世阿弥(ぜあみ)という名前は、学校の日本史で一度は目にしているはずです。能を大成した人。『風姿花伝(ふうしかでん)』を書いた人。「秘すれば花」「初心忘るべからず」の人。
ただ、その人がどんな一生を送ったかとなると、知られているのは断片だけです。十二歳ほどで将軍に見いだされ、晩年は佐渡に流された。そのあいだに何があったのかは、あまり語られません。
この記事では、世阿弥の生涯を、本人が書いた『風姿花伝』の言葉でたどります。手がかりになるのは、巻頭の「年来稽古条々(ねんらいけいこじょうじょう)」という篇です。七歳から五十過ぎまでを七つの年齢に区切り、それぞれの年ごろに何を稽古すべきかを書いた、いわば年齢別の稽古論です。
この篇には、ほかの人生論にはない特徴があります。書いたとき、世阿弥はまだ三十八歳でした。自分がまだ生きていない四十代・五十代のことまで、先回りして書いているのです。そしてその後の四十年あまり、世阿弥は自分の書いた条々を、自分の人生で試されることになります。
引用は、師導が収録する『風姿花伝』の底本から、句読点を補った読みの欄をそのまま切り出しています。
世阿弥とは ― 能を「芸」から「道」にした人
先に輪郭を押さえておきます。
世阿弥は、室町時代の能役者であり、能の台本の作者であり、理論家です。生まれは貞治二年(一三六三)ごろとされますが、確かな記録はありません。亡くなったのは嘉吉三年(一四四三)とする説が有力で、これも確定していません。
実名は元清(もときよ)。父は大和(いまの奈良県)の猿楽の一座を率いた観阿弥(かんあみ)です。当時の能は「猿楽(さるがく)」あるいは「申楽」と呼ばれ、寺社の祭礼で演じられる芸能でした。「世阿弥」は出家後の名乗りで、時宗(じしゅう)の法名「世阿弥陀仏」を略したものです。「世」は一座の名「観世(かんぜ)」から取られています。
父から受け継いだ一座を、世阿弥は将軍や公家が見る芸へと引き上げました。『高砂』『井筒』『実盛』など、いまも演じられる能の多くが世阿弥の作とされます。そして、演じるための理屈を二十を超える書物に書き残しました。その最初の一冊が『風姿花伝』です。
『風姿花伝』は七つの篇からなります。第一から第三までの末尾には「応永七年(一四〇〇)」の日付があり、世阿弥が三十代の終わりに書いたことがわかります。その後も書き継がれ、最後の「別紙口伝」の奥書は応永二十五年(一四一八)です。二十年近くかけて書き足された本でした。
では、年来稽古条々の七つの年齢を、世阿弥自身の人生と重ねながら読んでいきます。
七歳 ― 良い悪いを教えるな
年来稽古条々は、七歳から始まります。
【書き下し】この芸において、大方七歳をもて初とす。この比の能の稽古、かならずその者、自然とし出だす事に得たる風体あるべし。舞はたらきのあひだ、音曲若しは怒れる事なんどにてもあれ、ふとし出さんかかりをうちまかせて、心のままにせさすべし。さのみによきあしきとは教ふべからず。あまりにいたく諫むれば、わらんべは気を失ひて、能ものぐさくなりたちぬれば、やがて能は止まるなり。
稽古は七歳から。その子が自然にやり出す動きには、その子に合った持ち味があるはずだから、心のままにやらせよ。良い悪いを細かく教えるな。厳しく叱ると、子どもはやる気を失い、能をやめてしまう、というのです。
世阿弥自身の七歳ごろについて、確かな記録は残っていません。ただ、この条には観阿弥の一座で育った人の実感がにじんでいます。「わらんべは気を失ひて」という言い方は、叱られてしぼんでいく子どもを実際に見た人の書き方です。
最初にやるのは、型を教えることではありません。その子が自分からやり出すものを見つけることです。人を育てる話として読んでも、そのまま通じます。
十二、三歳 ― 将軍の寵愛を「時分の花」と書いた
十二、三歳の条で、有名な言葉が出てきます。
【書き下し】先づ童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。声もたつ比なり。このたよりあれば、わるき事はかくれ、よき事はいよいよ花めけり。……さりながら、この花はまことの花にはあらず、ただ時分の花なり。されば、この時分の稽古、すべてすべてやすきなり。さるほどに、一期の能の定めにはなるまじきなり。
