戦国策 / 秦一・張儀說秦王
張儀說秦王曰:「臣聞之,弗知而言為不智,知而不言為不忠。為人臣不忠當死,言不審亦當死。雖然,臣願悉言所聞,大王裁其罪。臣聞,天下陰燕陽魏,連荊固齊,收餘韓成從,將西南以與秦為難。臣竊笑之。世有三亡,而天下得之,其此之謂乎!臣聞之曰,『以亂攻治者亡,以邪攻正者亡,以逆攻順者亡』。今天下之府庫不盈,囷倉空虛,悉其士民,張軍數千百萬,白刃在前,斧質在後,而皆去走,不能死,罪其百姓不能死也,其上不能殺也。言賞則不與,言罰則不行,賞罰不行,故民不死也。「今秦出號令而行賞罰,不攻無攻相事也。出其父母懷袵之中,生未嘗見寇也,聞戰頓足徒裼,犯白刃,蹈煨炭,斷死於前者比是也。夫斷死與斷生也不同,而民為之者是貴奮也。一可以勝十,十可以勝百,百可以勝千,千可以勝萬,萬可以勝天下矣。今秦地形,斷長續短,方數千里,名師數百萬,秦之號令賞罰,地形利害,天下莫如也。以此與天下,天下不足兼而有也。是知秦戰未嘗不勝,攻未嘗不取,所當未嘗不破也。開地數千里,此甚大功也。然而甲兵頓,士民病,蓄積索,田疇荒,囷倉虛,四鄰諸侯不服,伯王之名不成,此無異故,謀臣皆不盡其忠也。「臣敢言往昔。昔者齊南破荊,中破宋,西服秦,北破燕,中使韓、魏之君,地廣而兵強,戰勝攻取,詔令天下,濟清河濁,足以為限,長城、鉅坊,足以為塞。齊,五戰之國也,一戰不勝而無齊。故由此觀之,夫戰者萬乘之存亡也。「且臣聞之曰:『削株掘根,無與禍鄰,禍乃不存。』秦與荊人戰,大破荊,襲郢,取洞庭、五都、江南。荊王亡奔走,東伏於陳。當是之時,隨荊以兵,則荊可舉。舉荊,則其民足貪也,地足利也。東以強齊、燕,中陵三晉。然則是一舉而伯王之名可成也,四鄰諸侯可朝也。而謀臣不為,引軍而退,與荊人和。今荊人收亡國,聚散民,立社主,置宗廟,令帥天下西面以與秦為難,此固已無伯王之道一矣。天下有比志而軍華下,大王以詐破之,兵至梁郭,圍梁數旬,則梁可拔。拔梁,則魏可舉。舉魏,則荊、趙之志絕。荊、趙之志絕,則趙危。趙危而荊孤。東以強齊、燕,中陵三晉,然則是一舉而伯王之名可成也,四鄰諸侯可朝也。而謀臣不為,引軍而退,與魏氏和,令魏氏收亡國,聚散民,立社主,置宗廟,此固已無伯王之道二矣。前者穰侯之治秦也,用一國之兵,而欲以成兩國之功。是故兵終身暴靈於外,士民潞病於內,伯王之名不成,此固已無伯王之道三矣。「趙氏,中央之國也,雜民之所居也。其民輕而難用,號令不治,賞罰不信,地形不便,上非能盡其民力。彼固亡國之形也,而不憂民氓,悉其士民,軍於長平之下,以爭韓之上黨,大王以詐破之,拔武安。當是時,趙氏上下不相親也,貴賤不相信,然則是邯鄲不守,拔邯鄲,完河間,引軍而去,西攻脩武,踰羊腸,降代、上黨。代三十六縣,上黨十七縣,不用一領甲,不苦一民,皆秦之有也。代、上黨不戰而已為秦矣,東陽河外不戰而已反為齊矣,中呼池以北不戰而已為燕矣。然則是舉趙則韓必亡,韓亡則荊、魏不能獨立。荊、魏不能獨立,則是一舉而壞韓,蠹魏,挾荊,以東弱齊、燕,決白馬之口,以流魏氏。一舉而三晉亡,從者敗。大王拱手以須,天下遍隨而伏,伯王之名可成也。而謀臣不為,引軍而退,與趙氏為和。以大王之明,秦兵之強,伯王之業,地尊不可得,乃取欺於亡國,是謀臣之拙也。且夫趙當亡不亡,秦當伯不伯,天下固量秦之謀臣一矣。乃復悉卒乃攻邯鄲,不能拔也,棄甲兵怒,戰慄而卻,天下固量秦力二矣。軍乃引退,并於李下,大王又并軍而致與戰,非能厚勝之也,又交罷卻,天下固量秦力三矣。