宮本武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代の初めを生きた剣術家です。二本の刀を使う「二天一流(にてんいちりゅう)」を開き、晩年に兵法書『五輪書(ごりんのしょ)』を書きました。
名前を知らない人はまずいません。巌流島(がんりゅうじま)で佐々木小次郎と戦った。約束の時刻にわざと遅れて行った。一乗寺下り松で、吉岡一門の数十人をひとりで相手にした。沢庵(たくあん)和尚に木に吊るされて、心を入れ替えた。どれも一度は耳にしたことのある話でしょう。
ところが、こうした話の多くは、武蔵が亡くなってから数十年、あるいは百年以上たって書かれたものです。いちばん有名な巌流島の決闘ですら、武蔵本人は一行も書いていません。
では、武蔵自身は自分の人生をどう書いたのか。実は『五輪書』の書き出しに、本人が書いた短い履歴書があります。十三歳で初めて勝負をし、二十八、九歳までに六十余度戦い、三十歳を過ぎて勝った理由を疑い直し、五十歳でようやく道にかなったと思え、六十歳で筆を執った。
この記事では、その本人の記述を背骨にして、宮本武蔵の生涯をたどります。そのうえで、巌流島・吉岡一門・小次郎といった有名な話が、いつ、誰が書いた、どの史料から来たのかを一つずつ分けていきます。
なお、『五輪書』の名言そのものは、別の記事で十二句を読んでいます。こちらは「武蔵が何を言ったか」ではなく、「どう生きて、その言葉がどの場面から出てきたか」の記事です。
宮本武蔵とは ― 先に「二人の武蔵」を分けておく
武蔵について書かれたものは、大きく二つに分かれます。
一つは、武蔵本人が書いたものです。『五輪書』、細川家に出したとされる『兵法三十五箇条』、亡くなる直前の日付がある『独行道(どっこうどう)』、それに何通かの手紙。武蔵は絵も描いていて、その作品も残っています。
もう一つは、武蔵の死後に、ほかの人が書いたものです。主なものを年の順に並べると、こうなります。
- 承応三年(一六五四) 小倉碑文(こくらひぶん):養子の宮本伊織(いおり)が、武蔵の死の九年後に小倉の手向山(たむけやま)に建てた顕彰碑
- 寛文十二年(一六七二) 沼田家記(ぬまたかき):細川家の家老・沼田家の記録
- 元文二年(一七三七) 歌舞伎の狂言『敵討巌流島(かたきうちがんりゅうじま)』
- 宝暦五年(一七五五) 武公伝(ぶこうでん):熊本の二天一流の系統で書かれた伝記
- 安永五年(一七七六) 二天記(にてんき):豊田景英(とよだ かげひで)が『武公伝』をもとにまとめた伝記
- 昭和十年〜十四年(一九三五〜三九) 吉川英治『宮本武蔵』:朝日新聞に連載された小説
今日わたしたちが思い浮かべる武蔵の姿は、ほとんどが一番下の小説から来ています。そして小説は、そのひとつ上の『二天記』を大きな下敷きにしています。
つまり、本人の筆から離れるほど、話は細かく、劇的になっていく。これがこの記事の見取り図です。
一、本人が書いた履歴書 ― 十三歳から二十八、九歳まで
まず、本人の記述を読みます。『五輪書』の序の前半です。
【書き下し】時に寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後(ひご)の地、巌殿山(いはとのやま)に上り、天を拝し観音を礼(らい)し、仏前に向ひ、生国(しやうごく)播磨(はりま)の武士、新免武蔵藤原玄信(しんめんむさしふぢはらのげんしん)、年つもりて六十。我、若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして初めて勝負を為す。その相手、新当流の有馬喜兵衛といふ兵法者に打ち勝ち、十六歳にして但馬(たじま)国秋山といふ強力(がうりき)の兵法者に打ち勝ち、二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に逢ひて、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ずといふ事なし。その後、国々所々に至り、諸流の兵法者に行き逢ひ、六十余度まで勝負すといへども、一度もその利を失はず。その程、年十三より二十八九までの事なり。
