普勧坐禅儀 / 第三段 坐禅は安楽の法門
然則不論上智下愚、莫簡利人鈍者。專一功夫、正是辨道。修證自不染汚、趣向更是平常者也。
新字:然則不論上智下愚、莫簡利人鈍者。専一功夫、正是弁道。修証自不染汚、趣向更是平常者也。
書き下し
然れば則ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。専一に功夫せば、正に是れ弁道なり。修証自ら染汚せず、趣向更に是れ平常なる者なり。
現代語訳
そうであるから、優れた智慧の者か愚かな者かを論じず、才気のある者か鈍い者かを選り分けてはならない。一心に工夫すれば、それがまさに道を修めることである。修行も証悟もおのずから汚されることなく、そこへ向かう歩みもまた平常そのものである。
解説
坐禅は才能の有無を問わない、という宣言である。頭の良し悪しで道の遠近が決まるなら、機縁の話は一部の天才のものになる。道元はそうではなく、専一に工夫すればそれがそのまま弁道だと言う。染汚せずは、修行を手段として悟りを目的にする打算で汚さない、という意味で読まれる。平常の語は馬祖の平常心是道を思わせる。特別な才能を待たずに、今日の一回をまっすぐやることに価値を置く考え方である。
この章句が説くこと
平常専一弁道才能平等染汚
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