道元(どうげん)という名前は、坐禅と結びついて覚えられています。曹洞宗(そうとうしゅう)を開いた人。福井の永平寺(えいへいじ)を建てた人。「只管打坐(しかんたざ)」、つまり「ただひたすら坐れ」と説いた人。
では、その人がなぜ、そこまで坐ることにこだわったのか。答えは、十代の道元が比叡山で抱いた一つの疑問にあります。人はもともと仏であるはずなのに、なぜ修行しなければならないのか。道元はこの疑問を抱えて比叡山を下り、師を探して京の寺をめぐり、最後は海を渡って宋(いまの中国)まで行きました。そして帰国したとき、自分なりの答えを持ち帰っていました。
この記事では、その生涯を、弟子が書き留めた道元の言葉でたどります。中心になるのは『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』です。道元は弟子たちに、自分の若いころの迷いや、宋で見たこと、師の決断の場面を、たびたび話して聞かせていました。それが残っています。
経営の本として読むなら、これは「手段」だったはずのものを、そのまま「目的」に据え直した人の話です。ただし先に結論を書いてしまうと話が痩せるので、順にたどります。
先に、史料を三つに分けておく
道元の言葉として出回っている文章には、性格の違うものが混ざっています。最初に分けておきます。
一つめは、道元本人が書いたものです。この記事で引く『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、宋から帰国した道元が坐禅の方法と意味を漢文で書いた短い文章で、道元自筆の本(天福元年=一二三三年の天福本)が永平寺に残り、国宝になっています。師導が収めるのは、のちに広まった流布本です。
二つめは、弟子が書き留めたものです。『正法眼蔵随聞記』は、弟子の孤雲懐奘(こうん えじょう)が、嘉禎(かてい)年間(一二三五〜三八年ごろ)に道元の話を聞くたびに書き留めた記録で、懐奘の没後に弟子たちがまとめたとされます。道元の肉声に近い一方、道元自身の筆ではありません。師導は江戸時代に面山(めんざん)が校訂した流布本を収めています。
三つめは、後世の人が道元の言葉から編んだものです。曹洞宗の寺でよく読まれる『修証義(しゅしょうぎ)』は、明治二十三年(一八九〇)に曹洞宗が公布したもので、在家の信者向けに、道元の主著『正法眼蔵』の文章を抜き出して五章三十一節に編み直した書です。冒頭の「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」は有名ですが、道元がこの形で書いた文章ではありません。
【書き下し】生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。
出典:修証義 第一章 総序
さらに、道元の生い立ちや悟りの場面を伝える話の多くは、道元の死後にまとめられた伝記(室町時代の『建撕記(けんぜいき)』など)に拠っています。以下、伝記に拠る話はそう書き添えます。
一、三歳で父を、八歳で母を失う
道元は正治(しょうじ)二年(一二〇〇)一月二日、京都に生まれました。父は内大臣の源(久我)通親(みなもとの みちちか)とする説が有力ですが、その子の通具(みちとも)とする説もあります。母は摂政・関白をつとめた松殿(藤原)基房(もとふさ)の娘と伝えられます。名門の生まれです。
伝記によれば、三歳で父を、八歳で母を亡くしました。母の葬儀で、香の煙が立ちのぼるのを見て世の無常を感じたという話も伝わっています。
道元自身は、のちに弟子たちにこう語っています。
【原文】我れ始てまさに無常によりて、聊か道心を發し、終に山門を辭して遍く諸方を訪ひ、道を修せしに、建仁寺に寓せし中間、正師にあはず、善友なき故に、迷て邪念を起しき、
出典:正法眼蔵随聞記 巻四(続きは同じ巻四)
「無常によって、いささか道心を起こし」。道元が出家の動機として自分で挙げたのは、この一語です。そのうえで、比叡山(山門)を下りて諸方を訪ね歩き、建仁寺に身を寄せていたあいだは「正しい師に逢わず、善き友もなかったので、迷って邪な念を起こした」と、若いころの失敗まで話しています。