寛永二十年(一六四三)の十月、武蔵は六十歳でした。ここから数えると、生まれは天正十二年(一五八四)になります。これが一般的な説です。ただし、宮本家の系図には天正十年(一五八二)の生まれとするものもあり、生年ははっきり決まっていません。
「生国(しやうごく)播磨(はりま)の武士」と、武蔵は自分で書いています。播磨はいまの兵庫県南西部です。一方で、美作(みまさか、いまの岡山県北東部)の宮本村の生まれとする説も有名です。こちらは江戸後期の地誌『東作誌(とうさくし)』に由来し、吉川英治の小説もこの説をとりました。本人の記述に従えば播磨ですが、両方の土地に武蔵の生誕地を名乗る場所があります。
名乗りの「新免(しんめん)」は、父とされる新免無二(しんめん むに)の姓です。無二は十手(じって)の使い手だったと伝えられます。ただし、無二と武蔵が実の親子か養父子かについても説が分かれています。
さて、この履歴書で目を引くのは、勝負の相手の書き方です。十三歳の相手は「新当流の有馬喜兵衛」、十六歳の相手は「但馬(たじま)国秋山といふ強力(がうりき)の兵法者」。名前が出てくるのはこの二人だけです。二十一歳で都に上ってからの勝負は「天下の兵法者に逢ひて、数度の勝負」、その後は「諸流の兵法者に行き逢ひ、六十余度」。まとめて数で書いてあるだけで、相手の名前も、場所も書いてありません。
吉岡一門も、巌流島も、この「数度」と「六十余度」の中に入っているはずです。武蔵は、それを名指しで書く必要を感じていなかった。この点を覚えておいてください。
出典:五輪書 序
二、二十一歳、都へ ― 吉岡一門の話はどこから来たか
天正十二年生まれとすると、二十一歳は慶長九年(一六〇四)です。関ヶ原の戦いの四年後、京都には室町将軍家の兵法師範だったと伝わる吉岡家がありました。
『五輪書』には「天下の兵法者」としか書かれていない相手を、吉岡家だと名指ししたのは小倉碑文です。碑文は漢文で、おおよそ次のように書いています。
- 吉岡家の当主・清十郎と、京都の郊外「蓮台野(れんだいの)」で勝負し、木刀の一撃で倒した
- 弟の伝七郎とも戦い、これを倒した
- 吉岡家の又七郎が、洛外の「下松(さがりまつ)」のあたりに、門弟数百人を集めて待ち受けた。武蔵はこれを退けた
「下り松の決闘」の骨格は、ここですでにできています。ただし、この碑を建てたのは武蔵の養子の伊織です。父の顕彰のための碑ですから、武蔵に有利に書かれていて当然、と考えておくのが公平でしょう。実際、吉岡側の記録『吉岡伝』には、勝負は引き分けだったとする異なる話が残っています。
では、武蔵自身は「ひとりで大勢と戦う」ことについて何も書いていないのか。書いています。水の巻の「多敵(たてき)の位」という段です。
【書き下し】多敵(たてき)の位と云ふは、一身にして大勢と戦ふ時の事なり。我刀・脇差をぬきて、左右へひろく太刀を横にすてて構るなり。敵は四方よりかかるとも、一方へおひまはす心なり。敵かかる位、前後を見分けて、先へ進む者に早くゆき合ひ、大きに目を付けて、敵打ち出すくらゐを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、行く太刀にて前の敵を切り、戻る太刀にて脇に進む敵を切る心なり。太刀を振り違へて待つ事悪し。早く両脇の位に構へ、敵の出たる所を強く切り込み、おつくづして、其の儘又敵の出たる方へかかり、ふりくづす心なり。いかにもして、敵をひとへに、うをつなぎ(魚繋)におひなす心にしかけて、敵のかさなると見えば、其の儘間をすかさず、強くはらひこむべし。
