佐藤一斎(さとう いっさい)という名前は、たいてい本の名前と一緒に出てきます。『言志四録(げんししろく)』の著者。西郷隆盛が百一条を書き抜いて手元に置いた本の著者。藩の幹部の心得を十七条にまとめた『重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)』の著者。

では、その人自身はどんな一生を送ったのか。こちらはあまり語られません。

一斎の一生には、ひとつの大きなねじれがあります。一斎が十九歳で藩に出仕した寛政二年(一七九〇)、幕府は自分の学問所で朱子学以外の学問を教えることを禁じました。「寛政異学の禁」です。それから五十一年後、その学問所の長に任じられたのは、若いころから陽明学(ようめいがく)を信じていた一斎でした。

表では朱子学を講じ、内では陽明学を信じる。人はそれを「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」と呼びました。陽(おもて)は朱子、陰(うら)は王陽明、という意味です。

この記事では、一斎の八十八年を、年表と、西郷が書き抜いた百一条のなかから本人の言葉を拾ってたどります。年齢は当時の数え方(数え年)で書きます。

佐藤一斎とは ― 年表で先に見る

先に輪郭を押さえておきます。

  • 安永元年(一七七二) 美濃国岩村藩(いまの岐阜県恵那市岩村町)の家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町の藩邸に生まれる。名は坦(たいら)、通称は捨蔵、号が一斎。
  • 寛政二年(一七九〇)・十九歳 藩主の三男・松平乗衡(のりひら)の近侍(そば仕え)となる。翌年、職を離れる。
  • その後 大坂で中井竹山、京都で皆川淇園に学ぶ。
  • 寛政五年(一七九三)・二十二歳 江戸に戻る。この年、乗衡が幕府の儒官・林家に養子に入り、林述斎(はやし じゅっさい)となる。一斎はその門下に入る。
  • 文化二年(一八〇五)・三十四歳 林家の塾長となる。
  • 文化十年(一八一三)・四十二歳 『言志録』を書き始める。
  • 文政九年(一八二六)・五十五歳 岩村藩の老臣(重臣)に加えられる。
  • 天保十二年(一八四一)・七十歳 述斎が亡くなり、幕府の学問所・昌平坂学問所(昌平黌)の儒官となる。
  • 嘉永六年(一八五三)・八十二歳 『言志耋録』を書き終える。四つの録がそろう。
  • 安政六年(一八五九)九月二十四日・八十八歳 昌平黌の官舎で亡くなる。

七十歳で最高学府の長になり、八十二歳まで書き続け、八十八歳で亡くなるまで官舎にいた。遅咲きというより、ずっと咲き続けた人です。

一、家老の次男と、藩主の三男

一斎の人生を最初に決めたのは、一人の少年との縁でした。

岩村藩主・松平乗薀(のりもり)の三男、乗衡です。一斎より四つ年上のこの若君の近侍に、一斎は十九歳で付けられます。

ところが翌年、一斎はその職を離れます。なぜ離れたのかは、はっきりとは伝わっていません。『日本大百科全書』は、この年に出た寛政異学の禁の「波及効果の一つとして」藩籍を離れ、大坂に出て朱子学を学んだ、と説明しています。若いころから陽明学に惹かれていた家老の息子が、朱子学を正統と定めた幕府の方針と無縁でいられなかった、という見方です。

藩を離れた一斎は、大坂の懐徳堂で中井竹山に、京都で皆川淇園に学びました。どちらも当時一流の学者です。

そして二十二歳のとき、転機が向こうからやってきます。かつて仕えた乗衡が、幕府の儒官を代々つとめる林家に養子として迎えられ、林家の当主・林述斎となったのです。林家は、朱子学の総本山とでもいうべき家でした。一斎は江戸に戻り、その門に入ります。

主君の子と家臣の子として出会った二人は、ここから師と門人として、そして後には学問所を切り盛りする相棒として、五十年近く並んで歩くことになります。

二、林家の塾長として ― 門人三千

三十四歳で、一斎は林家の塾長になりました。以後、昌平黌の儒官になるまでの三十数年、ここで教え続けます。

門下生は三千人と言われます。名前が挙がるのは、佐久間象山、渡辺崋山、山田方谷、大橋訥庵、安積艮斎、中村正直といった人々です。のちに幕末の思想と政治を動かす顔ぶれが、ここを通っています。