內者量吾謀臣,外者極吾兵力。由是觀之,臣以天下之從,豈其難矣。內者吾甲兵頓,士民病,蓄積索,田疇荒,囷倉虛;外者天下比志甚固。願大王有以慮之也。「且臣聞之,戰戰慄慄,日慎一日。苟慎其道,天下可有也。何以知其然也?昔者紂為天子,帥天下將甲百萬,左飲於淇谷,右飲於洹水,淇水竭而洹水不流,以與周武為難。武王將素甲三千領,戰一日,破紂之國,禽其身,據其地,而有其民,天下莫不傷。智伯帥三國之眾,以攻趙襄主於晉陽,決水灌之,三年,城且拔矣。襄主錯龜,數策占兆,以視利害,何國可降,而使張孟談。於是潛行而出,反智伯之約,得兩國之眾,以攻智伯之國,禽其身,以成襄子之功。今秦地斷長續短,方數千里,名師數百萬,秦國號令賞罰,地形利害,天下莫如也。以此與天下,天下可兼而有也。「臣昧死望見大王,言所以舉破天下之從,舉趙亡韓,臣荊、魏,親齊、燕,以成伯王之名,朝四鄰諸侯之道。大王試聽其說,一舉而天下之從不破,趙不舉,韓不亡,荊、魏不臣,齊、燕不親,伯王之名不成,四鄰諸侯不朝,大王斬臣以徇於國,以主為謀不忠者。」
新字:張儀説秦王曰:「臣聞之,弗知而言為不智,知而不言為不忠。為人臣不忠当死,言不審亦当死。雖然,臣願悉言所聞,大王裁其罪。臣聞,天下陰燕陽魏,連荊固斉,収余韓成従,将西南以与秦為難。臣竊笑之。世有三亡,而天下得之,其此之謂乎!臣聞之曰,『以乱攻治者亡,以邪攻正者亡,以逆攻順者亡』。今天下之府庫不盈,囷倉空虚,悉其士民,張軍数千百万,白刃在前,斧質在後,而皆去走,不能死,罪其百姓不能死也,其上不能殺也。言賞則不与,言罰則不行,賞罰不行,故民不死也。「今秦出号令而行賞罰,不攻無攻相事也。出其父母懐袵之中,生未嘗見寇也,聞戦頓足徒裼,犯白刃,蹈煨炭,断死於前者比是也。夫断死与断生也不同,而民為之者是貴奮也。一可以勝十,十可以勝百,百可以勝千,千可以勝万,万可以勝天下矣。今秦地形,断長続短,方数千里,名師数百万,秦之号令賞罰,地形利害,天下莫如也。以此与天下,天下不足兼而有也。是知秦戦未嘗不勝,攻未嘗不取,所当未嘗不破也。開地数千里,此甚大功也。然而甲兵頓,士民病,蓄積索,田疇荒,囷倉虚,四鄰諸侯不服,伯王之名不成,此無異故,謀臣皆不尽其忠也。「臣敢言往昔。昔者斉南破荊,中破宋,西服秦,北破燕,中使韓、魏之君,地広而兵強,戦勝攻取,詔令天下,済清河濁,足以為限,長城、鉅坊,足以為塞。斉,五戦之国也,一戦不勝而無斉。故由此観之,夫戦者万乗之存亡也。「且臣聞之曰:『削株掘根,無与禍鄰,禍乃不存。』秦与荊人戦,大破荊,襲郢,取洞庭、五都、江南。荊王亡奔走,東伏於陳。当是之時,随荊以兵,則荊可舉。舉荊,則其民足貪也,地足利也。東以強斉、燕,中陵三晉。然則是一舉而伯王之名可成也,四鄰諸侯可朝也。而謀臣不為,引軍而退,与荊人和。今荊人収亡国,聚散民,立社主,置宗廟,令帥天下西面以与秦為難,此固已無伯王之道一矣。天下有比志而軍華下,大王以詐破之,兵至梁郭,囲梁数旬,則梁可抜。抜梁,則魏可舉。舉魏,則荊、趙之志絶。荊、趙之志絶,則趙危。趙危而荊孤。東以強斉、燕,中陵三晉,然則是一舉而伯王之名可成也,四鄰諸侯可朝也。而謀臣不為,引軍而退,与魏氏和,令魏氏収亡国,聚散民,立社主,置宗廟,此固已無伯王之道二矣。前者穰侯之治秦也,用一国之兵,而欲以成両国之功。是故兵終身暴霊於外,士民潞病於內,伯王之名不成,此固已無伯王之道三矣。