刀と脇差の両方を抜き、四方から来る敵を一方向へ追い回して、魚を数珠つなぎにするように一列に並べる。受けに回って「次はどこから来るか」と待っていると、はかどらない。
この段が下り松の体験から生まれたのかどうかは、わかりません。武蔵はそうは書いていないからです。ただ、大勢に囲まれたときの動き方を、ここまで具体的に書ける人だったことは確かです。そして武蔵は、この技を日頃から大勢を寄せて稽古せよと、稽古の方法として書き残しました。伝説として語るのではなく、再現できる手順として書く。ここに武蔵という人の性格がよく出ています。
三、巌流島 ― 『五輪書』には一行も出てこない
いよいよ巌流島です。
よく知られた筋書きは、こうです。慶長十七年(一六一二)四月十三日、豊前小倉(いまの北九州市)と長門下関のあいだの小島で、武蔵は佐々木小次郎と戦った。武蔵はわざと遅れて到着し、苛立った小次郎が刀の鞘を海に投げ捨てると、「小次郎、敗れたり」と言った。武蔵は船の櫂(かい)を削った木刀で、小次郎を一撃で倒した。
この話を、史料の古い順に並べ直してみます。
① 小倉碑文(一六五四)
相手は「岩流(がんりゅう)」と呼ばれる兵法の達人で、名字も「小次郎」という名も書かれていません。岩流は真剣での勝負を求め、武蔵は木の武器で応じた。場所は長門と豊前のあいだの海の「舟島(ふなしま)」。そして碑文は「両雄同時に相会し」と書いています。二人は同時に島に着いた、つまり遅刻の話はありません。 刀の長さも書かれていません。
② 沼田家記(一六七二)
細川家の家老の記録です。こちらはまったく違う話を伝えています。武蔵は約束に反して弟子を連れて島に渡った。小次郎はいったん倒れたが息を吹き返し、隠れていた武蔵の弟子たちに打ち殺された、というのです。武蔵に都合の悪い話ですが、これも一つの記録です。
③ 敵討巌流島(一七三七)
歌舞伎の狂言に「佐々木巌流」という役名で出てきます。「佐々木」という名字がつくのは、ここが最初とされています。
④ 武公伝(一七五五)・二天記(一七七六)
ここで「巌流小次郎」という名前が出てきます。『二天記』は注で「佐々木小次郎」と書き、決闘の年を慶長十七年とし、小次郎を十八歳の若者としました。武蔵が遅れて到着した話は『武公伝』に、伝え聞いた話として載っています。
⑤ 島の名前
『西遊雑記(さいゆうざっき)』(一七八三)は、土地の人が岩流の墓を作り、それ以来この島を「岩龍島」と呼ぶようになった、と書いています。もとの名前は、碑文にあるとおり舟島(船島)でした。
こうして並べると、有名な場面の多くが、決闘から百年以上たってから加わったことがわかります。相手の名字も、年齢も、遅刻の話も、最初の碑文にはありません。
一方、決闘の年を慶長十七年とすると、天正十二年生まれの武蔵は数えで二十九歳です。本人が「十三より二十八九まで」と書いた勝負の期間の、ちょうど最後にあたります。巌流島は、あったとすれば、若き日の武蔵の最後の大きな勝負だったのかもしれません。それでも武蔵は、この勝負を名指しで書き残しませんでした。
武蔵が『五輪書』で長い刀について書いた段は、あります。ただし、これは巌流島の話ではなく、他の流派への批判として書かれたものです。
