白隠慧鶴(はくいん えかく)は、江戸時代中ごろの禅僧です。臨済宗の「中興の祖」と呼ばれ、いまの日本の臨済宗の多くが、白隠の流れを汲んでいるとされます。ぎょろりと目をむいた達磨の絵を、どこかで見たことがある人も多いと思います。あれを描いたのも白隠です。
その白隠が、七十三歳で世に出した本があります。『夜船閑話(やせんかんな)』です。中心にあるのは、坐禅の極意でも悟りの境地でもありません。若いころ修行に打ち込みすぎて心と体を壊し、死んだほうがましだとまで思いつめたこと。そこからどうやって立ち直ったか。 その話が、症状の細かい記録と回復の手順まで含めて、本人の筆で書かれています。
名の知れた人の伝記は、たいてい成功の順に並びます。白隠の場合は、いちばん有名な本が挫折の記録です。この記事では、その『夜船閑話』の原文を軸に、白隠の八十四年をたどります。地獄を怖がった少年が、慢心し、壊れ、立ち直り、最後は「わたしのように鈍い者のために書いた」と言って本を出すまでの話です。
先に一つお断りしておきます。『夜船閑話』には呼吸法や観想法が出てきますが、この記事は健康法を勧めるものではありません。体の不調は医療機関に相談してください。ここで読みたいのは、頑張りすぎて壊れた人が、何を見直したかという中身のほうです。
白隠慧鶴とはどんな人か ― 年表で先に見る
年齢は当時の数え方(数え年)で書きます。
- 貞享二年(一六八五)十二月二十五日:駿河国の原宿(いまの静岡県沼津市原)に生まれる。西暦では一六八六年一月にあたる。商家の長沢家の三男で、幼名は岩次郎。
- 十一歳:母に連れられて寺で地獄の説法を聞き、震え上がる。
- 元禄十二年(一六九九)・十五歳:地元の松蔭寺(しょういんじ)で出家し、慧鶴と名づけられる。
- 宝永五年(一七〇八)・二十四歳:越後高田の英巌寺で「悟った」と確信する。直後に信濃飯山の正受老人(道鏡慧端)のもとで、その自信を打ち砕かれる。
- 二十代半ば:修行のしすぎで心身を壊す(禅病)。
- 宝永七年(一七一〇)・二十六歳:京都・白川の山中に白幽子(はくゆうし)を訪ね、内観の法を授かったと『夜船閑話』に書く。
- 三十代:故郷の松蔭寺に戻って住職となる。京都の妙心寺で第一座に就き、このころから「白隠」と名乗る。
- 四十二歳:法華経を読んでいるとき、コオロギの声を聞いて悟りを完成させたと伝わる。
- 宝暦七年(一七五七)・七十三歳:『夜船閑話』を刊行する。
- 明和五年十二月十一日(一七六九年一月)・八十四歳:没。のちに朝廷から「神機独妙禅師」、さらに「正宗国師」の号を贈られた。
では、順に見ていきます。
一、地獄が怖かった少年 ― 十一歳の説法と、十五歳の出家
白隠の宗教体験は、恐怖から始まっています。
十一歳のとき、白隠は母に連れられて近くの寺へ行き、日厳上人という僧の説法を聞きました。上人は天台宗の書物『摩訶止観』を講じるなかで地獄のありさまを語り、その話しぶりがあまりに巧みで、焦熱地獄や紅蓮地獄の苦しみが目の前に見えるようだったといいます。
その後、母と風呂に入ったとき、湯の熱気が肌を刺すのを感じて地獄を思い出し、大声で泣き出しました。焼けた火箸を股に当てて、お経の力で熱さに耐えられるか試したという話も残っています。結論は、耐えられない。それなら出家して道を求めるしかない、と少年は決めました。
元禄十二年(一六九九)、十五歳で地元・原宿の松蔭寺に入り、単嶺祖伝という和尚のもとで出家します。このとき付けられた名が慧鶴です。