「趙氏,中央之国也,雑民之所居也。其民軽而難用,号令不治,賞罰不信,地形不便,上非能尽其民力。彼固亡国之形也,而不憂民氓,悉其士民,軍於長平之下,以争韓之上党,大王以詐破之,抜武安。当是時,趙氏上下不相親也,貴賤不相信,然則是邯鄲不守,抜邯鄲,完河間,引軍而去,西攻脩武,踰羊腸,降代、上党。代三十六県,上党十七県,不用一領甲,不苦一民,皆秦之有也。代、上党不戦而已為秦矣,東陽河外不戦而已反為斉矣,中呼池以北不戦而已為燕矣。然則是舉趙則韓必亡,韓亡則荊、魏不能独立。荊、魏不能独立,則是一舉而壊韓,蠹魏,挟荊,以東弱斉、燕,決白馬之口,以流魏氏。一舉而三晉亡,従者敗。大王拱手以須,天下遍随而伏,伯王之名可成也。而謀臣不為,引軍而退,与趙氏為和。以大王之明,秦兵之強,伯王之業,地尊不可得,乃取欺於亡国,是謀臣之拙也。且夫趙当亡不亡,秦当伯不伯,天下固量秦之謀臣一矣。乃復悉卒乃攻邯鄲,不能抜也,棄甲兵怒,戦慄而卻,天下固量秦力二矣。軍乃引退,并於李下,大王又并軍而致与戦,非能厚勝之也,又交罷卻,天下固量秦力三矣。內者量吾謀臣,外者極吾兵力。由是観之,臣以天下之従,豈其難矣。內者吾甲兵頓,士民病,蓄積索,田疇荒,囷倉虚;外者天下比志甚固。願大王有以慮之也。「且臣聞之,戦戦慄慄,日慎一日。苟慎其道,天下可有也。何以知其然也?昔者紂為天子,帥天下将甲百万,左飲於淇谷,右飲於洹水,淇水竭而洹水不流,以与周武為難。武王将素甲三千領,戦一日,破紂之国,禽其身,拠其地,而有其民,天下莫不傷。智伯帥三国之眾,以攻趙襄主於晉陽,決水灌之,三年,城且抜矣。襄主錯龜,数策占兆,以視利害,何国可降,而使張孟談。於是潜行而出,反智伯之約,得両国之眾,以攻智伯之国,禽其身,以成襄子之功。今秦地断長続短,方数千里,名師数百万,秦国号令賞罰,地形利害,天下莫如也。以此与天下,天下可兼而有也。「臣昧死望見大王,言所以舉破天下之従,舉趙亡韓,臣荊、魏,親斉、燕,以成伯王之名,朝四鄰諸侯之道。大王試聴其説,一舉而天下之従不破,趙不舉,韓不亡,荊、魏不臣,斉、燕不親,伯王之名不成,四鄰諸侯不朝,大王斬臣以徇於国,以主為謀不忠者。」
書き下し
張儀秦王に說きて曰わく、「臣之を聞く、知らずして言うは不智と為し、知りて言わざるは不忠と為す。人臣為りて不忠なれば當に死すべく、言審らかならざるも亦た當に死すべし。然りと雖も、臣願わくは聞く所を悉く言わん、大王其の罪を裁せよ。臣聞く、天下陰かに燕、陽に魏、荊に連なり齊に固く、餘韓を收めて從を成し、將に西南して以て秦の難を為さんとすと。臣竊かに之を笑う。世に三亡有りて、天下之を得るは、其れ此の謂いか。臣之を聞きて曰わく、『亂を以て治を攻むる者は亡び、邪を以て正を攻むる者は亡び、逆を以て順を攻むる者は亡ぶ』と。今天下の府庫盈たず、囷倉空虛にして、其の士民を悉くし、軍を張ること數千百萬、白刃前に在り、斧質後に在れど、皆去りて走り、死する能わず、其の百姓死する能わざるを罪すと雖も、其の上殺す能わざるなり。賞を言えば則ち與えず、罰を言えば則ち行われず、賞罰行われず、故に民死せざるなり。「今秦號令を出だして賞罰を行い、攻不攻相い事とす。其の父母懷袵の中を出でて、生まれて未だ嘗て寇を見ざるも、戰を聞けば頓足徒裼し、白刃を犯し、煨炭を蹈み、死を前に斷つ者是に比す。