普勧坐禅儀 / 第一段 道本円通
原夫道本圓通、爭假修證。宗乘自在、何費功夫。況乎全體逈出塵埃兮、孰信拂拭之手段。大都不離當處兮、豈用修行之脚頭者乎。
新字:原夫道本円通、争仮修証。宗乗自在、何費功夫。況乎全体逈出塵埃兮、孰信払拭之手段。大都不離当処兮、豈用修行之脚頭者乎。
書き下し
原ぬるに夫れ、道本円通、争でか修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。況んや全体逈かに塵埃を出づ、孰か払拭の手段を信ぜん。大都当処を離れず、豈に修行の脚頭を用ふる者ならんや。
現代語訳
たずねてみれば、道はもとより円かに通じ満ちているのに、どうして修行や証悟を借りる必要があろうか。仏祖の教えはおのずから自在であるのに、どうして工夫を費やす必要があろうか。まして全体ははるかに塵や埃を抜け出ているのだから、誰が塵を払い拭う手立てなど信じようか。おおよそ道はいまいるこの場を離れていないのだから、どうして修行のために足を運ぶ必要があろうか。
解説
坐禅を勧める書が、修行は要らないという言葉から始まる。道元が中国から帰国した嘉禄三年(一二二七)ごろに書いたとされる、日本曹洞宗の出発点になる一文である。払拭は神秀の偈「時時に勤めて払拭せよ」を踏まえ、塵を払う努力で清らかになるという修行観をまず退けている。道が初めから備わっているのなら、なぜ坐るのか。この問いを読み手に持たせたまま、次の句でその前提を裏返していく構成になっている。
この章句が説くこと
修証本来道払拭坐禅当処
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