後年の白隠は「ものすごく厳しい禅僧」として知られるようになりますが、出発点は、死と苦しみがただ怖かった子どもでした。この「怖さ」は、あとで白隠が壊れるときにも、形を変えて出てきます。
二、「悟った」と思った二十四歳 ― 慢心と、正受老人の「穴蔵禅坊主」
出家したあとの白隠は、まっすぐには進みませんでした。清水の寺で修行したものの禅に失望し、しばらく漢詩や文章に熱中していた時期があります。やがて修行に戻り、各地の師を訪ね歩きました。
転機は宝永五年(一七〇八)、二十四歳のときです。越後高田の英巌寺で、白隠は禅の問題(公案)の中でもいちばん有名なものに取り組んでいました。『無門関』の第一則「趙州狗子(じょうしゅうくし)」です。
【白文】趙州和尚因僧問。狗子還有佛性。也無。州云無。
出典:無門関 第一則 趙州狗子
「犬にも仏性はありますか」と問われた趙州和尚が、ひとこと「無」と答えた。この「無」を昼も夜も抱え続けるのが修行です。白隠はある夜、遠くの寺の鐘の音を聞いて、この問題が解けたと確信しました。
そのときの気持ちを、白隠は『夜船閑話』の本文の冒頭で、自分から書いています。
【原文】山野初め參學の日、誓つて勇猛の信心を憤發し不退の道情を激起し、精鍊刻苦する者旣に兩三霜、乍ち一夜忽然として落節す。從前多少の疑惑根に和して氷融し、曠劫生死の業根底に徹して漚滅す。自ら謂らく、道人を去ること寔に遠からず。古人二三十年是何の捏怪ぞと、怡悅踏舞を忘るゝ者數月
出典:夜船閑話 本文
悟りは遠いものではなかった。昔の人は二十年も三十年もかかったというが、あれは何のでたらめだ。 嬉しくて、踊り出したい気分が何か月も続いた、と。ずいぶん正直な書きぶりです。
この得意の鼻を折ったのが、信濃飯山(いまの長野県飯山市)に庵を結んでいた正受老人、道鏡慧端です。白隠は自分の悟りを見せに行き、徹底的に否定されました。老人は白隠を「穴蔵禅坊主」と呼んで叱りつけたといいます。穴蔵にこもって、ひとりで分かった気になっている坊主、という意味です。
白隠は半年あまり(八か月とも伝わります)正受老人のもとにとどまりました。ある日、托鉢に出て、ある家の門口に立ったまま考えに沈んでいると、そこの老婆に箒で打たれ、その拍子に、それまで分からなかった公案が一度に解けたと伝えられています。正受老人はこれを認めました。
ここまでは、禅の伝記によくある「師に叩かれて本物になる」話です。けれど白隠の話は、ここで終わりません。
三、寝食を捨てて壊れた ― 『夜船閑話』が書く「禅病」
さきほどの冒頭の段には、続きがあります。踊り出したいほど嬉しかった白隠は、そのあと日々の暮らしを振り返って、坐っているときと動いているときで心がまったくかみ合っていないことに気づきます。
【原文】向後日用を廻顧するに、動靜の二境全く調和せず。去就の兩邊總に脫洒ならず。
出典:夜船閑話 本文
大きな手ごたえをつかんだはずなのに、それが日常で続かない。ここで白隠が選んだのは、もう一度命がけでやる、という道でした。そして壊れます。
【原文】自ら謂らく猛く精彩を着け、重ねて一囘捨命し去んと、越いて牙關を咬定し雙眼睛を瞠開し、寢食ともに廢せんとす。既にして未だ期月に亘らざるに心火逆上し肺金焦枯して雙脚氷雪の底に浸すが如く、兩耳溪聲の間を行くが如し。肝膽常に怯弱にして、擧措恐怖多く、心神困倦し、寐寤種々の境界を見る。兩腋常に汗を生じ、兩眼常に淚を帶ぶ。此において遍く明師に投じ、廣く名醫を探るといへども、百藥寸功なし。
出典:夜船閑話 本文