夫れ死を斷ずると生を斷ずるとは同じからざるも、民之を為す者は是れ奮を貴べばなり。一以て十に勝つべく、十以て百に勝つべく、百以て千に勝つべく、千以て萬に勝つべく、萬以て天下に勝つべし。今秦の地形、長を斷ちて短を續ぎ、方數千里、名師數百萬、秦の號令賞罰、地形の利害、天下之に如くは莫し。此を以て天下と、天下兼ねて之を有つに足らず。是れ秦戰いて未だ嘗て勝たずんばあらず、攻めて未だ嘗て取らずんばあらず、當たる所未だ嘗て破らずんばあらざるを知るなり。地を開くこと數千里、此れ甚だ大功なり。然れども甲兵頓れ、士民病み、蓄積索き、田疇荒れ、囷倉虛しく、四鄰の諸侯服せず、伯王の名成らず。此れ異故無く、謀臣皆其の忠を盡くさざればなり。「臣敢えて往昔を言わん。昔者齊南は荊を破り、中は宋を破り、西は秦を服し、北は燕を破り、中は韓・魏の君を使い、地廣くして兵強く、戰勝攻取して天下に詔令し、濟清河濁、以て限と為すに足り、長城・鉅坊、以て塞と為すに足る。齊は五戰の國なるも、一戰勝たずして齊無し。故に此に由りて之を觀れば、夫れ戰は萬乘の存亡なり。「且つ臣之を聞きて曰わく、『株を削り根を掘れば、禍と鄰たること無く、禍乃ち存せず』と。秦荊人と戰い、大いに荊を破り、郢を襲い、洞庭・五都・江南を取る。荊王亡走し、東のかた陳に伏す。是の時に當たりて、荊に隨うに兵を以てせば、則ち荊舉ぐべし。荊を舉ぐれば、則ち其の民貪るに足り、地利するに足る。東は以て齊・燕を強くし、中は三晉を陵ぐ。然らば則ち是れ一舉にして伯王の名成すべく、四鄰の諸侯朝せしむべし。而るに謀臣為さず、軍を引きて退き、荊人と和せり。今荊人亡國を收め、散民を聚め、社主を立て、宗廟を置き、天下を帥いて西面して秦の難を為さしむ。此れ固に已に伯王の道無きこと一なり。天下志を比べて華下に軍す。大王詐を以て之を破り、兵梁郭に至り、梁を圍むこと數旬にして、則ち梁拔くべし。梁を拔けば、則ち魏舉ぐべし。魏を舉ぐれば、則ち荊・趙の志絕ゆ。荊・趙の志絕ゆれば、則ち趙危うし。趙危うくして荊孤なり。東は以て齊・燕を強くし、中は三晉を陵ぐ。然らば則ち是れ一舉にして伯王の名成すべく、四鄰の諸侯朝せしむべし。而るに謀臣為さず、軍を引きて退き、魏氏と和し、魏氏をして亡國を收め、散民を聚め、社主を立て、宗廟を置かしむ。此れ固に已に伯王の道無きこと二なり。前者穰侯の秦を治むるや、一國の兵を用いて、兩國の功を成さんと欲す。是の故に兵終身外に暴靈し、士民內に潞病し、伯王の名成らず。此れ固に已に伯王の道無きこと三なり。「趙氏は中央の國にして、雜民の居る所なり。其の民輕くして用い難く、號令治まらず、賞罰信ならず、地形便ならず、上其の民力を盡くす能わず。彼固より亡國の形なるも、民氓を憂えず、其の士民を悉くし、長平の下に軍し、以て韓の上黨を爭う。大王詐を以て之を破り、武安を拔く。是の時に當たりて、趙氏上下相親しまず、貴賤相信ぜず。然らば則ち是れ邯鄲守らず、邯鄲を拔き、河間を完うし、軍を引きて去り、西のかた脩武を攻め、羊腸を踰え、代・上黨を降す。代三十六縣、上黨十七縣、一領の甲を用いず、一民を苦しめず、皆秦の有なり。代・上黨戰わずして已に秦と為り、東陽河外戰わずして已に反りて齊と為り、中の呼池以北戰わずして已に燕と為らん。然らば則ち是れ趙を舉ぐれば則ち韓必ず亡び、韓亡ぶれば則ち荊・魏獨立する能わず。