【書き下し】他に大きなる太刀をこのむ流有り。我兵法よりして、是れをよわき流と見立つるなり。其の故は、他の兵法いかさまにも、人に勝つと云ふ理を知らずして、太刀の長きを徳として、敵相遠き所より勝ち度(た)しと思ふによつて、長き太刀このむ心有るべし。世の中にいふ、一寸手まさりとて、兵法知らぬものの沙汰なり。然るによつて、兵法の利なくして、長きを以て遠く勝たんとする、それは心のよわき故なるによつて、よわき兵法と見立つるなり。若(も)し敵相近く、組み合ふほどの時は、太刀長き程打つ事もきかず、太刀のもとをりすくなく、太刀を荷(に)にして、小脇差・手振りの人におとるものなり。長き太刀好む身にしては、其の云ひわけは有るものなれ共、夫(そ)れは其の身ひとりの理なり。世の中の実の道より見る時は、道理なき事なり。長き太刀もたずして、短き太刀にては必ずまくべき事か。或は其の場により、うへした・わきなどのつまりたる所、或は脇差斗りの座にても、長きを好む心、兵法のうたがひとて、あしき心なり。人により少力なるものも有り、其の身により長かたなさす事ならざる身も有り。昔より、大は小をかなふると云へば、むざと長きをきらふには非ず、長きとかたよる心を嫌ふ儀なり。
長い太刀を好むのは、遠くから安全に勝ちたいという「心の弱さ」だ。武蔵は長い刀そのものを否定してはいません。「大は小を兼ねる」とも認めています。嫌うのは、ひとつの道具の長所に偏る心です。
小次郎の長い刀「物干し竿(ものほしざお)」の話も、碑文にはなく、江戸中期以降の伝記で広まったものです。この段を巌流島と結びつけて読むのは、後世の読者の楽しみ方であって、武蔵がそう書いたわけではありません。そこは分けておきましょう。
四、三十歳の振り返り ― 勝った理由を、自分の力にしなかった
履歴書の後半に戻ります。六十余度の勝負を終えた武蔵は、三十歳を過ぎて、こう振り返りました。
【書き下し】三十を越えて跡を思ひ見るに、兵法至極して勝つにはあらず。おのづから道の器用ありて天理を離れざるが故か、又は他流の兵法不足なる所にや。その後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れば、おのづから兵法の道にあふ事、我五十歳のころなり。
勝てたのは、兵法を極めていたからではなかった。 生まれつきの才があったのか、相手の兵法が足りなかったのか。そこから朝も夕も鍛錬を重ね、ようやく道にかなったと思えたのは五十歳のころだった。
ここに、この人の生涯のいちばん大きな転換があります。三十歳から五十歳までの二十年間、武蔵は勝負の記録を伸ばすのをやめ、勝ちの原理を探し直すほうへ向かいました。この一節から出てくる「万事に於て我に師匠なし」の読み方は、名言の記事で詳しく書きました。
その二十年に何をしていたかを、武蔵は火の巻の終わりで少しだけ明かしています。
【書き下し】我若年より以来、兵法の道に心をかけて、剣術一通りの事にも手をからし身をからし、色々様々の心に成り、他の流々をも尋ね見るに、或は口にていひかこつけ、或は手にてこまかなるわざをし、人目によき様に見すると云ても、一ツも実の心に有るべからず。
若いころから剣術一通りのことにも手を尽くし、身を尽くし、他の流派もたずね歩いた。けれど、口先で理屈をつけるもの、手先の細かい技を人目によく見せるものばかりで、本当の心のあるものは一つもなかった。 武蔵はさらに、そうした見せかけの技を身につけることを「道のやまひ」(病)と呼んでいます。一度つくと、後々まで抜けにくいからです。
三十歳の武蔵が疑ったのは、自分の勝利だけではありませんでした。世の中で「兵法」として通っているもの全体を疑い、自分の手で確かめ直した。『五輪書』の風の巻が他流の批判に一巻を割いているのは、この二十年の結果です。
出典:五輪書 火の巻 結び
五、剣術一通りではない ― 大坂の陣と島原の乱
「剣豪」という呼び名のせいで、武蔵は一対一の決闘ばかりしていた人のように思われがちです。けれど、史料で確かめられる武蔵の姿には、合戦に出た武士としての面があります。