歯を食いしばり、目を見開き、寝ることも食べることもやめようとした。一か月もたたないうちに、頭に血がのぼり、両足は氷水に浸したように冷え、耳は谷川の中を歩いているように鳴り続ける。 いつもびくびくして、心は疲れ果て、寝ても覚めても幻を見る。脇の下には汗、目には涙。名医を探し回っても、どんな薬も効かなかった。
いまの言葉にすれば、のぼせ、冷え、耳鳴り、不安、不眠、疲労の重なりです。白隠はこれを、自分の失敗として細かく書き残しました。『夜船閑話』の序に記された白隠の言葉では、当時がこう振り返られています。
【原文】老僧初め參學の時、難治の重病を發して其憂苦、諸子に十倍せり。進退惟谷まる。尋常心にひそかに思惟すらく、生きて此憂愁に沈まんよりは、如かじ早く死して此革囊を捨んにはと。
出典:夜船閑話 序
進むことも退くこともできない。生きてこの憂いに沈んでいるより、早く死んでこの体を捨てたほうがましだと、いつも思っていた。
この病を、禅の世界では「禅病」と呼びます。まじめな修行者ほどかかる病です。白隠より少し前の時代の禅僧、鈴木正三(すずき しょうさん)も、同じことを弟子に向かって警告していました。
【原文】修行と云ふは機を養ひ立つる事也、故に古人も長養といへり。必ず機をへらすへからす。今時無理行をなし、亦ぬけから坐禪をなして、機へりて病者と成り、氣違と成る者數を知らす。
出典:驢鞍橋 卷上
修行とは気力を養って育てることで、すり減らすことではない。いまは無理な修行をして病人になる者が数え切れない、と。正三の言う通りのことが、若い白隠の身に起きていたわけです。
四、白幽子を訪ねる ― 実在の仙人か、白隠の語りか
行き詰まった白隠は、ある噂を耳にします。京都の白川の山奥に、岩屋に住む老人がいる。人は白幽先生と呼び、仙人だと言っている。天文にも医術にも通じているらしい、と。
【原文】此において、寶永第七庚寅孟正中浣、竊に行纒を着け濃東を發し、黑谷を越へ直に白川の邑に到り、包を茶店におろして、幽が嚴栖の處を尋ぬ。
出典:夜船閑話 本文
宝永七年(一七一〇)の正月中旬、白隠は美濃を発って白川の村へ向かいます。雪の山道を登り、ようやくたどり着いた岩屋の中には、膝まで届く白髪の老人が坐っていました。暮らしの道具はなにもなく、机の上には本が三冊だけ。
【原文】窟中纔に方五六笏にして全く資生の具無し。机上只中庸と老子と金剛般若とを置く。
出典:夜船閑話 本文
儒教の『中庸』、道教の『老子』、仏教の『金剛般若経』。三つの教えの本が、一つの机に並んでいます。白幽は白隠の脈をとり、病の原因をこう言い当てました。
【原文】已哉、觀理度に過ぎ、進修節を失して、終に此の重症を發す
出典:夜船閑話 本文
観理度に過ぎ、進修節を失して。 考え詰めることが度を越し、修行が節度を失った。だから病になったのだ、と。そして、鍼や灸や薬では治らないと告げたうえで、こう結びます。
【原文】是彼の起倒は必ず地に依るの謂なり。
出典:夜船閑話 本文
転んだ者は、転んだその地面に手をついて起き上がるしかない。心の使い方で壊れたのなら、心の使い方で立ち直るしかない、という意味です。
ただし、この訪問の話には、研究上よく知られた問題があります。
白幽子は架空の人物ではありません。本名を慈俊といい、京都の吉田に墓碑がありました(明治に盗まれ、画家の富岡鉄斎が据え直しています)。鉄斎は明治三十九年(一九〇六)、瓜生山の中に「白幽子巌居蹟」の碑も建てています。ところが、その白幽子は宝永六年(一七〇九)七月に亡くなったとされています。白隠が訪ねたと書いた宝永七年の正月は、その半年ほどあとです。