荊・魏獨立する能わざれば、則ち是れ一舉にして韓を壞り、魏を蠹み、荊を挾み、東は以て齊・燕を弱め、白馬の口を決して以て魏氏に流す。一舉にして三晉亡び、從者敗る。大王拱手して以て須てば、天下遍く隨いて伏し、伯王の名成すべし。而るに謀臣為さず、軍を引きて退き、趙氏と和を為す。大王の明、秦兵の強きを以て、伯王の業、地尊きを得べからずして、乃ち亡國に欺かるるを取る、是れ謀臣の拙なり。且つ夫れ趙當に亡ぶべくして亡びず、秦當に伯たるべくして伯たらず、天下固より秦の謀臣を量ること一なり。乃ち復た卒を悉くして邯鄲を攻むるも、拔く能わず、甲兵を棄てて怒り、戰慄して卻く。天下固より秦の力を量ること二なり。軍乃ち引きて退き、李下に并す。大王又軍を并せて與に戰うに致すも、能く厚く之に勝つに非ず、又交ごも罷れて卻く。天下固より秦の力を量ること三なり。內には吾が謀臣を量り、外には吾が兵力を極む。是に由りて之を觀れば、臣天下の從を以て、豈其れ難からんや。內には吾が甲兵頓れ、士民病み、蓄積索き、田疇荒れ、囷倉虛し。外には天下志を比ぶること甚だ固し。願わくは大王以て之を慮る有れ。「且つ臣之を聞く、戰戰慄慄として、日に一日を慎むと。苟くも其の道を慎まば、天下有つべし。何を以て其の然るを知るや。昔者紂天子と為り、天下を帥いて甲百萬を將い、左は淇谷に飲み、右は洹水に飲み、淇水竭きて洹水流れずして、以て周武の難を為す。武王素甲三千領を將い、戰うこと一日にして、紂の國を破り、其の身を禽にし、其の地に據りて、其の民を有つも、天下傷まざるは莫し。智伯三國の眾を帥い、以て趙の襄主を晉陽に攻め、水を決して之に灌ぎ、三年にして、城且に拔けんとす。襄主龜を錯き、策を數え兆を占い、以て利害を視、何れの國か降すべきかを、張孟談をして使いせしむ。是に於いて潛かに行きて出で、智伯の約に反き、兩國の眾を得て、以て智伯の國を攻め、其の身を禽にし、以て襄子の功を成す。今秦の地、長を斷ちて短を續ぎ、方數千里、名師數百萬、秦國の號令賞罰、地形の利害、天下之に如くは莫し。此を以て天下と、天下兼ねて之を有つべし。「臣死を昧して大王に見えんことを望み、天下の從を舉げ破り、趙を舉げ韓を亡ぼし、荊・魏を臣とし、齊・燕を親しみ、以て伯王の名を成し、四鄰の諸侯を朝せしむるの道を言う所以なり。大王試みに其の說を聽くに、一舉にして天下の從破れず、趙舉がらず、韓亡びず、荊・魏臣とせられず、齊・燕親しまず、伯王の名成らず、四鄰の諸侯朝せずんば、大王臣を斬りて以て國に徇え、以て主の為に謀りて不忠なる者とせよ。」
現代語訳
張儀は秦王に説いて言った。「私はこう聞いております。知らないのに発言するのは不智であり、知っていながら発言しないのは不忠である、と。人の臣下でありながら不忠であれば死罪に当たり、発言が的確でなくてもまた死罪に当たります。とはいえ、私は聞き及んでいることをすべて申し上げますので、大王がその罪をお裁きください。私が聞くところでは、天下の諸国は密かに燕と手を結び、表向きは魏と結び、楚と連携し斉と固く結び、韓の残りの力もまとめて合従を成し、まさに西南から秦に対して事を構えようとしているとのことです。私はひそかにこれを笑っております。世には国を滅ぼす三つの原因があると申しますが、天下がそれを実行しようとしているのは、まさにこのことでしょう。私はこう聞いております。『乱をもって治を攻める者は滅び、邪をもって正を攻める者は滅び、逆をもって順を攻める者は滅ぶ』と。