その「邪な念」の中身も、同じ段で語られます。当時の師たちは「まず学問で先達に並び、国家に知られ、天下に名を上げよ」と教えた。道元もそれを目標にした。ところが中国の高僧の伝記を読むと、偉い僧たちはそんな生き方をしていない。むしろ名誉を求める心を嫌っている。そこで道元は目標を立て直した、という話です。十代の終わりから二十歳前後の道元は、出世を目指す秀才でもありました。
名門の子らしく、学問もよくできました。随聞記には「わたしは幼いころから外典(仏典以外の書物)を好んで学んだ」「宋に渡って法を伝えるまで、内外の書物を開き、中国の言葉にも通じた」とあり、それを晩年には「学道のさまたげだった」と振り返っています(正法眼蔵随聞記 巻二)。
二、比叡山の疑問 ― もともと仏なら、なぜ修行するのか
建暦(けんりゃく)三年(一二一三)、十四歳の道元は比叡山で天台座主(ざす)の公円(こうえん)について出家しました。
比叡山の天台宗は、「人はもともと仏の性質を具えている」と教えていました。伝記『建撕記』は、ここで道元が大きな疑問にぶつかったと伝えます。人がもともと仏であるなら、昔の仏たちはなぜ発心し、修行して悟りを求めたのか。
この疑問は、ただの理屈ではありません。もともと仏なら修行はいらないはずで、修行がいるなら、もともと仏ではないことになる。どちらかを選ぶと、教えの土台か、修行の意味か、どちらかが崩れます。
道元は比叡山の学僧たちに尋ね歩きましたが、納得のいく答えは得られなかったといいます。三井寺(園城寺)の公胤(こういん)を訪ねると、公胤は建仁寺の栄西(えいさい)のもとへ行くよう勧めた、と伝えられます。公胤の言葉は随聞記にも一つ残っていて、道元は公胤を「故公胤僧正」と呼んで引いています(正法眼蔵随聞記 巻二)。
面白いのは、道元がこの疑問を忘れなかったことです。帰国して最初に書いた坐禅の書『普勧坐禅儀』は、まさにこの問いから書き出されています。
【書き下し】原ぬるに夫れ、道本円通、争でか修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。
出典:普勧坐禅儀 第一段
「たずねてみれば、道はもとより円かに行き渡っているのに、どうして修行や悟りを借りる必要があろうか」。十四歳の疑問を、道元は十数年後に、自分の書の一行目に置きました。その答えは、この記事の後半で出てきます。
三、建仁寺 ― 栄西の寺で見たもの
建仁寺は、宋で禅を学んで帰った栄西が開いた寺です。ただし栄西は建保(けんぽう)三年(一二一五)に亡くなっており、道元が栄西本人に会えたかどうかは、研究者のあいだで意見が分かれています。確かなのは、建保五年(一二一七)、十八歳の道元が建仁寺で栄西の弟子の明全(みょうぜん)に師事したことです。
随聞記には、道元が「故僧正」と呼ぶ栄西の話がいくつも出てきます。有名なのは、貧しい人が「家族が数日食べておらず、餓死しそうだ」と助けを求めてきたとき、寺に何もなかったので、薬師如来の像の光背(こうはい)を作るために延ばしてあった銅を自ら折り曲げて与えた、という話です。弟子たちが「仏の物を私用にした罪はどうなるのか」と責めると、栄西はこう答えたといいます。
【原文】僧正の云く、誠に然り、但し佛意を思ふに、佛は身肉手足を割きて衆生に施こせり、現に餓死すべき衆生には、設ひ佛の全體を以て與ふるとも佛意に合ふべし、亦云く我れは此の罪に依て惡趣に堕すべくとも、只衆生の飢ねを救ふべしと云々、
出典:正法眼蔵随聞記 巻二(話の前半は巻二)
「この罪で悪道に落ちるとしても、ただ衆生の飢えを救うべきだ」。道元はこの話を「先達の心中のたけ」として、弟子たちに忘れるなと言っています。
一方で、道元は建仁寺の変化も見ていました。初めて入ったときと、七、八年後とで、寺が目に見えて緩んでいった、と話しています。
【原文】余始て建仁寺に入りし時見しと、後七八年過て見しと、次第にかはりゆくことは、寺の寮寮に塗籠をおき、各各器物を持し、美服を好み、財物を貯へ、放逸の言語を好み、問訊禮拜等の衰微すること
出典:正法眼蔵随聞記 巻三
寮ごとに物を仕舞い込む部屋を設け、めいめいが道具を持ち、よい衣服を好み、財物を貯え、無駄話が増え、挨拶や礼拝が廃れていく。創業者が亡くなった組織が、十年足らずでどう緩むかを、道元は内側から見ていたことになります。