慶長十九年から二十年(一六一四〜一五)の大坂の陣では、徳川方の水野勝成(みずの かつなり)の軍に加わっていたことが、記録からわかっています。小説のイメージとは逆に、武蔵は徳川の側で戦っていました。
寛永十四年から十五年(一六三七〜三八)の島原の乱では、五十代半ばで小笠原家の軍に加わりました。このとき武蔵は、日向延岡の城主・有馬直純(なおずみ)に宛てた手紙で、「拙者も石にあたり、すねたちかね申す」と書いています。一揆勢の投げた石が脛に当たって、立っていられないというのです。生涯無敗の剣豪が、合戦では石つぶてで負傷していた。本人の手紙だからこそ残った一行です。
武蔵にとって兵法は、一対一の剣術のことではありませんでした。地の巻の冒頭で、はっきりそう書いています。
【書き下し】夫(そ)れ兵法と云ふ事、武家の法なり。将たる者はとりわき此の法を行ひ、卒たる者も此の道を知るべき事なり。今、世の中に兵法の道慥(たしか)に弁(わきま)へたるといふ武士なし。先(ま)づ道を顕して有るは、仏法として人をたすくる道、又儒道として文(ぶん)の道を糾し、医者といひて諸病を治する道、或は歌道者とて和歌の道ををしへ、或は数寄者(すきしや)・弓法者、其の外諸芸諸能までも、思ひ思ひに稽古し、こころこころにすくものなり。兵法の道にはすく人まれなり。先づ武士は文武二道と云ひて、二ツの道を嗜む事、是れ道なり。縦(たと)ひ此の道ぶきようなりとも、武士たるものはおのれおのれが分際程は、兵の法をばつとむべき事なり。大形(おほかた)武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬると云ふ道を嗜む事と覚ゆる程の儀なり。死する道に於ては、武士ばかりに限らず、出家にても、女にても、百姓以下に至るまで、義理を知り恥を思ひ、死するべきを思ひきる事は、其の差別なきものなり。武士の兵法をおこなふ道は、何事に於ても大にすぐるる所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ、是れ兵法の徳をもつてなり。又世の中に兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきと思ふ心あるべし。其の儀に於ては、何時にても役に立つやうに稽古し、万事に至り役に立つ様に教ゆる事、是れ兵法の実の道なり。
武士は潔く死ぬ覚悟さえあればよい、という通念を、武蔵は退けます。死を覚悟することなら、出家でも、女性でも、百姓でも同じだ。武士の兵法の値打ちは、実際に勝ち、役に立つことにある。だから、いつでも役に立つように稽古し、どんな場面でも役に立つように教えよ、と。
さらに火の巻では、「一人して十人に勝ち、千人を以て万人に勝つ道理、何の差別有らんや」と書いています。一対一で確かめた勝ちの原理は、そのまま大軍の戦いにも通じる。決闘と合戦の両方をくぐった人だから書けた一文です。
六、熊本へ ― 剣を置いて、筆と絵筆を取る
五十代の武蔵は、養子たちを大名家に仕えさせています。宮本伊織は播磨明石から豊前小倉へ移った小笠原家に仕え、のちに家老になりました。小倉碑文を建てたのが、この伊織です。
寛永十七年(一六四〇)、武蔵は肥後熊本の藩主・細川忠利(ほそかわ ただとし)に招かれ、客分として熊本に移りました。記録に残る待遇は七人扶持・合力米十八石。家臣として大きな禄をもらったのではなく、客として迎えられた形です。翌年二月には忠利に『兵法三十五箇条』を差し出したとされますが、これを後世の作とみる説もあります。忠利はその翌月に亡くなりました。