子どもの姿なので、何をしても幽玄(ゆうげん。上品で優美なこと)に見える。声もよく伸びる。だから悪いところは隠れ、良いところはいっそう華やかに映る。けれども、この花は本物の花ではない。ただ「時分の花」、年齢がくれた一時の花だ。だから一生の芸の基準にしてはならない。
この年ごろの世阿弥に、人生を決める出来事が起きています。応安七年(一三七四)か翌年、京都の今熊野(いまくまの)で観阿弥の一座が演じた猿楽を、十代の将軍足利義満が見物しました。義満はこの一座、とくに少年だった世阿弥を気に入り、以後そばに置くようになります。
寵愛ぶりは公家たちの反感も買いました。永和四年(一三七八)の祇園祭では、義満が世阿弥を自分の見物席に同席させ、それを内大臣の三条公忠(さんじょう きんただ)が日記『後愚昧記(ごぐまいき)』で苦々しく書きとめています。当時の猿楽者は、身分の低い者と見られていました。
同じころ、関白の二条良基(にじょう よしもと)も少年を気に入り、「藤若(ふじわか)」という名を与えたと伝えられます。良基は和歌・連歌の第一人者です。世阿弥の書くものに歌学の言葉が多いのは、この時期に一流の教養に触れたことと無関係ではないでしょう。
ここで、さきほどの条をもう一度読んでみてください。世阿弥は三十代の終わりに、将軍と関白に愛された自分の少年時代を「まことの花にはあらず」と書いたことになります。人がほめたのは芸ではなく、子どもの姿と声だった。そう言い切れるまでに、二十年以上かかったのだと思います。
若いころの成功を、自分の実力と取り違えない。これは世阿弥が自分の経験から引き出した、最初の教訓でした。
十七、八歳 ― 笑われても、捨てない
少年の花には終わりが来ます。
【書き下し】先づ声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし比の声もさかりに花やかに、やすかりし時分の移りに、手立はたと変りぬれば、気を失ふ。……この比の稽古には、ただ指をさして人に笑はるるとも、それをばかへり見ず、うちにて声のとどかん調子にて、宵あかつきの声をつかひ、心中には願力をおこして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。
声変わりで第一の花が失せる。背が伸びて腰高になり、姿の美しさも消える。昨日までほめていた見物客が、物足りなそうな顔をする。恥ずかしさもあって、ここで嫌になってしまう。
この時期の稽古は、人に指をさされて笑われても気にせず、無理のない声で朝晩稽古を続け、「一生の分かれ目はここだ」と心に決めて、生涯かけて能を捨てないこと。それ以外に稽古はない。ここでやめたら、能はそこで終わる。
十七、八の世阿弥は、ちょうど将軍の寵愛を一身に受けていた時期にあたります。それでも、声変わりの苦しさは避けられなかったはずです。周囲の期待が大きいほど、落差も大きくなります。
この条には、きれいな解決策が書かれていません。書いてあるのは「捨てるな」だけです。伸び悩みの時期には、上手になる方法ではなく、やめない方法が要る。世阿弥はそう見ていました。
二十四、五歳 ― 父の死と、「初心」の本当の意味
二十四、五歳は、一生の芸が定まり始める時期です。声も体も落ち着き、周りからは「上手が出てきた」と言われる。名人との競演で勝ってしまうこともある。世阿弥はここで、もう一度釘を刺します。
【書き下し】これ返々主の為仇なり。これもまことの花にはあらず。年のさかりと見る人の一旦の心のめづらしき花なり。……されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず、初心と申すはこの比の事なり。