この食い違いには、江戸時代からすでに気づいた人がいました。『近世畸人伝』を書いた伴蒿蹊(ばん こうけい)は、はじめ白幽子を架空の人物かもしれないと考え、のちに続編で墓碑を確かめて実在を認めつつ、白隠が白幽子を仙人に仕立てて自説の値打ちを高めようとしたか、記憶違いかのどちらかだろう、と書いています。
どちらなのかは、今も決めきれません。白隠が一度は白幽子に会い、年を取り違えたのかもしれません。あるいは、自分が長年かけて工夫した方法を、山中の仙人から授かった話として語ったのかもしれません。この記事ではどちらとも断定しません。
確かに言えるのは、中身のほうです。『夜船閑話』の序によれば、白隠はこの内観の法を坐禅と組み合わせ、三十年にわたって弟子たちに教えてきました。出どころの話がどうであれ、白隠自身が長く使い、人に渡してきた方法だということは、本の中で繰り返し書かれています。
五、内観の法 ― 頭にのぼった気を、足の裏まで下ろす
では、白幽が授けたとされる方法とはどんなものか。白隠が弟子に教えたときの手順が、序に書かれています。最初の指示が意外です。
【原文】若し此秘要を修せんと欲せば、且らく工夫を抛下し話頭を拈放して先須らく熟睡一覺すべし。其未だ睡りにつかず眼を合せざる以前に向て、長く兩脚を展べ、强く踏みそろへ、一身の元氣をして臍輪氣海、丹田腰脚、足心の間に充たしめ
出典:夜船閑話 序
まずは工夫をやめ、公案も手放して、ぐっすり一眠りしなさい。 疲れ切った人に「もっと頑張れ」とは言いません。そのうえで、眠る前に両足を長く伸ばし、全身の気を、へそのまわりから下腹(丹田)、腰、脚、足の裏へと満たしていく。そして「この下腹こそが自分の本来の姿だ、自分のふるさとだ」と繰り返し思い描く。意識を頭から体の下のほうへ移すための言葉です。
『夜船閑話』は、この考え方を中国の古典からも引いています。その一つが『荘子』です。
【原文】是故に漆園曰く、眞人の息は是を息するに踵を以てし、衆人の息は是を息するに喉を以てす。
出典:夜船閑話 本文
漆園(しつえん)は荘子のことです。元になった『荘子』大宗師篇の一節は、師導にも収録しています。
【書き下し】真人の息は踵(かかと)を以てし、衆人の息は喉を以てす。
出典:荘子 大宗師
道を得た人の呼吸はかかとまで届き、ふつうの人の呼吸は喉で止まる。白隠はこれを「気を下に置け」という自分の主張の裏づけに使いました。本文では、それをもっと短くまとめています。
【原文】大凡生を養ふの道、上部は常に淸凉ならんことを要し、下部は常に溫暖ならんことを要せよ。
出典:夜船閑話 本文
上は涼しく、下は温かく。 頭に血がのぼり、足が冷え切っていた若い白隠の症状を、そのまま逆さにした言葉です。
六、軟酥の法 ― 頭の上にのせた、卵ほどのバター
内観の法と並んで知られているのが、「軟酥(なんそ)の法」です。酥は、牛や羊の乳を煮詰めて作る、バターのようなものだと考えてください。
【原文】行者定中、四大調和せず、身心ともに勞疲することを覺せば、心を起して應さに此想を成ずべし。譬へば色香淸淨の輭蘇鴨卵の大さの如くなる者、頂上に頓在せんに、其氣味微妙にして、遍く頭顱の間をうるほし、浸々として潤下し來て、兩肩及び雙臂、兩乳胸膈の間、肺肝腸胃、脊梁臀骨、次第に沾注し將ち去る。此時に當て胸中の五積六聚疝癖塊痛心に隨て降下すること、水の下につくが如く、歷々として、聲あり。遍身を周流し、雙脚を温潤し、足心に至て卽ち止む。
出典:夜船閑話 本文