熊本時代の武蔵は、絵も残しています。枝先にとまるモズを描いた『枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)』は、国の重要文化財に指定されています。剣術家の余技として片づけられない水準の作品です。
武蔵がこうした境地をどう考えていたかは、履歴書の結びに書かれています。「兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事に於て我に師匠なし」。兵法で確かめた理を当てはめれば、ほかの芸も同じように習える、というのです。地の巻にはこうもあります。
【書き下し】道に於て、儒者・仏者・数寄者・しつけ者・乱舞者、此等の事は武士の道にはなし。其の道に有らずと云ふとも、道を広く知れば、物事に出あふ事なり。何れも人間(じんかん)に於て、我道我道を能(よ)く磨く事肝要なり。
儒学も仏教も茶の湯も舞も、武士の道そのものではない。けれど道を広く知っていれば、いろいろな物事に出会える。それぞれが自分の道をよく磨くこと。剣を置いて絵筆を取った晩年の武蔵は、この一文をそのまま生きていたように見えます。
出典:五輪書 地の巻
七、霊巌洞と、最後の一週間
寛永二十年(一六四三)十月、六十歳の武蔵は熊本の西、岩戸山(巌殿山)に登りました。雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の奥にある洞窟「霊巌洞(れいがんどう)」が、その場所として伝えられています。『五輪書』の序は、書き始めた時刻まで書いています。「十月十日の夜、寅の一点」。午前四時ごろです。
それから一年半あまりのち、正保二年(一六四五)五月、武蔵は『五輪書』を弟子の寺尾孫之丞(てらお まごのじょう)に授けました。師導の底本は、その相伝の奥書をそのまま残しています。風の巻の最後の段です。
【書き下し】我が一流に於て、太刀に奥口なし、構に極りなし。唯心を以て其の徳を弁ふる事、是れ兵法の肝心なり。
「我が一流においては、太刀に奥も表もなく、構えに決まった形もない。ただ心によってその働きの本質をわきまえること――これこそ兵法の肝心である」。そしてその直後に、日付と名前が続きます。
【書き下し】正保二年五月十二日 新免(しんめん)武蔵
武蔵が亡くなったのは、その七日後の五月十九日でした。六十二歳(天正十二年生まれとして数え年)。熊本で没し、墓所「武蔵塚」は熊本市北区の弓削(ゆげ)にあります。
同じ五月十二日の日付を持つのが、二十一か条の短い心得『独行道』です。「我、事において後悔せず」の一条が有名ですが、奥書が別の筆で書かれていることなどから、その成り立ちを疑う見方もあります。師導は『独行道』を収録していないので、原文へのリンクは張っていません。
『五輪書』は、武蔵の自筆本が残っていません。いま読めるのは、寺尾孫之丞から弟子へ、さらにその弟子へと書き写されてきた写本です。師導の底本の奥書にも、寛文七年(一六六七)に寺尾夢世勝延(むせい かつのぶ、孫之丞のこと)から山本源介へ伝えたことが記されています。武蔵が死の一週間前に手渡した本が、手から手へ写されて、いまここに届いているわけです。
出典:五輪書 風の巻 結び
吉川英治の武蔵 ― 沢庵とお通はどこから来たか
最後に、小説の話をしておきます。
吉川英治の『宮本武蔵』は、昭和十年から十四年(一九三五〜三九)にかけて朝日新聞に連載され、国民的な人気を得ました。暴れ者の若者「たけぞう」が、沢庵和尚に導かれ、恋人のお通を想いながら、剣の道を通じて人間として成長していく。今日の武蔵像の中心は、この物語です。
ただし、武蔵と沢庵が会ったことを示す確かな記録はありません。二人の師弟関係は小説の創作です。お通も同じです。