四、師の枕元か、宋か ― 明全の評議
道元の生涯でいちばん劇的な場面は、道元自身の決断ではなく、師の明全の決断です。随聞記はこれを、道元の語りとして詳しく残しています。
貞応(じょうおう)二年(一二二三)、明全は宋へ渡る準備を整えていました。そこへ、明全が幼いころから育ててくれた比叡山の師・明融(みょうゆう)阿闍梨が重い病に倒れます。
【原文】先師全和尙入宋せんとせし時、本師叡山の明融阿閣梨、重病起り病床にしづみ、既に死せんとす、其の時かの師云く、我既に老病起り、死去せんこと近きにあり、今度暫く入宋をとゝまりたまひて、我が老病を扶けて、冥路を弔ひて、然して死去の後其の本意をとけらるべしと、
出典:正法眼蔵随聞記 巻五
「わたしはもう死が近い。今回はしばらく入宋を思いとどまって、わたしの最期を看取ってほしい。わたしが死んだあとで志を遂げればよい」。恩師にこう頼まれた明全は、弟子や仲間を集めて意見を聞きました。自分を育ててくれた師の恩はもっとも重い。その師の命に背いて宋へ行く道理はあるのか。
弟子たちはみな「今年は留まるべきだ。一年や半年遅れても何の妨げもない」と答えました。そのとき、若い道元も末席から口を開いています。
【原文】時に我れ末臘にて云く、佛法の悟り今はさてかうこそありなんと思召さるゝ儀ならば、御留り然あるべしと、先師の云く、然あるなり、佛法修行これほとにてありなん、始終かくのことくならば、卽ち出離得道たらんかと存すと、我が云く、其の儀ならは御留りたまひてしかあるべしと、
出典:正法眼蔵随聞記 巻五
道元の言い方は巧みです。「仏法の悟りは、もうこれでよいとお考えなら、お留まりになればよいでしょう」。明全が「そうだ、これくらいでよかろう」と応じると、道元は「それならお留まりください」と返した。つまり道元は、留まるか行くかではなく、自分の求法はもう足りているのかどうかに問いを置き換えたのです。
そして明全は、こう結論を出しました。
【原文】我れが所存は然あらず、今度留りたりとも、決定死ぬへき人ならば、其に依て命を保つべきにもあらす、亦我れ留りて看病外護せしによりたりとて、苦痛もやむべからす、亦後に我あつかひすゝめしによりて、生死を離れらるべき道理にもあらす、只一旦命に隨て師の心を慰むるばかりなり、……設ひ亦渡海の間に死して本意をとげずとも、求法の志しを以て死せば、生々の願つきるべからす、
出典:正法眼蔵随聞記 巻五
留まっても、死ぬべき人の命は延びない。看病しても苦痛は止まらない。それはただ一時、師の心を慰めるだけのことだ。もし宋で一分でも悟りを開けば、一人の情に背いても、多くの人が道を得る因縁になる。たとえ渡海の途中で死んでも、志をもって死ぬなら悔いはない。
【原文】故に今度の入宋、一向に思切り畢りぬと云て、終に入宋せられき、
出典:正法眼蔵随聞記 巻五
明全は船に乗りました。道元は二十四歳でした。
この話を、道元は「師匠のため、父母のためと言って、無益なことに時を費やすな」という教えとして弟子たちに語っています。読む側としては、恩と志がぶつかったとき、明全は「自分が留まって何が変わるのか」を一つずつ数えた、という点に目が行きます。情を否定したのではなく、情で動いた場合に実際に何が起きるかを確かめたうえで、決めたのです。
そして、この決断には後日談があります。宋に渡った明全は、二年後の嘉禄(かろく)元年(一二二五)五月、天童山で病に倒れ、四十二歳で亡くなりました。渡海の途中ではありませんでしたが、明全は本当に、志を遂げる前に宋で死んだのです。道元はその遺骨を日本に持ち帰りました。
五、港の船で出会った典座
宋に着いた道元が最初に教えられたのは、高名な禅師からではなく、寺の台所を預かる老僧からでした。
のちに道元が書いた『典座教訓(てんぞきょうくん)』(嘉禎三年=一二三七年ごろ)によれば、港に停泊していた船に、阿育王山(あいくおうざん)の典座(てんぞ=修行僧の食事を担う役)をつとめる老僧が、日本の椎茸を買いに来ました。道元がもてなして引き留めようとすると、老僧は、明日の食事の支度があるから帰らねばならない、と断ります。道元が「そんな雑用は若い者に任せて、坐禅や語録の学びに励めばよいのでは」と言うと、老僧は笑って、あなたはまだ修行とは何か、文字とは何かが分かっていない、と答えたといいます。