体の調子が崩れて心身ともに疲れたと感じたら、色も香りも清らかな、鴨の卵ほどの大きさの軟らかい酥が、頭のてっぺんにのっていると思い描く。それが体温でゆっくり溶けて、頭から肩、腕、胸、内臓、背骨、腰へと、じわじわ流れ下りていく。胸のつかえも一緒に下りていき、最後は両足を温めて、足の裏で止まる。
続く段では、溶けて流れ下りた酥が下半身にたまって、薬湯に臍から下を浸しているような心地になる、と観想を重ねます。
ここでもやっていることは同じです。頭に集まったものを、足のほうへ下ろしていく。 考えるのをやめろと命じるのではなく、注意を向ける先を体の下へ移す。「考えるな」と言われて考えずにいられる人はいませんが、「頭の上の酥が肩まで下りてきた」と思い描いているあいだは、少なくとも仕事の心配は脇に置かれます。
七、「観じないことが正しい観」 ― 頑張る人ほど、止め方を知らない
白幽の教えを聞いた若い白隠は、すぐには納得しませんでした。気を一か所に押しとどめたら、かえって気や血が滞るのではないか、と医学書の知識を持ち出して問い返しています。
【原文】恐るゝ所は李士才が謂ゆる淸降に偏なる者にあらずや。心を一處に制せば、氣血或は滯碍することなからむか。
出典:夜船閑話 本文
まじめな人らしい反論です。これに対する白幽の答えが、この本の中心だと思います。
【原文】夫觀は無觀を以て正觀とす。多觀の者を邪觀とす。向きに公多觀を以て此重症を見る。今是を救ふに無觀を以てす、また可ならずや。
出典:夜船閑話 本文
観じないことを正しい観とし、多く観じることを邪な観とする。 おまえは多く観じすぎて病になった。だから観じないことで治す。それもよいではないか。
観とは、心を一つの対象に向けて見つめ続けることです。白隠は「考え抜けばいつか破れる」と信じて、考えることを止められなくなっていました。白幽は、その止め方を教えたわけです。
同じ本のなかで、白隠は体の養い方を国の治め方にたとえています。
【原文】蓋し生を養ふことは國を守るが如し。明君聖主は常に心を下に專にし、暗君庸主は常に心を上に恣にす。
出典:夜船閑話 本文
優れた君主はいつも心を下の民に向け、愚かな君主は上で好き勝手をする。上で好き勝手をすれば、大臣は権力を誇り、役人は寵愛を頼みにして、民の苦しみを顧みなくなり、ついには国が滅ぶ。反対に心を下に向ければ、大臣は倹約し、役人は質素に努め、民は豊かになって国は強くなる、と続きます(続きの段)。
体のたとえとして書かれた一節ですが、そのまま組織の話としても読めます。頭(上層部)にばかり血が集まり、手足(現場)が冷え切った組織は、どんなに勢いがあっても長くはもたない。 白隠が自分の体で経験したことを、国のたとえで言い直すと、こうなります。
八、松蔭寺の四十年 ― 鍛える場所に、休ませる仕組みを置く
立ち直った白隠は、三十代で故郷・原宿の松蔭寺に戻って住職になり、京都の妙心寺で第一座に就きました。このころから「白隠」を名乗ります。四十二歳のとき、法華経を読んでいてコオロギの声を聞き、悟りを完成させたと伝えられています。
回復のあとに悟りが深まったことを、白隠は『夜船閑話』の本文にこう書きました。
【原文】纔に三年に充たざるに、從前の衆病、藥餌を用ひず、鍼灸を假らず、任運に除遣す。
出典:夜船閑話 本文
三年もたたないうちに、薬も鍼灸も使わずに病は自然に消えた。それだけではない、と白隠は続けます。どうしても歯が立たなかった公案が根まで通って、大きな喜びを得たことが六、七回あり、小さな悟りは数え切れない、と。壊れる前にいくら力んでも破れなかった壁が、止め方を覚えたあとで破れた、という順序になっています。