教える人としての一斎がどう考えていたかは、西郷が書き抜いた一条によく出ています。

【書き下し】誘掖して之を導くは、教の常なり。警戒して之を喩すは、教の時なり。躬に行うて之を率きゐるは、教の本なり。言はずして之を化するは、教の神なり。抑へて之を揚げ、激して之を進ましむるは、教の権にして変なり。教も亦術多し。

出典:言志四録(南洲手抄)

導く、戒める、自分でやって見せる、言葉なしに感化する、抑えたり煽ったりする。教え方は一つではない、と言いながら、一斎が「本」と呼んだのは自分でやって見せることでした。

門下での有名な逸話があります。天保四年(一八三三)に二十二歳の佐久間象山が、翌天保五年に山田方谷が入門します。二人は「佐門の二傑」と呼ばれましたが、塾では毎晩のように議論を戦わせ、それが深夜まで何日も続きました。ほかの塾生が閉口して一斎に止めてくれと頼むと、一斎は止めず、襖を隔てた隣の部屋で、二人の議論を楽しそうに聞いていたと伝えられています。

答えを与えるより、議論を戦わせるほうを取った。これも「教の術」の一つだったのでしょう。

門人のなかで、一斎の姿をいまに残したのが渡辺崋山です。文政四年(一八二一)、二十九歳の崋山が描いた「佐藤一斎(五十歳)像」は、重要文化財として東京国立博物館に所蔵されています。何枚もの下絵を重ね、顔には西洋画の観察を取り入れた肖像です。一斎は生涯のいくつかの節目に肖像を描かせており、七十歳のときには崋山の弟子・椿椿山が夫妻の像を描いています。

三、四十二歳で書き始めた ― 『言志録』

文化十年(一八一三)、四十二歳の一斎は、一冊の語録を書き始めます。『言志録』です。「志を言う」、つまり自分が何を志しているかを書き留める、という題です。

これが四十年続く仕事の始まりになりました。

  • 『言志録』 四十二歳〜五十三歳(一八一三〜一八二四) 二百四十六条
  • 『言志後録』 五十七歳〜六十七歳(一八二八〜一八三八) 二百五十五条
  • 『言志晩録』 六十七歳〜七十八歳(一八三八〜一八四九) 二百九十二条
  • 『言志耋録(てつろく)』 八十歳〜八十二歳(一八五一〜一八五三) 三百四十条

合わせて千百三十三条。これを総称して『言志四録』と呼びます。

注目したいのは、条の数が年を取るほど増えていることです。最後の『言志耋録』は、わずか三年ほどで三百四十条。八十代の一斎が、いちばん多く書いています。

一斎は、学ぶことを一生の仕事と見ていました。

【書き下し】此の学は吾人一生の負担、当に斃れて後に已むべし。道固より窮り無し。堯舜の上、善尽くること無し。孔子学に志してより七十に至るまで、十年毎に自ら其の進む所有るを覚り、孜孜として自ら彊めて、老の将に至らんとするを知らず。……凡そ孔子を学ぶ者は、宜しく孔子の志を以て志と為すべし。

出典:言志四録(南洲手抄)

学問は一生背負う荷であり、倒れてはじめて降ろせる。孔子は十年ごとに自分の進歩を自覚し、老いが迫るのも忘れて励んだ。孔子を学ぶなら、孔子の到達点ではなく、孔子のを自分の志にせよ、というのです。

孔子が十五歳から七十歳までを十年刻みでたどった「吾十有五にして学に志す」の章を、一斎は「十年ごとの進歩の記録」として読んでいます。孔子の六段階そのものは、別の記事でたどりました。四十二歳から十年刻みで四つの録を書いた一斎は、自分でもその刻みを歩いたことになります。

四、陽朱陰王 ― 表は朱子学、内は陽明学

ここで、一斎を語るときに必ず出てくる言葉を、ていねいに見ておきます。

朱子学は、南宋の朱熹(朱子)が大成した儒学です。物事の道理(理)を一つひとつ学んで窮めていくことを重んじます。江戸幕府はこれを正統の学問とし、林家がその中心にいました。

陽明学は、明の王陽明(王守仁)が唱えた儒学です。道理は外の物にではなく自分の心のなかにある、知ることと行うことは一つだ(知行合一)、と説きます。朱子学から見ると、手順を飛ばした危うい学問に見えました。

一斎は林家の塾長として、また昌平黌の儒官として、公には朱子学を講じました。しかし個人としての信念は陽明学にあった。『日本大百科全書』は、そのため「陽朱陰王」などと陰口をたたかれたと書いています。一方、ウィキペディアは同じ言葉を、学問仲間が尊敬をこめて呼んだ、と説明しています。同じ四文字が、非難にも称賛にも読める。一斎の立ち位置の微妙さが、そのまま出ています。