天童山に入ってからも、道元は炎天下で「苔(たい)」を干している年老いた典座に出会います(「苔」が何を指すかは、椎茸・海藻など解釈が分かれます)。「なぜ人を使わないのか」と問うと、典座は「他は是れ吾にあらず」(人がやったのでは、わたしがやったことにならない)と答え、「せめて涼しい時にしては」と言うと「更に何れの時をか待たん」(今やらずに、いつやるのか)と返した、と記されています。
『典座教訓』は師導には収録していないので、ここは要旨にとどめます。ただ、料理も掃除も修行そのものだというこの二人の教えは、道元の考えの芯になっていきます。
六、語録をやめた日 ― 「畢竟して何の用ぞ」
宋での道元を変えたもう一人は、名前も残っていない僧でした。
【原文】吾れ在宋の時、禪院にして古人の語錄を見し時、ある西川の僧、道者にてありしが、我に問て云く、語錄を見て何の用ぞ、答て云く、古人の行履を知ん、僧の云く、何の用ぞ、云く郷里にかへりて人を化せん、僧の云く、何の用ぞ、云く利生のためなり、僧の云く、畢竟して何の用ぞと、
出典:正法眼蔵随聞記 巻二
道元が禅寺で古人の語録を読んでいると、四川出身の修行僧が「語録を読んで何になるのか」と聞いてきた。「古人の行いを知るためだ」「それが何になる」「日本に帰って人を教えるためだ」「それが何になる」「人々を利するためだ」「つまるところ、何になるのか」。
道元はこの問いを持ち帰って考え、こう結論しました。
【原文】只管打坐して大事をあきらめなば、後には一字を知らずとも、他に開示せんに用ひつくすべからず、故に彼の僧畢竟してなにの用ぞとは云ひける、是れ眞實の道理なりと思ひて、其の後語錄等を見ることをやめて、一向に打坐して大事を明らめ得たり、
出典:正法眼蔵随聞記 巻二
ここに「只管打坐」の語が出てきます。ただひたすら坐って根本を明らかにすれば、あとで一字も知らなくても、人に示すのに困ることはない。それ以来、語録を読むのをやめて、ひたすら坐った。
「何の用か」を四回重ねる問いは、会議で目的を掘り下げるときの問いと同じ形をしています。ただ、あの僧が突いたのは、目的の目的を問い続けると、手段の側に答えが戻ってくるという点でした。読むことは、人に教えるための準備だった。けれども教える中身は、読むことからは出てこない。
のちに興聖寺で、弟子の懐奘が同じ疑問をぶつけています。語録や公案(禅の問題)を読めば百に一つくらいは分かることもあるが、坐禅にはそれほどの手ごたえもない。それでも坐禅を好むべきか、と。道元の答えはこうでした。
【原文】答て云く、公案話頭を見て聊か知覺有る樣なりとも、それは佛祖の道にとほざかる因緣なり、無所得無所悟にて、端坐して時を移さば、卽祖道なるべし、
出典:正法眼蔵随聞記 巻五
「得るところもなく、悟るところもなく、ただ端坐して時を過ごせば、それが祖師の道である」。手ごたえがないことを、欠点ではなく条件として受け入れる。道元が宋で持ち帰ったのは、この態度でした。
七、如浄と身心脱落
嘉禄元年(一二二五)、天童山に新しい住持として如浄(にょじょう)が入りました。道元はこの人を生涯の師とします。随聞記には、如浄の厳しさと、その裏側が語られています。
【原文】先師天童淨和尙住持のとき、僧堂にて衆僧坐禪の時、眠りを誠しむるに履を以て打ち、謗言呵嘖せしかども、衆僧皆打たるゝを喜び讚歎しき、……諸兄弟慈悲を以て是を許し給へと言へば、衆僧皆流涕しき、
出典:正法眼蔵随聞記 巻一
如浄は坐禅中に眠る僧を履物で打ち、厳しく叱った。それでも僧たちは打たれるのを喜んだ。ある日の説法で如浄は「わたしはもう老いた。本当なら庵で老後を送るべきだが、皆の迷いを破るために住持をしている。そのために叱り、打つ。これは恐れ多いことだ。どうか慈悲をもって許してほしい」と言い、僧たちは涙を流した、という話です。叱る側が、叱ることの重さを自分で口にしていた。