名人に勝ってほめられるのは、かえって本人のためにならない。それも本物の花ではない。見る側が「若い盛りの役者だ」と一時珍しがっている花にすぎない。時分の花を本物と思い込む心こそ、本物の花からますます遠ざかる心だ。そして、この時期のことを「初心」というのだ、と書いています。
ここは大事なところです。世阿弥の言う「初心」は、「始めたころの新鮮な気持ち」ではありません。未熟なのに、極めたと思い込みやすい段階のことです。「初心を忘れるな」は、「初々しい気持ちを忘れるな」ではなく、「自分が未熟だった段階を忘れるな」という意味になります。この点は、あとでもう一度取り上げます。
世阿弥の二十二歳ごろ、至徳元年(一三八四)に父の観阿弥が亡くなりました。世阿弥は一座の大夫(たゆう。座の長)を継ぎます。父の最期の様子は、年来稽古条々の最後の条に書かれています。それは五十歳の節で読みます。
条の結びは、こうです。
【書き下し】わが位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は一期失せず。位より上の上手と思へば、本ありつる位の花も失するなり。
自分の位(実力の程度)をよく心得ていれば、その程度の花は一生失われない。実力以上の上手だと思えば、もともとあった花さえ失う。二十代前半で父を失い、一座を背負うことになった世阿弥に、自分を大きく見せたい理由はいくらでもあったはずです。
三十四、五歳 ― ここで認められなければ、極めたと思うな
【書き下し】この比の能、さかりのきはめなり。ここにてこの条々をきはめさとりて、堪能になれば、さだめて天下にゆるされ、名望を得つべし。……さるほどに、あがるは三十四五までの比、さがるは四十以来なり。
三十四、五歳は盛りの極み。ここで天下に認められ名声を得なければ、どれほどの上手でもまだ本物の花を極めていない。上がるのは三十四、五まで、下がるのは四十から。
驚くほど冷静な見積もりです。この条を書いたとき、世阿弥は三十八歳でした。つまり、自分がすでに「上がる」時期を過ぎ、あと二年ほどで「下がる」側に入ることを承知のうえで、この一文を書いています。
世阿弥の三十代は、義満の後ろ盾のもとで観世座が京都の第一線に立っていた時期です。応永七年(一四〇〇)、第三篇の末尾に世阿弥はこう記しました。
【書き下し】凡そ家を守り芸を重んずるによて、亡父の申し置きし事どもを心底にとどめて、大概を録する所、世のそしりを忘れて、道の廃れんことを思ふによりて、全他人の才覚に及ぼさんとにはあらず、ただ子孫の庭訓を残すのみなり。
家を守り芸を重んじるため、亡き父の言い残したことを書き留める。世間の非難は気にしない。他人に教えるためではなく、ただ子孫への家訓として残すだけだ。署名は「秦元清(はたの もときよ)」。いちばん上り調子の時期に、世阿弥が考えていたのは、この芸を次の代にどう渡すかでした。
出典:風姿花伝 第三 問答条々/風姿花伝 第一 年来稽古条々
四十四、五歳 ― 脇の仕手に花を持たせる
ここからは、書いた時点の世阿弥にとって「未来」の条です。
【書き下し】この比よりの手立、大方変るべし。たとひ天下にゆるされ、能に得法したりとも、それにつけても、よき脇の仕手を持つべし。……大方似合ひたる風体を、安々と骨を折らで、脇の仕手に花をもたせて、あひしらひのやうに少々とすべし。
四十四、五歳からは、やり方が大きく変わる。天下に認められていても、良い脇の仕手(相手役)を持つべきだ。無理をせず、似合った芸を楽に演じ、脇の仕手に花を持たせて、自分は控えめにあしらうように演じる。
世阿弥の四十代に、実際に大きな変化が起きました。応永十五年(一四〇八)、義満が亡くなります。世阿弥は四十六歳ごろ。跡を継いだ四代将軍の足利義持は、田楽(でんがく。猿楽と並ぶ別系統の芸能)の名手・増阿弥(ぞうあみ)を好みました。最大の後ろ盾を失った世阿弥は、この時期に長男の元雅(もとまさ)ら次の世代を育て、理論書を書き進めています。
「脇に花を持たせよ」は、年を取った名人の処世術として読まれがちです。けれど世阿弥の書き方を見ると、もっと実務的です。自分の花が衰えるのは避けられない。だから、衰える前に花を持てる人を育てておけ。四十代の条は、そのまま後継者の話になっています。