では一斎自身は、朱子学と陽明学の対立をどう見ていたのか。西郷が書き抜いた百一条のなかに、はっきり書いた一条があります。

【書き下し】朱陸以下各力を得る処有りと雖、而かも畢竟此の範囲を出でず。意はざりき明儒に至つて、朱陸党を分つこと敵讐の如くあらんとは。何を以て然るや。今の学ぶ者、宜しく平心を以て之を待つべし。其の力を得る処を取らば可なり。

出典:言志四録(南洲手抄)

「朱陸」は、朱子と陸象山(りく しょうざん)。陸象山は、のちに王陽明につながる「心の学」の源流です。どちらにも得るところはあるが、結局は同じ範囲のなかにいる。それなのに明代の儒者は、両派に分かれて敵同士のように争った。なぜそうなったのか。今の学ぶ者は、平らな心で向き合い、それぞれの力になるところを取ればよい。

表の立場は朱子学、内の信念は陽明学。そのあいだで一斎が選んだのは、どちらかに乗り換えることではなく、党派そのものを降りることでした。

西郷の抄録には、陽明学の考え方を一斎の言葉で言い直した条もあります。

【書き下し】心の官は則ち思ふ。思の字只是れ工夫の字なり。思へば則ち愈精明なり、愈篤実なり。其の篤実より之を行と謂ひ、其の精明より之を知と謂ふ。知と行とは一の思の字に帰す。

出典:言志四録(南洲手抄)

知と行は、「思う」という一つの根から分かれた二つの面にすぎない。王陽明の「知行合一」を、一斎は「思」の一字で束ねています。

一斎の立場の難しさが表に出たのが、大坂の陽明学者・大塩平八郎との関係です。二人は一度も会ったことがありませんが、たびたび手紙をやりとりしていました。大塩は自著『古本大学刮目』の序文を一斎に頼み、断られています。その大塩は天保八年(一八三七)、飢饉に苦しむ民の救済を掲げて大坂で兵を挙げ、敗れて自害します。一斎、六十六歳の年です。

陽明学を掲げた人が、陽明学を理由に兵を挙げた。朱子学の総本山にいる陽明学者にとって、それがどれほど重い出来事だったかは、想像するしかありません。

王陽明その人がどう生き、なぜ「心の学」にたどり着いたのかは、別の記事でたどりました。

王陽明の生涯 ― 竹を七日見つめて倒れた青年が、流刑地で悟った「知行合一」

五、五十五歳、故郷の藩の重臣に ― 『重職心得箇条』

学者として江戸で生きていた一斎に、五十五歳のとき、生まれた藩から声がかかります。文政九年(一八二六)、新しい藩主・松平乗美(のりよし)のもとで、岩村藩の老臣(重臣)に加えられたのです。

若いころに離れた藩の、今度は重臣です。一斎はこの立場で藩政に意見を出し、藩の幹部が守るべき心得を十七条にまとめました。それが『重職心得箇条』で、一斎の名はこの一冊でも、いまの経営者に読まれています。全十七条は別の記事で読みました。

重職心得箇条(佐藤一斎)全十七条の原文・現代語訳と解説 — 幹部の心得

学者が実務に呼ばれたとき、一斎が大切にしたのは、徳を高い棚に上げないことでした。

【書き下し】智仁勇は、人皆大徳企て難しと謂ふ。然れども凡そ邑宰たる者は、固と親民の職たり。其の奸慝を察し、孤寡を矜み、強梗を折くは、即ち是れ三徳の実事なり。宜しく能く実迹に就いて以て之を試みて可なるべし。

出典:言志四録(南洲手抄)

智・仁・勇と聞けば、誰もが「立派すぎて自分には無理だ」と言う。しかし町や村の長の仕事を見てみよ。悪事を見抜くのが智、身寄りのない者をあわれむのが仁、横暴な者をくじくのが勇。三つの徳は、毎日の職務のなかにすでにある。だから実際の仕事で試せばよい。

