有重,莫不有輕。有所重則欲全之,有所輕則以養所重。伯夷、叔齊,此二士者,皆出身棄生以立其意,輕重先定也。
新字:昔周之将興也,有士二人,処於孤竹,曰伯夷、叔斉。二人相謂曰:“吾聞西方有偏伯焉,似将有道者,今吾奚為処乎此哉?”二子西行如周,至於岐陽,則文王已歿矣。武王即位,観周徳,則王使叔旦就膠鬲於次四内,而与之盟曰:“加富三等,就官一列。”為三書同辞,血之以牲,埋一於四内,皆以一帰。又使保召公就微子開於共頭之下,而与之盟曰:“世為長侯,守殷常祀,相奉桑林,宜私孟諸。”為三書同辞,血之以牲,埋一於共頭之下,皆以一帰。伯夷、叔斉聞之,相視而笑曰:“譆,異乎哉!此非吾所謂道也。昔者神農氏之有天下也,時祀尽敬而不祈福也。其於人也,忠信尽治而無求焉。楽正与為正,楽治与為治,不以人之壊自成也,不以人之庳自高也。今周見殷之僻乱也,而遽為之正与治,上謀而行貨,阻丘而保威也。割牲而盟以為信,因四内与共頭以明行,揚夢以説眾,殺伐以要利,以此紹殷,是以乱易暴也。吾聞古之士,遭乎治世,不避其任,遭乎乱世,不為苟在。今天下闇,周徳衰矣。与其並乎周以漫吾身也,不若避之以潔吾行。”二子北行,至首陽之下而餓焉。人之情莫不有重,莫不有軽。有所重則欲全之,有所軽則以養所重。伯夷、叔斉,此二士者,皆出身棄生以立其意,軽重先定也。
書き下し
昔、周の將に興らんとするや、士二人有りて、孤竹に處る。伯夷・叔齊と曰う。二人相謂いて曰く、「吾聞く、西方に偏伯有りて、有道者と将すに似たり、今吾奚為れぞ此に處らんや。」二子西行して周に如き、岐陽に至れば、則ち文王已に歿す。武王位に即くや、周德を觀さんとし、則ち王、叔旦をして膠鬲に就き四內に次らしめ、而して之と盟いて曰く、「富を加うること三等、官に就かしむること一列にせん。」三書を為りて辭を同じくし、之に血ぬるに牲を以てし、一を四內に埋め、皆一を以て歸る。又保召公をして微子開を共頭の下に就かしめ、而して之と盟いて曰く、「世々長侯と為し、殷の常祀を守り、桑林を奉ぜしめ、宜しく孟諸を私すべし。」三書を為りて辭を同じくし、之に血ぬるに牲を以てし、一を共頭の下に埋め、皆一を以て歸る。伯夷・叔齊、之を聞き、相視て笑いて曰く、「譆、異なるかな。此れ吾が謂う所の道に非ざるなり。昔者、神農氏の天下を有つや、時祀、敬を盡くして福を祈らず。其の人に於けるや、忠信、治を盡くして求むること無し。正を樂しみて與に正を為し、治を樂しみて與に治を為し、人の壞るるを以て自ら成さず、人の庳きを以て自ら高くせざるなり。今、周、殷の僻亂を見るや、而ち遽かに之に正と治とを為し、謀を上びて貨を行い、兵を阻みて威を保つ。牲を割きて盟いて以て信と為し、四內と共頭とに因りて以て行を明らかにし、夢を揚げて以て衆を說ばせ、殺伐して以て利を要む。此を以て殷に紹ぐは、是れ亂を以て暴に易うるなり。吾聞く、古の士は、治世に遭えば、其の任を避けず、亂世に遭えば、苟しくも在ることを為さず。今天下闇く、周の德衰えたり。其の周に並びて以て吾が身を漫す與りは、之を避けて以て吾が行を潔くするに若かず。」二子北行して、首陽の下に至りて、餓う。人の情、重んずるところ有らざる莫く、輕んずるところ有らざる莫し。重んずる所有れば、則ち之を全うせんと欲し、輕んずる所有れば、則ち以て重んずる所を養う。伯夷・叔齊、此の二士は、皆身を出だし生を棄てて、以て其の意を立つ。輕重先づ定まればなり。
現代語訳