五十有余 ― 父が最後に見せた花
年来稽古条々の最後は、五十歳を過ぎてからの条です。
【書き下し】この比よりは、大方せぬならでは手立あるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、真に得たらん能者ならば、物数は皆々失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。
五十を過ぎたら、ほとんど「しない」こと以外にやり方はない。麒麟(きりん。一日に千里を走る名馬)も老いては駄馬に劣る、という。けれど本当に芸を得た役者なら、演じられる曲目はすべて失われ、見どころが少なくなっても、花は残る。
そして世阿弥は、その証拠として父の最期を書きます。
【書き下し】亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河国浅間の御前にて法楽仕り、その日の申楽、殊に花やかにて、見物の上下一同に褒美せしなり。凡そその比、物数をば、はや今の初心にゆづりて、やすき所を少々と色へてせしかども、花は弥ましに見えしなり。
父・観阿弥は五十二歳の年の五月十九日に亡くなった。その月の四日、駿河(いまの静岡県)の浅間神社の神前で能を奉納した。その日の能はとりわけ華やかで、身分の上下を問わず見物の皆がほめた。そのころ父は、多くの曲目をもう若い者に譲り、無理のないところを少し彩って演じるだけだったが、花はかえっていっそう見えた。
年来稽古条々は、父の死で終わっています。七歳の条から読んできた読者は、最後に、老いて技を減らしてなお花を残した一人の役者の姿を見せられます。世阿弥が「まことの花」の見本として置いたのは、自分ではなく父でした。
条々が書かなかった六十代、七十代
年来稽古条々は、五十有余で終わります。六十代・七十代の条はありません。そして世阿弥の人生でいちばん苦しかったのは、まさにその書かれなかった年月でした。
- 応永二十九年(一四二二)ごろ、六十歳前後で出家し、観世大夫の座を長男の元雅に譲る。
- 永享元年(一四二九)、足利義教が六代将軍になる。義教は世阿弥の甥の音阿弥(おんあみ)を重んじ、世阿弥は仙洞御所(上皇の御所)への出入りを止められる。
- 永享二年(一四三〇)、世阿弥は醍醐寺清滝宮の楽頭職(がくとうしき。祭礼で能を演じる役)を解かれ、職は音阿弥に移る。同じ年、次男の元能(もとよし)が出家して芸の道を離れる。元能は去る前に、父の芸談を『申楽談儀(さるがくだんぎ)』にまとめた。
- 永享四年(一四三二)、元雅が伊勢の安濃津(あのつ)で急死する。世阿弥はその死を悼む『夢跡一紙(むせきいっし)』を書いている。
- 永享六年(一四三四)、七十二歳ごろの世阿弥は佐渡へ流される。理由は記録に残っておらず、わかっていない。
- 永享八年(一四三六)、佐渡で小謡曲集『金島書(きんとうしょ)』を書く。
- その後、許されて京に戻ったとする説もあるが、確かではない。没年も確定していない。
世阿弥は四十歳のころ、応永九年(一四〇二)の日付を持つ第五篇「奥義」にこう書いていました。
【書き下し】たとひ天下にゆるされを得たるほどの仕手も、力なき因果にて、万一少し廃るる時分ありとも、田舎遠国の褒美の花失せずば、ふつと道の絶ゆることはあるべからず。道絶えずは、また天下の時にあふことあるべし。
天下に認められたほどの役者でも、どうにもならない巡り合わせで、万一少し廃れる時期があるかもしれない。それでも田舎や遠国の見物にほめられる花さえ失わなければ、道がふっつり絶えることはない。道が絶えなければ、また天下の時に出会うこともある。
さらに第七篇「別紙口伝」では、勝負事には流れがあると書いています。
【書き下し】また、時分をもおそるべし。去年さかりあらば、今年は花なかるべきことを知るべし。時の間にも、男時女時とてあるべし。いかにするとも、能によき時あれば、かならずまたわるき事あるべし。これ力なき因果なり。