今、天下の国々の府庫は満たされず、倉は空っぽで、その士民をことごとく動員し、数百万という大軍を編成し、目の前に白刃、背後に処刑用の斧と台がありながら、みな逃げ去って命を惜しみ、死ぬことができません。これはその民が命を惜しんでいるからだと責めるべきではなく、その君主が民を統制しきれていないからです。褒賞を約束しても実際には与えず、刑罰を宣言しても実際には行わない。賞罰が実行されないから、民は命を懸けて戦おうとしないのです。「ところが秦は号令を出せば賞罰を必ず実行し、攻めるか攻めないかは互いの功に応じて処遇します。父母の懐に抱かれて育ち、生まれてこのかた敵と戦ったことのない若者であっても、戦と聞けば足を踏み鳴らし着物の袖をまくり上げ、白刃をものともせず、熱く焼けた炭さえ踏みしめ、死を目前にしても引かない者ばかりです。死を覚悟することと生きることを望むことは同じではありませんが、それでも民がそうするのは、勇み立つことを尊ぶ気風があるからです。一人で十人に勝ち、十人で百人に勝ち、百人で千人に勝ち、千人で万人に勝ち、万人で天下に勝つことができるのです。今、秦の地形は、長いところを切り詰め短いところを継ぎ足せば、四方数千里に及び、名だたる軍勢は数百万、秦の号令や賞罰の徹底ぶり、地形の有利さは、天下のどの国も及びません。これをもって天下と対峙すれば、天下をすべて併せ持つことすら難しくありません。だから秦は戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず奪い取り、当たる敵を必ず打ち破ってきたのです。数千里もの土地を切り開いたことは、まことに大きな功績です。しかしそれでも甲冑や兵器は疲弊し、士民は疲れ果て、蓄えは尽き、田畑は荒れ、倉は空になり、周囲の諸侯は服従せず、覇者・王者としての名声も成し遂げられずにいます。これはほかでもありません、謀臣たちが誰も忠義を尽くしていないからなのです。「私はあえて過去の事例を申し上げましょう。かつて斉は、南は楚を破り、中原では宋を破り、西は秦を服従させ、北は燕を破り、その勢いで韓・魏の君主まで動かし、領土は広く兵は強く、戦えば勝ち攻めれば奪い、天下に号令を発し、澄んだ済水と濁った黄河をもって国境とするに足り、長城と大きな砦をもって要塞とするに足るほどでした。斉は五度の戦に勝った強国でしたが、たった一度の戦に負けただけで、斉という国はなくなってしまいました。これから見れば、そもそも戦とは一万乗の大国の存亡を決するものなのです。「さらに私はこう聞いております。『木の切り株を削り根を掘り起こしておけば、災いが隣り合うこともなく、禍はもう起こらない』と。秦は楚の国と戦い、大いに楚を打ち破り、その都・郢を襲い、洞庭・五都・江南の地を奪いました。楚王は逃げ去り、東方の陳の地に身を潜めました。このとき、なおも楚に軍を差し向けていれば、楚は完全に平定できたはずです。楚を平定していれば、その民は十分に取り込むに値し、その土地は十分に利益となったでしょう。東方では斉・燕を圧迫して強くなり、中原では三晋(韓・魏・趙)を凌駕できたはずです。そうなれば、一挙にして覇者・王者の名声が成し遂げられ、周辺の諸侯を朝貢させることができたでしょう。ところが謀臣たちはそれをせず、軍を引き上げて楚と和睦してしまいました。