師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 張儀列伝

張儀者、魏人也。始嘗與蘇秦俱事鬼谷先生、學術、蘇秦自以不及張儀。張儀已學游說諸侯。嘗從楚相飲、已而楚相亡璧、門下意張儀、曰、儀貧無行、必此盜相君之璧。共執張儀、掠笞數百、不服、醳之。其妻曰、嘻、子毋讀書游說、安得此辱乎。張儀謂其妻曰、視吾舌尚在不。其妻笑曰、舌在也。儀曰、足矣。

新字:張儀者、魏人也。始嘗与蘇秦俱事鬼谷先生、學術、蘇秦自以不及張儀。張儀已學游説諸侯。嘗従楚相飲、已而楚相亡璧、門下意張儀、曰、儀貧無行、必此盗相君之璧。共執張儀、掠笞数百、不服、醳之。其妻曰、嘻、子毋読書游説、安得此辱乎。張儀謂其妻曰、視吾舌尚在不。其妻笑曰、舌在也。儀曰、足矣。

書き下し

張儀は、魏人なり。始め嘗て蘇秦と倶に鬼谷先生に事へ、術を学ぶ。蘇秦自ら張儀に及ばずと以(おも)ふ。張儀已に游説を諸侯に学ぶ。嘗て楚相に従ひて飲む。已にして楚相璧を亡ふ。門下、張儀を意ひて曰く、「儀は貧にして行無し、必ず此れ相君の璧を盗めり」と。共に張儀を執へ、掠笞すること数百、服せず、之を醳す。其の妻曰く、「嘻、子、書を読み游説する毋くんば、安ぞ此の辱を得んや」と。張儀、其の妻に謂ひて曰く、「吾が舌を視るに尚ほ在りや不や」と。其の妻笑ひて曰く、「舌在るなり」と。儀曰く、「足れり」と。

現代語訳

張儀は魏の人で、蘇秦とともに鬼谷先生に学び、蘇秦自身が「張儀にはかなわない」と認めるほどの才能があった。あるとき張儀は、楚の宰相の宴席に同席したが、その後、宰相の宝玉(璧)が紛失した。宰相の家来たちは「張儀は貧乏で素行が悪い、きっとこいつが盗んだ」と決めつけ、張儀を捕らえて数百回も鞭打った。それでも張儀は白状せず、ついに釈放された。妻が「ああ、あなたが本を読んで遊説などしなければ、こんな屈辱を受けずにすんだのに」と嘆くと、張儀は妻に問うた。「私の舌はまだあるか、見てくれ」。妻が笑って「舌はありますよ」と答えると、張儀は言った。「それで十分だ」。

解説

どん底の屈辱の中でも、自分の「本当の武器」が無事なら再起できる——目的意識と精神の強靭さを示す、有名な「吾が舌を視るに尚ほ在りや」の一段です。張儀は無実の罪で捕らえられ、数百回も鞭打たれるという極限の屈辱を受けました。妻が「学問など始めなければ」と嘆く中、彼が真っ先に確かめたのは、傷ついた体でも、財産でも、名誉でもなく、「舌がまだあるか」——つまり、自分の唯一にして最大の武器である弁舌の力が失われていないか、でした。舌さえあれば、また立ち上がって天下を動かせる。ここに、逆境における再起の要諦があります。人は苦境で、失ったもの(面子、財産、健康)に目を奪われがちです。しかし本当に大切なのは、自分の核となる強み・能力が残っているかどうか。それさえ無事なら、必ず再起できる。組織や事業でも、大きな失敗や損失に直面したとき、「何を失ったか」ではなく「まだ何が残っているか(自社の核となる技術・人材・強み)」に目を向けられるかが、復活の分岐点になります。張儀は、屈辱の直後に自分の武器の健在を確認し、『足れり(それで十分だ)』と言い切った。この徹底した目的意識と楽観こそが、後に秦の宰相として天下を動かす原動力となりました。

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