去年が盛りなら、今年は花がないこともあると知れ。短い時間の中にも、勢いのある「男時(おどき)」と勢いの落ちる「女時(めどき)」がある。能に良い時があれば、必ず悪い時もある。人の力ではどうにもならない因果だ。
四十代から五十代の世阿弥がこれらを書いたとき、自分が七十代で将軍に疎まれ、跡継ぎに先立たれ、島に流されることまでは想像していなかったでしょう。けれど、条々が書かなかった年月を、世阿弥はこの二つの考え方で生きたように見えます。佐渡で書いた『金島書』は、流人の恨み言が中心ではなく、佐渡の風景や社寺をたたえる謡が多く収められています。都を追われたあとも、「田舎遠国の褒美の花」を捨てなかったと読むこともできます。
「初心忘るべからず」は『風姿花伝』の言葉か
ここで、二十四、五歳の条で予告した話に戻ります。
「初心忘るべからず」の出典は、『風姿花伝』と紹介されることもあれば、『花鏡(かきょう)』と紹介されることもあります。どちらが正しいのでしょうか。
結論から言うと、両方に出てきます。ただし、標語として完成しているのは『花鏡』のほうです。
『風姿花伝』では、第七篇「別紙口伝」の「年々去来(ねんねんきょらい)の花」を説く条に出てきます。
【書き下し】されば、初心よりのこの方の芸能の品々を忘れずして、そのときどき用々にしたがひて取り出だすべし。若くては年よりの風体、年よりてはさかりの風体を残すこと、めづらしきにあらずや。然れば、芸能の位あがれば、過ぎし風体をしすてしすて忘るること、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる花の枝のごとし。種あらば、年々時々の比になどかあはざらん。ただ返々、初心を忘るべからず。
若いうちに老人の芸を、年を取ってから盛りの芸を身に残すこと。芸の位が上がるにつれて、過ぎた時期の芸を捨てては忘れていくのは、花の種を失うことだ。くれぐれも、初心を忘れてはならない。
一方、『花鏡』は世阿弥が六十歳を過ぎた応永三十一年(一四二四)ごろまでにまとめた書で、その最後の段(奥段)で、世阿弥は「当流に、万能一徳の一句あり」として「初心忘るべからず」を掲げ、それを「是非の初心」「時々(じじ)の初心」「老後の初心」の三つに分けて説明しています。
若いころの未熟な芸を忘れるな(是非の初心)。年盛りから老後まで、その時々に初めて臨んだ段階の芸を忘れるな(時々の初心)。そして老後にも、老後にふさわしい芸を初めて学ぶ段階がある、それを忘れるな(老後の初心)。老後の初心を説く条には「命には終りあり、能には果てあるべからず」とあります(日本古典文学大系『歌論集 能楽論集』による)。
二つを並べると、考えが深まっていく様子がわかります。三十代・四十代の『風姿花伝』では、初心は過去の段階でした。六十代の『花鏡』では、老後にも初心があると書き足されます。年来稽古条々が五十有余で終わっていたのを、世阿弥は自分で書き継いだのです。
どちらの書でも、初心は「始めたころの新鮮な気持ち」ではありません。その段階の自分がまだ未熟だったことです。
※師導は『花鏡』を収録していないため、『花鏡』の一文には章句のリンクを張っていません。
出典:風姿花伝 第七 別紙口伝
「秘すれば花」と、渡せなかった家の書
『風姿花伝』でいちばん有名な一句も、世阿弥の人生と切り離せません。
【書き下し】一、秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。……さるほどに、わが家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。
秘すれば花、秘さなければ花にならない。家の秘事として人に知らせないことを、生涯の頼みとなる花とする。
この「秘す」には二つの意味が重なっています。一つは、見る人に手の内を読ませないという演技の工夫。もう一つは、芸の理屈を家の外に出さないという意味です。『風姿花伝』はまさにその「家の秘事」として書かれ、代々観世家に伝えられてきました。一般に知られるようになったのは、明治四十二年(一九〇九)に歴史学者の吉田東伍が『世阿弥十六部集』として刊行してからです。
