史記 / 商君列伝
其明年,齊敗魏兵於馬陵,虜其太子申,殺將軍龐涓。其明年,衛鞅說孝公曰:「秦之與魏,譬若人之有腹心疾,非魏并秦,秦即并魏。何者?魏居領阨之西,都安邑,與秦界河而獨擅山東之利。利則西侵秦,病則東收地。今以君之賢聖,國賴以盛。而魏往年大破於齊,諸侯畔之,可因此時伐魏。魏不支秦,必東徙。東徙,秦據河山之固,東鄉以制諸侯,此帝王之業也。」孝公以為然,使衛鞅將而伐魏。魏使公子卬將而擊之。軍既相距,衛鞅遺魏將公子卬書曰:「吾始與公子驩,今俱為兩國將,不忍相攻,可與公子面相見,盟,樂飲而罷兵,以安秦魏。」魏公子卬以為然。會盟已,飲,而衛鞅伏甲士而襲虜魏公子卬,因攻其軍,盡破之以歸秦。魏惠王兵數破於齊秦,國內空,日以削,恐,乃使使割河西之地獻於秦以和。而魏遂去安邑,徙都大梁。梁惠王曰:「寡人恨不用公叔座之言也。」衛鞅既破魏還,秦封之於、商十五邑,號為商君。
新字:其明年,斉敗魏兵於馬陵,虜其太子申,殺将軍龐涓。其明年,衛鞅説孝公曰:「秦之与魏,譬若人之有腹心疾,非魏并秦,秦即并魏。何者?魏居領阨之西,都安邑,与秦界河而独擅山東之利。利則西侵秦,病則東収地。今以君之賢聖,国頼以盛。而魏往年大破於斉,諸侯畔之,可因此時伐魏。魏不支秦,必東徙。東徙,秦拠河山之固,東郷以制諸侯,此帝王之業也。」孝公以為然,使衛鞅将而伐魏。魏使公子卬将而撃之。軍既相距,衛鞅遺魏将公子卬書曰:「吾始与公子驩,今倶為両国将,不忍相攻,可与公子面相見,盟,楽飲而罷兵,以安秦魏。」魏公子卬以為然。会盟已,飲,而衛鞅伏甲士而襲虜魏公子卬,因攻其軍,尽破之以帰秦。魏恵王兵数破於斉秦,国内空,日以削,恐,乃使使割河西之地献於秦以和。而魏遂去安邑,徙都大梁。梁恵王曰:「寡人恨不用公叔座之言也。」衛鞅既破魏還,秦封之於、商十五邑,号為商君。
書き下し
其の明年、斉魏の兵を馬陵に敗り、其の太子申を虜にし、将軍龐涓を殺す。其の明年、衛鞅孝公に説きて曰く、「秦の魏に与けるは、譬へば人の腹心の疾有るが若し、魏秦を并はするに非ずんば、秦即ち魏を并はせん。何となれば、魏は領阨の西に居り、安邑に都し、秦と河を界として独り山東の利を擅にす。利あれば則ち西のかた秦を侵し、病めば則ち東のかた地を収む。今君の賢聖を以て、国頼りて以て盛んなり。而して魏往年大いに斉に破られ、諸侯之に畔く、此の時に因りて魏を伐つべし。魏秦を支へずんば、必ず東に徙らん。東に徙らば、秦河山の固めに拠り、東に郷ひて以て諸侯を制せん、此れ帝王の業なり」と。孝公以て然りと為し、衛鞅をして将として魏を伐たしむ。魏公子卬をして将として之を撃たしむ。軍既に相距ぐ、衛鞅魏の将公子卬に書を遺りて曰く、「吾始め公子と驩す、今倶に両国の将と為る、相攻むるに忍びず、公子と面りに相見え、盟ひ、楽飲して兵を罷め、以て秦魏を安んずべし」と。魏の公子卬以て然りと為す。会盟已はりて、飲む、而して衛鞅甲士を伏せて襲ひて魏の公子卬を虜にし、因りて其の軍を攻め、尽く之を破りて以て秦に帰る。魏の恵王兵数々斉秦に破られ、国内空しく、日に以て削らる、恐れ、乃ち使をして河西の地を割きて秦に献じて以て和せしむ。而して魏遂に安邑を去り、都を大梁に徙す。梁の恵王曰く、「寡人公叔座の言を用ひざりしを恨む」と。衛鞅既に魏を破りて還る、秦之を於・商の十五邑に封じ、号して商君と為す。
現代語訳
その翌年、斉は馬陵で魏の兵を破り、魏の太子申を捕らえ、将軍の龐涓(ほうけん)を殺した。さらにその翌年、衛鞅は孝公に説いた。「秦と魏の関係は、たとえれば人が腹や胸に病を抱えているようなものだ。魏が秦を併合しなければ、秦が魏を併合することになる。なぜなら、魏は険しい山地の西に位置して安邑を都とし、黄河を挟んで秦と境を接し、崤山より東の利益を独り占めしている。有利なときは西へ向かって秦を侵し、不利なときは東へ退いて領土を固める。いま君の賢明さによって、国はますます盛んになっている。一方、魏は昨年、斉に大敗し、諸侯も魏から離反している。この機に乗じて魏を討つべきだ。魏が秦を支えきれなくなれば、必ず東へ都を移すだろう。そうなれば秦は黄河と山々の要害に拠り、東へ向かって諸侯を制することができる。これこそ帝王の業である。」孝公はもっともだと考え、衛鞅を将軍として魏を討たせた。魏は公子卬(こうしぎょう)を将軍として迎え撃たせた。両軍が対峙すると、衛鞅は魏の将の公子卬に手紙を送って言った。「わたしはかつてあなたと親しくしていた。いま互いに両国の将となったが、攻め合うのは忍びない。あなたと直接会って盟約を結び、楽しく酒を酌み交わして兵を引き、秦と魏を安らかにしたい。」魏の公子卬はもっともだと思った。会盟が終わって酒宴となったところで、衛鞅は伏せておいた兵に公子卬を襲わせて捕らえ、そのまま魏軍を攻めてことごとく破り、秦に帰った。魏の恵王は、たびたび斉と秦に兵を破られ、国内は疲弊し、日に日に領土を削られていたので、恐れて使者を送り、河西の地を割いて秦に献上し和睦した。こうして魏はついに安邑を捨て、都を大梁に移した。梁の恵王は言った。「わたしは公叔座の言葉を用いなかったことを悔やむ。」衛鞅は魏を破って帰還すると、秦は彼を於と商の十五の邑に封じ、商君と号させた。
解説
この章句が説くこと
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