今や楚は滅びかけた国を立て直し、散り散りになった民を集め、社(土地神)の主を立て、宗廟を再建し、天下を率いて西方から秦に対して事を構えようとしています。これは秦にとって、覇者・王者への道を失った第一の過ちです。「その後、天下の諸侯が志を同じくして華山の麓に軍を集めたことがありました。大王は策略によってこれを打ち破り、軍は梁(魏の都)の外郭まで進み、梁を数十日にわたって包囲すれば、梁を陥落させることができたはずです。梁を陥落させれば魏を平定できたでしょう。魏を平定すれば、楚と趙の連携する志は断たれます。楚と趙の連携が絶たれれば、趙は危うくなり、趙が危うくなれば楚は孤立します。東方では斉・燕を圧迫して強くなり、中原では三晋を凌駕できたはずです。そうなれば、これも一挙にして覇者・王者の名声が成し遂げられ、周辺の諸侯を朝貢させることができたでしょう。ところがまたも謀臣たちはそれをせず、軍を引き上げて魏と和睦し、魏に滅びかけた国を立て直させ、散り散りの民を集めさせ、社の主を立てさせ、宗廟を再建させてしまいました。これは秦にとって、覇者・王者への道を失った第二の過ちです。「先には穰侯が秦の政治を執っていた時、一国分の兵力を用いて、二国分の功績を上げようとしました。そのため軍は長年にわたって国外で酷使され続け、士民は国内で疲弊し続け、結局覇者・王者の名声は成し遂げられませんでした。これは秦にとって、覇者・王者への道を失った第三の過ちです。「趙という国は、中原の中央に位置する国で、さまざまな民族が入り混じって暮らしています。その民は軽薄で統制しにくく、号令は行き届かず、賞罰にも信用がなく、地形も守るに不便で、君主はその民の力を十分に発揮させることができていません。趙はもとより滅びゆく国の兆しを見せていたにもかかわらず、民の苦しみを顧みず、その士民をことごとく動員して長平の地に布陣し、韓の上党をめぐって争いました。大王は策略によってこれを打ち破り、武安の地を陥落させました。この時、趙は上下ともに親しみ合わず、身分の上下も互いに信用し合っていませんでした。ですから、都の邯鄲を守り抜くことなどできなかったはずです。邯鄲を陥落させ、河間の地を完全に手中に収め、そこから軍を引かずに西へ脩武を攻め、羊腸の険を越えて、代・上党を降伏させることができたでしょう。代の三十六県、上党の十七県は、一領の甲冑も用いず、一人の民も苦しめることなく、すべて秦のものとなっていたはずです。代・上党は戦わずしてすでに秦のものとなり、東陽・河外の地は戦わずしてすでに斉に寝返り、中原の呼池以北は戦わずしてすでに燕のものとなっていたことでしょう。そうなれば、趙を平定すれば韓は必ず滅び、韓が滅びれば楚・魏は独立を保てません。楚・魏が独立を保てなければ、これも一挙にして韓を潰し、魏を蝕み、楚を挟み撃ちにし、東方では斉・燕を弱体化させ、白馬の渡し口を決壊させて水を魏に流し込むことすらできたでしょう。一挙にして三晋(韓・魏・趙)は滅び、合従を結んだ国々は敗れ去っていたはずです。大王は腕組みをして待っているだけで、天下はあまねく従って服し、覇者・王者の名声が成し遂げられていたことでしょう。ところがまたも謀臣たちはそれをせず、軍を引き上げて趙と和睦してしまいました。大王の聡明さと秦の軍勢の強さをもってすれば、覇者・王者の事業も、尊い領土も手に入れられたはずなのに、かえって滅びかけていた国に欺かれる結果となりました。