道元が悟った場面として有名なのは、早朝の坐禅で居眠りをする僧を、如浄が「坐禅は身心脱落(身も心も抜け落ちること)でなければならない。ただ眠っていて何になるのか」と叱ったのを聞いて、道元が大悟した、という話です。ただしこの場面を伝えるのは道元の死後にできた伝記(『三祖行業記』『建撕記』など)で、研究者のあいだでは、この場面を史実としてどう扱うかをめぐる検討もあります。
確かなのは、道元が如浄との問答を自分で書き留めた『宝慶記(ほうきょうき)』に、如浄の言葉として「参禅は身心脱落なり。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず、祗管(しかん)に打坐するのみ」とあることです。そして道元自身も、帰国後の『普勧坐禅儀』にこう書いています。
【書き下し】所以に須らく言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし、須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。
出典:普勧坐禅儀 第一段
言葉を追いかけて分かろうとするのをやめ、光を自分に向け返す一歩を学べ。そうすれば身も心もおのずから抜け落ちて、本来の姿が現れる。語録をやめた宋での決断と、身心脱落は、同じ一本の線の上にあります。
八、空手にして郷に還る
安貞(あんてい)元年(一二二七)、道元は帰国しました。二十八歳です。
のちに道元は、宋で得たものを『永平広録(えいへいこうろく)』の説法でこう言い表しています。自分は多くの寺を巡ったわけではない。ただ先師如浄に会って、目は横に、鼻はまっすぐに付いている(眼横鼻直)と知っただけで、人にだまされることがなくなり、手ぶらで故郷に帰ってきた(空手還郷)。形のあるものではなく、ものの見方を持ち帰った、という意味に読まれている言葉です。
持ち帰ったのは方法でした。帰国したその年に書いたのが『普勧坐禅儀』で、題は「普く勧める坐禅の儀(作法)」を意味します。坐る場所、敷物、足の組み方、手の置き方、背筋、目の開け方、息の仕方まで具体的に書き、そのうえで坐禅の意味をこう言い切ります。
【書き下し】所謂坐禅は習禅には非ず、唯是れ安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり。
出典:普勧坐禅儀 第三段
坐禅は、悟りに至るための「禅の習練」ではない。安楽の法門であり、悟りを究め尽くす修行そのものである。
ここで、比叡山の疑問に答えが出ています。もともと仏であるなら、なぜ修行するのか。道元の答えは、修行は悟りを得るための手段ではなく、修行していることがそのまま悟りの現れだ、というものでした。のちに「修証一等(しゅしょういっとう)」「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)」と呼ばれる考え方です。手段と目的を分けたから、疑問が解けなかった。分けるのをやめたところで、疑問が消えた。
しかも道元は、坐る人を選びませんでした。
【書き下し】然れば則ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。専一に功夫せば、正に是れ弁道なり。
出典:普勧坐禅儀 第三段
賢いか愚かか、鋭いか鈍いかを問わない。一心に工夫することが、そのまま道を修めることだ。比叡山で学問の出来を競わされた秀才が、帰国後に最初に書いたのは、学問の出来を問わない方法でした。
九、興聖寺と懐奘 ― 随聞記が書かれた場所
帰国後しばらく建仁寺に身を寄せたのち、道元は京都の南、深草に移り、天福元年(一二三三)に興聖寺(こうしょうじ)を開きました。日本で初めて、中国の禅寺にならった僧堂を備えた寺とされます。
翌年、一人の僧が入門します。孤雲懐奘です。懐奘は建久九年(一一九八)の生まれで、道元より二歳年上でした。以前に建仁寺で道元と数日にわたって法を論じ合ったことがあり、そのときから道元に師事することを願っていたと伝えられます。年上の弟子が、年下の師の言葉を書き留め続けた。それが随聞記です。