沢庵が剣について書いた『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』は実在する書で、師導にも収録しています。ただしその宛先は、将軍家の兵法師範だった柳生但馬守宗矩(やぎゅう たじまのかみ むねのり)で、武蔵ではありません。剣と禅を結びつける「剣禅一如(けんぜんいちにょ)」の代表的な書として、『五輪書』と並べて読まれてきたために、小説の中で二人が結びつけられた、と考えるのが自然でしょう。
吉川英治は、小説の下敷きに『二天記』を大きく使ったとされます。本人の筆から、碑文へ、伝記へ、歌舞伎へ、そして小説へ。武蔵の物語は、三百年かけて少しずつ書き足されてきたのです。
本人が書いたこと、後世が書いたこと
ここまでを一覧にしておきます。
| 話 | 武蔵本人の記述 | 最初に出てくる史料 |
|---|---|---|
| 十三歳の初勝負(有馬喜兵衛) | 『五輪書』序に名指しで | ― |
| 十六歳の勝負(但馬の秋山) | 『五輪書』序に名指しで | ― |
| 六十余度の勝負で無敗 | 『五輪書』序 | ― |
| 吉岡清十郎・伝七郎・又七郎 | 名前なし(「天下の兵法者」) | 小倉碑文(一六五四) |
| 巌流島の決闘 | なし | 小倉碑文(相手は「岩流」) |
| 「佐々木」という名字 | なし | 歌舞伎『敵討巌流島』(一七三七) |
| 武蔵の遅刻 | なし(碑文は「同時に相会し」) | 『武公伝』(一七五五) |
| 小次郎は十八歳 | なし | 『二天記』(一七七六) |
| 島原の乱で石に当たる | 有馬直純あての手紙 | ― |
| 沢庵に導かれる・お通 | なし | 吉川英治の小説(一九三五〜) |
| 霊巌洞で執筆 | 『五輪書』序に日付と山の名 | 洞窟の名は伝承 |
結び――自分で書いた年譜
孔子は「吾(われ)十有五にして学に志す」と、自分の人生を十五・三十・四十・五十・六十・七十の六段階で語りました。武蔵も『五輪書』の序で、同じように自分の人生を年齢で区切っています。十三、十六、二十一、二十八九、三十、五十、六十。
ただ、二人の年譜には違いがあります。孔子の六段階は、ひたすら上っていく階段です。武蔵の年譜には、途中で一度、来た道を疑い直す段があります。三十歳で、勝ったのは強かったからではないと書き、そこから二十年かけて確かめ直した。
後世の人々は、武蔵の人生を勝負の場面で埋めていきました。吉岡一門、下り松、巌流島、遅刻、鞘を捨てた小次郎。どれも劇的で、どれも本人は書いていません。本人が自分の人生で一番大事だと考えて書き残したのは、勝負の場面ではなく、勝った理由を疑った三十歳と、ようやく道にかなったと思えた五十歳のほうでした。
会社の歴史を語るとき、わたしたちもつい、勝った場面を並べたくなります。大きな受注、ライバルとの競争、逆転劇。武蔵なら、そこは「数度」「六十余度」と数で済ませて、その勝ちが本当に実力だったのかを疑い直した年のほうを書くでしょう。自分で書く年譜に何を残すか。武蔵の履歴書は、その選び方の手本になります。
この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・現代語訳と解説つきで収録しています。『五輪書』は地・水・火・風・空の五巻を通して読めます。
→ 五輪書の名句一覧
→ 不動智神妙録の名句一覧
武蔵の言葉そのものを読むなら、こちらの記事です。
→ 五輪書の名言12選 — 原文・現代語訳と、剣術の本の形をした物の見方
自分の書に自分の人生を書いた著者たちの記事もあります。
→ 世阿弥の生涯 ― 『風姿花伝』年来稽古条々で読む、将軍の寵愛から佐渡配流まで
→ 白隠禅師の生涯 ― 修行で心身を壊した若き日と、『夜船閑話』に書いた回復の技法
→ 吾十有五にして学に志す — 孔子の人生六段階と、経営者の歩み方