朱子学と陽明学の論争から降りた人は、同じように、徳を論じることからも降りて、仕事のなかで徳を試すほうを選んでいます。

六、七十歳、昌平黌の儒官に

天保十二年(一八四一)、林述斎が七十四歳で亡くなります。十九歳で近侍として仕えた若君は、五十年のあいだ、一斎にとって師であり、相棒でした。

その死を受けて、七十歳の一斎は幕府の学問所・昌平坂学問所(昌平黌)の儒官に任じられます。幕府の最高学府で教える、いちばん上の学者の地位です。

十九歳のときに出た「異学の禁」は、この学問所で朱子学以外を教えることを禁じたものでした。その学問所の長に、陽明学を信じる人がなった。一斎は七十歳にして、自分の人生の最初のねじれの、ちょうど真ん中に座ったことになります。

この時期に書き継がれていたのが『言志晩録』です。そのなかの一条、「少(わか)くして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず」は、「三学戒(さんがくかい)」として知られ、いまもよく引かれます(言志晩録の第六十条)。

師導が収めているのは西郷の抄録百一条で、三学戒そのものは入っていません。ただ、同じ考えを別の角度から言った一条が、抄録に入っています。

【書き下し】朝にして食はずば、昼にして饑う。少うして学ばずば、壮にして惑ふ。饑うるは猶忍ぶ可し、惑ふは奈何ともす可からず。

出典:言志四録(南洲手抄)

朝食を抜けば昼に飢える。若いうちに学ばなければ、壮年になって迷う。飢えはまだ我慢できるが、迷いはどうにもならない。

七十歳で最高学府の長になった人の言葉として読むと、重みが変わります。一斎は、若いころに学んだものの上に、壮年と老年の学びを積み続けた人でした。

儒官になってからも、一斎は実務から離れていません。嘉永七年(一八五四)、八十三歳の年には、日米和親条約の締結にあたって、時の大学頭・林復斎を助け、外交文書の作成などに力を尽くしたと伝えられています。

七、八十歳からの『言志耋録』

「耋(てつ)」は、八十歳の老人を指す字です。一斎は八十歳から三年かけて、最後の録を書きました。四つのなかでいちばん条の多い、三百四十条です。

老いについて、一斎はこう書いています。西郷の抄録の、最後に置かれた一条です。

【書き下し】身に老少有りて、心に老少無し。気に老少有りて、理に老少無し。須らく能く老少無きの心を執つて、以て老少無きの理を体すべし。

出典:言志四録(南洲手抄)

体には老いと若さがある。しかし心には老いも若さもない。気力には老いと若さがある。しかし道理には老いも若さもない。だから、年齢のない心で、年齢のない道理を体得せよ。

死についても、一斎は短く書き残しています。

【書き下し】聖人は死を安んず。賢人は死を分とす。常人は死を恐る。

出典:言志四録(南洲手抄)

聖人は死を安らかに受け入れ、賢人は死を当然の分として引き受け、ふつうの人は死を恐れる。抄録には、このあとに「我が身は天物なり」から始まる長い生死論が続いています。

安政六年(一八五九)九月二十四日、一斎は昌平黌の官舎で亡くなりました。八十八歳。墓は東京・六本木の深廣寺にあります。

同じ年の秋、安政の大獄で吉田松陰が処刑されています。松陰は佐久間象山の門人、つまり一斎の孫弟子にあたります。一斎の門から出た人々は、このあと幕府を支える側にも、倒す側にも立ちました。山田方谷は備中松山藩主で老中となった板倉勝静を支え、松陰の門下は倒幕へ向かいます。

八、西郷が書き抜いた百一条

一斎の言葉を、いちばん遠くまで運んだのは西郷隆盛でした。

西郷は千百三十三条のなかから百一条を選んで書き写し、手元に置いていました。これを借り出して評を付け、明治二十一年(一八八八)に『南洲手抄言志録』として出版したのが、日向高鍋藩主の家に生まれた秋月種樹(あきづき たねたつ)です。

秋月は序文で、鹿児島でこの手抄本を見たときのことを書いています。そして、こう続けます。「余嘗て聞く、南洲の学術は余姚(よよう)に基づくと。此の書を得るに及んで、始めて信ぜり」。余姚は王陽明の出身地で、王陽明その人を指す言い方です。西郷の学問は陽明学に基づくと聞いていたが、この書き抜きを見て、はじめて信じた、というのです。

秋月は序文のなかで、西郷が実際に行ったこととして、二つの条を挙げています。一つはこれです。

【書き下し】物我一体は即ち是れ仁なり。我れ公情を執つて以て公事を行ふ、天下服せざる無し。治乱の機は公と不公とに在り。周子曰ふ、己に公なる者は人に公なりと。伊川又公理を以て仁の字を釈す。余姚も亦博愛を更めて公愛と為せり。并せ攷ふ可し。

出典:言志四録(南洲手抄)