松蔭寺の白隠のもとには、全国から修行僧が集まりました。その暮らしは過酷で、序には、近くの廃屋や荒れ寺を借りて住み、菜っ葉と麦のふすまを食べ、罵声と棒を浴びて修行する様子が描かれています。そして、こう書かれています。
【原文】是故に往々に參窮度に過ぎ、淸苦節を失する族は、肺金いたみかじけ水分枯渴して、疝癖塊痛難治の重症を發せんとす。
出典:夜船閑話 序
熱心すぎて度を越した者は、重い病を発しかける。若いころの白隠と同じことが、弟子たちにも起きていたのです。そこで白隠は、厳しい修行をやめさせるのではなく、そこに回復の方法を組み込みました。
【原文】內觀と參禪と共に合せ並らべ貯へて、且つ耕し且つ戰ふ者蓋し茲に三十年。年々一員を添へ二肩を增し得て、今既に二百衆に近かし。
出典:夜船閑話 序
内観と参禅を並べて、「耕しながら戦う」ように続けること三十年。弟子は年々増えて、二百人近くになった。
鍛える仕組みだけを持つ組織は、まじめな人から順に壊れていきます。休めとだけ言う組織は進みません。白隠がしたのは、同じ場所に両方を置くことでした。
白隠の名は駿河の外まで広まり、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われるようになります。
九、隻手の音声と禅画 ― 分かる形で届ける
白隠がつくった公案で、いちばん有名なのが「隻手(せきしゅ)の音声」です。両手を打てば音がする。では片手の音はどんな音か。白隠は晩年の仮名法語『藪柑子(やぶこうじ)』のなかで、この五、六年ほどは「隻手の声を聞き届けよ」と人ごとに教えている、と書いています。若いころの自分を追い詰めた「無」の公案に代わって、晩年の白隠が弟子たちに与えた入口がこれでした。
もう一つ、白隠が晩年まで続けたのが絵と書です。達磨、観音、布袋、七福神、そして漢字一字を大書したもの。一万点、あるいはそれ以上とも言われるほど描きました。上手に見せようとした絵ではありません。字の読めない人にも、見ればわかる形で教えを届けるための絵です。
一般の人に向けて仮名で書いた法語も多く、「衆生本来仏なり」で始まる『坐禅和讃』は、今も臨済宗の寺で読まれています。
十、七十三歳の出版 ― 「わたしのように鈍い者のために」
『夜船閑話』が本になった経緯は、序の冒頭に書かれています。
【原文】寶曆丁丑の春、長安の書肆小川の何某とかや聞へし、遠く草書を裁して、吾が鵠林近侍の左右に寄せて云く、伏して承る、老師の古紙堆中夜船閑話とかや云へる草稿あり、書中多く氣を鍊り精を養ひ、人の營衞をして充たしめ、專ら長生久視の秘訣を聚む
出典:夜船閑話 序
宝暦七年(一七五七)の春、京都の本屋から手紙が届きました。老師のところに『夜船閑話』という草稿があって、長生きの秘訣が書いてあると聞いた。ぜひ出版させてほしい、と。写本がこっそり出回っていて、手に入れた人は秘蔵して誰にも見せない、とも書いてありました。弟子たちが古い櫃を開けると、草稿は半分以上が虫に食われていたので、補って書き写して京都へ送った、と序は続きます。
このとき白隠は七十三歳。序は「窮乏庵主饑凍(きゅうぼうあんじゅ きとう)」と名乗る門下の筆という体裁ですが、白隠自身が弟子の口を借りて書いたとみる読み方も多くあります。その序に記された白隠の言葉は、自分の体の調子をこう語っています。
【原文】馬年今歲古稀に越へたりといへども、半點の病患なく齒牙全く搖落せず、眼耳次第に分明にして、動もすれば靉靆を忘る。
出典:夜船閑話 序
七十を越えたが病はなく、歯も抜けず、目も耳もはっきりして、眼鏡を忘れるほどだ。毎月の説法も、各地に招かれての講義も一日も休んでいない、と。