これは謀臣たちの拙劣さによるものです。そもそも趙は当然滅びるはずだったのに滅びず、秦は当然覇者となるはずだったのに覇者となれませんでした。天下は改めて、秦の謀臣たちの力量をこう見積もりました――これが一度目です。その後、再び全軍を挙げて邯鄲を攻めましたが、陥落させることができず、甲冑を捨てて怒りながらも、戦いに恐れをなして退きました。天下はこれによって秦の軍事力をこう見積もりました――これが二度目です。軍を引き上げ、李下に集結させ、大王はさらに軍を合わせて戦いに臨みましたが、これといった大勝利を収めることもできず、双方ともに疲れ果てて退却しました。天下はこれによって秦の軍事力をこう見積もりました――これが三度目です。国内では我が国の謀臣の力量を見積もられ、国外では我が軍事力を見極められてしまいました。これらから見て、私が申し上げたいのは、天下の合従を崩すことは決して難しくないということです。国内では我が国の甲冑や兵器は疲弊し、士民は疲れ果て、蓄えは尽き、田畑は荒れ、倉は空になっています。国外では、天下の諸国が志を同じくする結束はきわめて固いままです。どうか大王には、このことをよくお考えいただきたいと存じます。「さらに私はこう聞いております。『戦々恐々として、日々ますます慎み深くあれ』と。もし本当にその道を慎むならば、天下を手中に収めることができましょう。なぜそう言えるのか。昔、紂王は天子として、天下の兵を率いて百万の甲冑の兵を従え、左手では淇水の谷で酒を飲み、右手では洹水で酒を飲み、淇水は涸れ洹水は流れが止まるほど贅を尽くしながら、周の武王に対して事を構えました。武王はわずか三千領の質素な甲冑の兵を率い、たった一日戦っただけで紂の国を打ち破り、紂の身柄を捕らえ、その領土を手に入れ、その民を我がものとしましたが、それでも天下に紂を惜しまぬ者はいませんでした。また智伯は三国の軍勢を率いて、趙の襄主を晋陽で攻め、水を決壊させて城に注ぎ込み、三年にわたって攻め続け、城はまさに陥落しようとしていました。襄主は亀の甲を灼き、筮竹を数えて占い、利害を見極め、どの国に降伏すべきかを検討し、張孟談を使者として遣わしました。張孟談はひそかに城を抜け出し、智伯との盟約を裏切らせ、韓・魏の二国の軍勢を味方につけて、智伯の国を攻め、その身柄を捕らえて、襄子の功業を成し遂げさせたのです。今、秦の領土は、長いところを切り詰め短いところを継ぎ足せば四方数千里に及び、名だたる軍勢は数百万、秦国の号令や賞罰の徹底ぶり、地形の有利さは、天下のどの国も及びません。これをもって天下と対峙すれば、天下をすべて併せ持つことができるのです。「私は死を覚悟の上で大王にお目にかかることを望み、天下の合従を打ち破り、趙を平定し韓を滅ぼし、楚・魏を臣従させ、斉・燕と親しく結んで、覇者・王者の名声を成し遂げ、周辺の諸侯を朝貢させる方策について申し上げた次第です。大王が試しにこの意見をお聞き入れになり、それでもなお一挙に天下の合従が崩れず、趙が平定されず、韓が滅びず、楚・魏が臣従せず、斉・燕と親しくならず、覇者・王者の名声が成し遂げられず、周辺の諸侯が朝貢しないようであれば、大王は私を斬って国中に見せしめとし、君主のために不忠な計略を立てた者として処罰なさってください。」