昔、周がまさに興ろうとしていた頃、二人の士がいて孤竹国にいた。伯夷と叔斉である。二人は語り合った、「聞くところでは、西方に一方の伯(西伯=文王)がいて、道を体した者のようだ。今、我々はどうしてこんな乱れた所にとどまっていようか」。二人は西へ向かって周へ行き、岐陽に着いたところ、文王はすでに亡くなっていた。武王が位に即き、周の徳の実際を見定めようとしたが、見えてきたのは、武王が弟の叔旦(周公旦)を殷の遺臣・膠鬲のもとへ四内に遣わせ、彼と盟約して言うことには、「味方すれば富を三等級加増し、官位もそろって高位に就けよう」。同じ文面の盟書を三通作り、犠牲の血を塗り、一通を四内に埋め、それぞれ一通ずつ持ち帰った。また保召公を殷の公子・微子開のもとへ共頭の麓に遣わせ、盟約して言うことには、「代々長侯とし、殷の常の祭祀を守らせ、桑林の神事を奉じさせ、孟諸の地を私領とするがよい」。同じ文面の盟書を三通作り、犠牲の血を塗り、一通を共頭の麓に埋め、それぞれ一通ずつ持ち帰った。伯夷・叔斉はこれを聞き、顔を見合わせて笑って言った、「ああ、なんと違うことか。これは我々の言う道ではない。昔、神農氏が天下を治めたときは、季節の祭りには敬意を尽くしても福を祈らなかった。人に対しては、忠信を尽くして政治を行い、何も求めなかった。正しくあることを楽しんで人と共に正しくあり、よく治まることを楽しんで人と共に治め、人の破滅につけこんで自分の成功とはせず、人の卑しさをふまえて自分を高しとはしなかった。ところが今、周は殷の乱れを見るや、たちまち自分たちが正義や統治を担うと称し、謀略を尊び賄賂を用い、武力を頼んで威勢を保っている。犠牲を裂いて盟約を信義の証とし、四内や共頭での盟約で自分の行いを誇示し、吉夢などを持ち出して民衆を喜ばせ、殺戮によって利益を求めている。こんなやり方で殷を継ぐのは、乱をもって暴に取り替えるだけのことだ。私は聞いている、古の士は、治まった世に出会えばその任を避けず、乱れた世に出会えばいい加減にその地位に居座らない、と。今、天下は暗く、周の徳も衰えている。周に身を並べて自分を汚すよりは、それを避けて自分の行いを清く保つほうがよい」。二人は北へ向かい、首陽山の麓に至って、餓えて死んだ。人の心情には、必ず重んじるものがあり、必ず軽んじるものがある。重んじるものがあれば、それを全うしようとし、軽んじるものがあれば、それを犠牲にして重んじるものを養う。伯夷・叔斉、この二人の士は、みな身を投げ出し命を捨てて、自らの信念を貫いた。何を重んじ何を軽んじるかが、あらかじめ定まっていたからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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荘子・譲王昔、周の興るや、士二人有りて孤竹(こちく)に処る。伯夷・叔斉と曰う。二人相謂いて曰く、「吾聞く、西方に人有り、有道者に似たりと。試みに往きて観ん」と。岐陽に至る。武王之を聞き、叔旦(しゅくたん)をして往きて之に見えしめ、与に盟いて曰く、「富を加うること二等、官に就くこと一列」と。牲を血ぬりて之を埋む。二人相視て笑いて曰く、「嘻(ああ)、異なるかな。此れ吾が所謂道に非ざるなり。昔者、神農の天下を有つや、時祀(じし)に敬を尽くして喜を祈らず。其の人に於けるや、忠信にして治を尽くして求むる無し。政を与にするを楽しみて政を為し、治を与にするを楽しみて治を為す。人の壊るるを以て自ら成らず、人の卑しきを以て自ら高からず、時に遭うを以て自ら利せず。今、周は殷の乱るるを見て遽(にわ)かに政を為す。上は謀り下は貨を行う。兵を阻(たの)みて威を保ち、牲を割きて盟いて以て信と為し、行を揚げて以て衆を説(よろこ)ばせ、殺伐して以て利を要(もと)む。是れ乱を推して以て暴に易(か)うるなり。吾聞く、古の士は治世に遭えば其の任を避けず、乱世に遇えば苟(いやしく)も存するを為さずと。今、天下は闇く、周の徳は衰えたり。其の周に並びて以て吾が身を塗(けが)さんよりは、之を避けて以て吾が行を絜(きよ)くするに如かず」と。