公の心で公の事を行えば、天下に従わない者はいない。治まるか乱れるかは、公か私かで分かれる。そして一斎は、周敦頤、程伊川と並べて、最後に「余姚」、つまり王陽明の言葉を挙げています。朱子学の儒官が書いた本のなかで、王陽明が朱子学の先達と同じ列に並んでいる。表と内が、ここではつながっています。

もう一つは、人を動かす原理を書いた一条です。

【書き下し】民の義に因つて以て之を激し、民の欲に因つて以て之を趨らさば、則ち民其の生を忘れて其の死を致さん。是れ以て一戦す可し。

出典:言志四録(南洲手抄)

秋月は、西郷が大軍を率いて一声で万軍を動かしたのは、この条を実行したからだ、と書いています。

朱子学の総本山のなかで、陽明学を内に抱えて生きた一斎の言葉は、その門人たちを通り、書き抜きを通って、陽明学の人と呼ばれる西郷のもとに届きました。西郷が何を読み、何を残したかは、別の記事でたどっています。

西郷隆盛の愛読書 ― 「敬天愛人」の出どころと、敵が作った遺訓

西郷の百一条から、一斎のリーダー論を読んだ記事もあります。

言志四録に学ぶリーダーシップ — 佐藤一斎の言葉と、西郷隆盛の一灯

結び ― 和して、墜ちず

一斎の一生を振り返ると、表と内が一致しない場所に、ずっと立っていた人だとわかります。

朱子学以外を禁じた学問所で、陽明学を信じながら朱子学を講じた。主君の子と家臣の子として出会った述斎と、師弟として、相棒として並び続けた。学者でありながら、藩の重臣として実務の心得を書いた。

そのどれでも、一斎は一方に乗り換えることをしませんでした。表の立場を投げ捨てて陽明学の旗を掲げることもなく、内の信念を捨てて朱子学に染まりきることもなかった。

西郷の抄録には、その生き方を二行で言った一条があります。

【書き下し】寛懐俗情に忤はざるは、和なり。立脚俗情に墜ちざるは、介なり。

出典:言志四録(南洲手抄)

心を広く持って世間に逆らわないのが「和」。足場を守って世間に落ちないのが「介」。和だけなら流され、介だけなら孤立する。一斎は七十年近く、その両方を手放さずに生きました。

組織のなかで、立場と信念が一致しないことは、いまも珍しくありません。辞めるか、染まるか、の二択に見えるとき、一斎は三つめの道を見せてくれます。立場のなかにとどまり、信念を手放さず、党派からは降りる。そして、四十年かけて、自分の志を書き続ける。

この記事の出典について

年表の事実は、主に『日本大百科全書』、デジタル版日本人名大辞典、岐阜県恵那市岩村町の顕彰団体の資料、ウィキペディアの記述を突き合わせて確かめました。資料によって年齢の数え方が違うため、本文は数え年にそろえています。若いころに藩を離れた理由は資料によって説明が一定せず、本文では『日本大百科全書』の説明を紹介するにとどめました。

門下生の数(三千人)は「と言われる」とされる数字です。象山と方谷の議論の逸話は、山田方谷の伝記に伝わるものです。大塩平八郎との関係は、書簡のやりとりと序文の依頼を断った事実までを書き、理由の推測はしていません。

『言志四録』の各録の執筆期間と条数は、一般に示されている数字(言志録二百四十六条・後録二百五十五条・晩録二百九十二条・耋録三百四十条)によりました。三学戒の本文は、師導に収録がないため、よく知られた読み下しで紹介しています。

秋月種樹の序文は、青空文庫が収める『南洲手抄言志録』(底本は岩波文庫『西郷南洲遺訓』、親本は明治二十一年博聞社刊)によりました。本文の読み下しは筆者によるものです。

『言志四録』の引用は、師導が収める西郷の抄録百一条(南洲手抄言志録)の書き下しをそのまま用いています。仮名遣いは底本のままです。各節末のリンクから、その条の原文・現代語訳・解説をご覧いただけます。

関連する章句と記事

同じように、自分の書や弟子の筆録に生涯が残る人たちの記事です。

王陽明の生涯 ― 竹を七日見つめて倒れた青年が、流刑地で悟った「知行合一」
道元の生涯 ― 「なぜ修行するのか」を解きに宋へ渡った人。只管打坐と身心脱落
親鸞の生涯 ― 比叡山の二十年、流罪、妻帯、息子の義絶。歎異抄と妻の手紙でたどる