史記 / 蘇秦列伝
燕使約諸侯從親如蘇秦時,或從或不,而天下由此宗蘇氏之從約。代、厲皆以壽死,名顯諸侯。太史公曰:蘇秦兄弟三人,皆游說諸侯以顯名,其術長於權變。而蘇秦被反間以死,天下共笑之,諱學其術。然世言蘇秦多異,異時事有類之者皆附之蘇秦。夫蘇秦起閭閻,連六國從親,此其智有過人者。吾故列其行事,次其時序,毋令獨蒙惡聲焉。
新字:燕使約諸侯従親如蘇秦時,或従或不,而天下由此宗蘇氏之従約。代、厲皆以寿死,名顕諸侯。太史公曰:蘇秦兄弟三人,皆游説諸侯以顕名,其術長於権変。而蘇秦被反間以死,天下共笑之,諱学其術。然世言蘇秦多異,異時事有類之者皆附之蘇秦。夫蘇秦起閭閻,連六国従親,此其智有過人者。吾故列其行事,次其時序,毋令独蒙悪声焉。
書き下し
燕諸侯を約して従親せしむること蘇秦の時の如くせしむ、或いは従ひ或いは不なり、而して天下此に由りて蘇氏の従約を宗とす。代・厲皆寿を以て死し、名諸侯に顕る。太史公曰く、蘇秦兄弟三人、皆諸侯に游説して以て名を顕す、其の術は権変に長ず。而して蘇秦反間を被りて以て死し、天下共に之を笑ひ、其の術を学ぶを諱む。然れども世の蘇秦を言ふは異多く、異時の事の之に類する者有れば皆之を蘇秦に附す。夫れ蘇秦は閭閻より起こり、六国を連ねて従親せしむ、此れ其の智人に過ぐる者有り。吾故に其の行事を列し、其の時序を次で、独り悪声を蒙らしむること毋からしむ。
現代語訳
燕は(蘇代を使って)蘇秦の時代と同じように諸侯に合従の盟約を結ばせようとした。従う国もあれば従わない国もあったが、天下はこれ以来、蘇氏の合従の盟約を手本とした。蘇代と蘇厲はともに天寿を全うして亡くなり、その名は諸侯の間に知れ渡った。太史公は言う。蘇秦兄弟の三人は、みな諸侯に遊説して名を顕したが、その術は臨機応変の駆け引きに長けていた。しかし蘇秦は反間(二重スパイ)の罪を負って死に、天下の人々は皆これを笑い、その術を学ぶことをはばかった。けれども世間で蘇秦について語られることには異説が多く、別の時代の出来事でも、似たようなものがあればみな蘇秦のこととしてしまっている。そもそも蘇秦は村里の庶民から身を起こし、六国を結んで合従の盟約を成し遂げた。これはその知恵に人並み外れたものがあったからである。だからわたしはその事績を並べ、年代の順に整理して、蘇秦一人だけが悪い評判をかぶることのないようにした。
解説
この章句が説くこと
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