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史記 伯夷列伝伯夷・叔斉は孤竹の君の二子なり。父、叔斉を立てんと欲す。父卒するに及び、叔斉、伯夷に譲る。伯夷曰く、「父の命なり」と、遂に逃げ去る。叔斉も亦た立つを肯ぜずして之を逃る。国人、其の中子を立つ。是に於いて伯夷・叔斉、西伯昌の善く老を養ふを聞き、盍ぞ往きて帰せざらん、と。至るに及び、西伯卒す。武王、木主を載せ、号して文王と為し、東して紂を伐つ。伯夷・叔斉、馬を叩へて諫めて曰く、「父死して葬らず、爰に干戈に及ぶは、孝と謂ふ可きか。臣を以て君を弑するは、仁と謂ふ可きか」と。左右、之を兵せんと欲す。太公曰く、「此れ義人なり」と、扶けて之を去らしむ。武王、已に殷の乱を平らげ、天下、周を宗とす。而るに伯夷・叔斉は之を恥ぢ、義として周の粟を食らはず、首陽山に隠れ、薇を采りて之を食らふ。餓ゑて且に死せんとするに及び、歌を作る。其の辞に曰く、「彼の西山に登り、其の薇を采る。暴を以て暴に易へ、其の非を知らず。神農・虞・夏、忽焉として没わる。我、安にか適きて帰せん。于嗟、徂かん、命は之れ衰へたり」と。遂に首陽山に餓死す。
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荘子・譲王二子北のかた首陽の山に至り、遂に餓えて焉(そこ)に死せり。伯夷・叔斉の若き者は、其の富貴に於けるや、苟(いやしく)も得べくんば、則ち必ず頼(たよ)らざるなり。高節戾行(こうせつれいこう)、独り其の志を楽しみ、世に事えず。此れ二士の節なり。
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史記 周本紀古公に長子有り太伯と曰ひ、次を虞仲と曰ふ。太姜少子季歷を生む、季歷太任を娶る、皆賢婦人なり、昌を生む、聖瑞有り。古公曰く、「我が世当に興る者有るべし、其れ昌に在るか」と。長子太伯・虞仲古公の季歷を立てて以て昌に伝へんと欲するを知り、乃ち二人亡げて荊蠻に如き、身に文し髪を断ち、以て季歷に譲る。
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史記 周本紀西伯を文王と曰ふ、后稷・公劉の業に遵ひ、古公・公季の法に則り、篤仁にして、老を敬し、少を慈しむ。賢者に礼下し、日中食らふに暇あらずして以て士を待つ、士此を以て多く之に帰す。伯夷・叔齊孤竹に在り、西伯善く老を養ふを聞き、盍ぞ往きて之に帰せざらんと。太顛・閎夭・散宜生・鬻子・辛甲大夫の徒皆往きて之に帰す。
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史記 管蔡世家武王既に崩じ、成王少し、周公旦王室を専らにす。管叔・蔡叔周公の成王に利あらざらんとするを疑ひ、乃ち武庚を挟みて以て乱を作す。周公旦成王の命を承けて武庚を伐ち誅し、管叔を殺し、而して蔡叔を放つ。康叔封・冉季載皆馴行有り、是に於て周公康叔を挙げて周の司寇と為し、冉季を司空と為し、以て成王を佐けて治めしむ、皆天下に令名有り。