随聞記の道元は、しばしば自分の失敗や迷いを話します。宋で如浄から侍者(じしゃ=住持の側近)になるよう請われたとき、「外国人が大寺の侍者になれば、大国に人がいないと謗る者も出るだろう」と考えて辞退した話も、自分から語っています(正法眼蔵随聞記 巻六)。教えを語るより先に、自分がどう迷い、どう決めたかを語る師でした。
十、越前の山へ、そして京都での死
寛元(かんげん)元年(一二四三)、道元は越前国(いまの福井県)の地頭・波多野義重(はたの よししげ)の招きに応じて、京都を離れます。翌寛元二年(一二四四)に大仏寺を開き、寛元四年(一二四六)に永平寺と改めました。
宝治(ほうじ)元年(一二四七)には、執権・北条時頼に招かれて鎌倉へ下りました。時頼は鎌倉に寺を建てて留まるよう求めたとも伝えられますが、道元は翌年には永平寺に戻っています。権力の近くに寺を構えるより、山の中で弟子を育てることを選んだ、と読めます。
建長(けんちょう)五年(一二五三)、病が重くなった道元は、永平寺を懐奘に託して、療養のため京都に上りました。同年八月二十八日、京都の西洞院高辻(にしのとういん たかつじ)で亡くなります。五十四歳でした。
同じ比叡山を下りた、もう一人
道元より二十七歳年上に、同じく比叡山で学び、同じく山を下りた人がいます。親鸞(しんらん)です。
二人が比叡山で突き当たった壁は、裏と表のような関係にあります。道元は「人がもともと仏なら、なぜ修行するのか」と問い、修行そのものを悟りとすることで答えました。親鸞は「どれほど修行しても煩悩を断てない自分は、どうすれば救われるのか」と問い、自分の力で修行して救われようとする心そのものを手放すことで答えました。坐ることに徹した人と、念仏に身を任せた人。鎌倉時代の仏教は、同じ山から出た正反対の二つの答えを持っています。
→ 親鸞の生涯 ― 比叡山の二十年、流罪、妻帯、息子の義絶。歎異抄と妻の手紙でたどる
結び ― 手段を、目的に据え直した人
道元の生涯を並べ直すと、一本の問いが最後まで通っていることが分かります。
十四歳で抱いた「もともと仏なら、なぜ修行するのか」。建仁寺で見た、創業者を失って緩んでいく寺。師の明全が、恩師の枕元よりも宋を選んだ評議。港の典座の「文字とは何か」。四川の僧の「つまるところ何の用か」。如浄の身心脱落。そして帰国して最初に書いた『普勧坐禅儀』の一行目に、十四歳の問いをそのまま置き、同じ書の中で「坐禅は習禅に非ず」と答えた。
仕事で言えば、坐禅は多くの人にとって「悟りのための手段」でした。道元はそれを、手段のまま目的の位置に据え直しました。成果が出るかどうかで方法を評価するのをやめ、方法を正しく続けていること自体を到達点とする。手ごたえがないと訴えた懐奘に「得るところもなく、悟るところもなく、ただ坐れ」と答えたのは、その帰結です。
これは、成果を問わなくてよいという話ではありません。道元自身は、寺の規則から台所の作法まで、驚くほど細かく定めた人です。方法を目的にしたからこそ、方法の細部にいくらでも手間をかけた。「何の用か」と問われても揺らがない仕事は、たいてい、その仕事自体に意味を置いた人から生まれている――道元の生涯は、そう読むこともできます。
この記事の出典について
『正法眼蔵随聞記』は道元の弟子・懐奘の筆録で、道元自身の著作ではありません。師導は面山校訂の流布本を底本とし、巻の分け方は流布本に従っています(古写本の長円寺本とは巻・条の配列が異なります)。引用は底本の原文をそのまま切り出しており、旧字体・仮名遣いも底本のままです。
『普勧坐禅儀』は道元の著作で、師導は流布本の本文を収め、引用は書き下しで示しています。道元自筆の天福本(国宝・永平寺蔵)とは字句に違いがあります。『修証義』は明治二十三年(一八九〇)に曹洞宗が公布したもので、道元の著作から編まれていますが、道元がこの形で書いたものではありません。
道元の生い立ち(父母の名、父母を亡くした年齢、比叡山での疑問、公胤の助言)と、如浄のもとでの大悟の場面は、道元の死後に成った伝記に拠るもので、史実として確定していない部分を含みます。『典座教訓』『宝慶記』『永平広録』は師導に収録していないため、要旨と短い引用にとどめました。年代は一般的な年表に従っています。
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