夜船閑話 / 本文
公先に心火逆上して此重痾を發す。若し心を降下せずんば、縱ひ三界の秘密を行じ盡したりとも起つこと得じ。且つ又我が形模、道家者流に類するを以て、大に釋に異なる者とするか、是禪なり。佗日打發せば、大に笑つべきの事有らむ。夫觀は無觀を以て正觀とす。多觀の者を邪觀とす。向きに公多觀を以て此重症を見る。今是を救ふに無觀を以てす、また可ならずや。
新字:公先に心火逆上して此重痾を発す。若し心を降下せずんば、縦ひ三界の秘密を行じ尽したりとも起つこと得じ。且つ又我が形模、道家者流に類するを以て、大に釈に異なる者とするか、是禅なり。佗日打発せば、大に笑つべきの事有らむ。夫観は無観を以て正観とす。多観の者を邪観とす。向きに公多観を以て此重症を見る。今是を救ふに無観を以てす、また可ならずや。
書き下し
公先に心火逆上して此重痾を発す。若し心を降下せずんば、縦ひ三界の秘密を行じ尽したりとも起つこと得じ。且つ又我が形模、道家者流に類するを以て、大に釈に異なる者とするか、是禅なり。佗日打発せば、大に笑つべきの事有らむ。夫観は無観を以て正観とす。多観の者を邪観とす。向きに公多観を以て此重症を見る。今是を救ふに無観を以てす、また可ならずや。
現代語訳
おまえは先に、心の火が逆上してこの重い病を発した。もし心を降ろさなければ、たとえ三界のあらゆる秘法を行じ尽くしても、起き上がることはできない。また、わたしの様子が道家の者に似ているからといって、仏教とは大いに異なる者だと思うか。これは禅なのである。いつか悟りが開ければ、大いに笑うべきことがあるだろう。そもそも観法は、観じないことをもって正しい観とし、多く観じることを邪な観とする。先におまえは多く観じたことによってこの重い病を見た。いまこれを救うのに観じないことをもってする。それもまたよいではないか。
解説
白幽は、自分の教えが道教めいて見えても、本質は禅だと言い切る。儒・道・仏の境界にこだわる白隠の心を見透かしているのである。そして、観は無観をもって正観とす、という核心を示す。考え詰めて観じすぎたことが病の原因なら、観じないことが治療になる。やりすぎたことを、さらに別のやり方で上乗せするのではなく、手放すことで解決する。何事も足し算で解決しようとする癖を持つ人には、引き算の知恵を教える段だ。
この章句が説くこと
無観正観手放す禅引き算本質
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