では、世阿弥はこの秘伝を誰に渡したのか。別紙口伝の奥書にはこうあります。
【書き下し】一、この別紙の条々、先年、弟四郎に相伝するといへども、元次、芸能感人たるによて、これをまた伝ふところなり。秘伝之。応永二十五年六月一日 世阿 花押
以前、弟の四郎に伝えたが、元次(もとつぐ)が人を感動させる芸を身につけたので、改めて伝える。応永二十五年(一四一八)、世阿弥五十六歳ごろのことです。この「元次」は、長男・元雅の若いころの名とする見方が有力です。
世阿弥は秘伝を、いちばん才能を認めた息子に渡しました。その元雅は、父より先に亡くなります。家の外に出さないと決めた書は、渡す相手を失いかけたわけです。世阿弥の芸論はその後、娘婿の金春禅竹(こんぱる ぜんちく)らに受け継がれていきました。
出典:風姿花伝 第七 別紙口伝/風姿花伝 第七 別紙口伝(奥書)
孔子の六段階と、世阿弥の七段階
年齢で人生を区切った言葉として、もっと有名なのは孔子の「吾十有五にして学に志す」です。十五で志学、三十で而立、四十で不惑、五十で知命、六十で耳順、七十で従心。こちらは師導の別の記事で一段ずつ読んでいます。
→ 吾十有五にして学に志す — 孔子の人生六段階と、経営者の歩み方
二つを並べると、違いがはっきりします。
- 書いた時期が逆です。 孔子は七十を過ぎてから、自分の一生を振り返って語りました。世阿弥は三十八歳で、これから来る年齢のことまで先回りして書きました。
- 曲線の形が逆です。 孔子の六段階は、最後まで上り続けます。世阿弥は「あがるは三十四五までの比、さがるは四十以来なり」と、下り坂をはっきり書き込みました。
- それでも、たどり着く場所は似ています。 孔子の七十は「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」。世阿弥の五十有余は「せぬならでは手立あるまじ」、それでも花は残る。どちらも、力まずにいて外れない境地を最後に置いています。
孔子の言葉は、生き終えた人の報告です。世阿弥の条々は、これから生きる人への見積もりです。自分がいまどの段にいるかを確かめたいときは孔子を、次の段で何が起きるかに備えたいときは世阿弥を読む、という使い分けができます。
結び ― 花は、年齢ではなく種から咲く
世阿弥の生涯を年来稽古条々に重ねると、一つのことが見えてきます。世阿弥は、人生の良い時期ほど疑い、悪い時期ほど道を捨てなかった。
十二歳の寵愛を「時分の花」と呼び、二十四歳でほめられる時期を「初心」と呼び、三十八歳で「四十から下がる」と書いた。そして七十代で、将軍に疎まれ、跡継ぎを失い、島に流されても、佐渡の土地をたたえる謡を書いた。上り坂で浮かれず、下り坂で投げない。そのどちらにも、同じ一つの考え方が働いています。
その考え方を、世阿弥は問答条々で一言にまとめています。
【書き下し】されば花を知らんと思はば、先づ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。
花を知ろうと思うなら、まず種を知れ。花は心、種はわざ。年齢がくれる花は、年齢とともに散ります。けれど、稽古で積んだ技という種があれば、どの年齢でも、その年齢なりの花を咲かせることができる。世阿弥が一生をかけて確かめたのは、そのことでした。
出典:風姿花伝 第三 問答条々
この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・現代語訳と解説つきで収録しています。『風姿花伝』は序から別紙口伝まで、全篇を通して読めます。
「自分の書に、自分の人生を書いた人」をたどる記事は、ほかに二本あります。
→ 宮本武蔵の生涯 ― 本人が五輪書に書いた六十年と、巌流島の話の出どころ
→ 白隠禅師の生涯 ― 修行で心身を壊した若き日と、『夜船閑話』に書いた回復の技法
年齢で人生を区切った、もう一つの古典はこちらです。