そして本文の最後に、白隠はこの本を誰のために書いたかをはっきり言っています。
【原文】是宿に靈骨有て、一槌に旣に成ずる底の俊流の爲めに設るにあらず。癡鈍予が如く、勞病予に類ひする底、看讀して子細に觀察せば、必ず少しき補ならんか。
出典:夜船閑話 本文
これは、生まれつき素質があって一撃で悟るような優れた人のために書いたのではない。わたしのように愚かで鈍く、わたしのように疲れと病に苦しむ者が、読んでよく観察すれば、少しは助けになるだろう。
臨済宗を立て直したとされる人が、最後に世に出した本を「鈍い者のため」と言い切っています。自分は壊れた側の人間だった、という自覚が、七十三歳になっても消えていなかったのだと思います。
白隠はその後も説法を続け、宝暦十三年(一七六三)には三島の龍沢寺を再興し、中興開山となりました。明和五年十二月十一日(一七六九年一月)、八十四歳で亡くなっています。
結び ― 壊れた経験を、隠さずに書いた人
白隠の生涯を並べ直すと、次のようになります。
地獄が怖くて出家した。悟ったと思って慢心し、師に打ち砕かれた。もう一度命がけでやろうとして、心と体を壊した。止め方を教わって立ち直り、そのあとで悟りが深まった。自分の寺では、厳しい修行の横に回復の方法を置いた。そして晩年、その全部を「鈍い者のため」の本にして出した。
経営者やビジネスパーソンにとっての読みどころは、三つあると思います。
一つめは、壊れるのは怠けた人ではなく、まじめな人だということです。白隠も、白隠の弟子たちも、熱心すぎて度を越しました。二つめは、止め方は技術として教えられるということです。「無理をするな」と言うだけでなく、寝る前に足を伸ばす、注意を足の裏へ移す、といった具体的な手順を白隠は渡しています。三つめは、上に集まった血を下へ戻すという考え方が、体にも組織にも通じるということです。
そして何より、白隠は自分の失敗を隠しませんでした。「昔の人は何十年もかかったというが、あれは何のでたらめだ」と得意になったことまで書いています。指導者が自分の挫折をここまで具体的に書いた本は、多くありません。弟子たちが二百人も集まり、何十年も去らなかった理由の一つは、そこにあったのかもしれません。
この記事の出典について
- 『夜船閑話』の引用は、師導が収録する本文からそのまま切り出しています。旧字体を含むのは底本の表記です。
- 生年月日・出家・悟り・没年などの経歴は、臨済宗の寺院や禅文化研究所の公開資料、辞典類で確かめられたものだけを書きました。年齢は数え年です。
- 白幽子の生没年と、白隠の訪問年との食い違いについては、白幽子の墓碑と伴蒿蹊『近世畸人伝』『続近世畸人伝』の記述によっています。
- 軟酥の法・内観の法は、原文の内容を紹介したもので、医学的な効果を保証するものではありません。
関連する章句と記事
この記事で引いた章句は、いずれも師導に原文・現代語訳・解説つきで収録しています。『夜船閑話』は序から本文の結びまで、全文を章句で読めます。
同じく「本人の書でたどる著者の人生」の記事です。
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→ 宮本武蔵の生涯 ― 本人が五輪書に書いた六十年と、巌流島の話の出どころ
頑張りすぎ、立ち直りをテーマにした記事もあります。
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→ 荘子の名言12選 — 原文・現代語訳と、役に立つという物差しの外し方