親鸞(しんらん)の名前は、たいてい二つの言葉と一緒に覚えられています。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の悪人正機(あくにんしょうき)と、それを伝える『歎異抄(たんにしょう)』です。

けれども、その人がどんな一生を送ったかとなると、あまり知られていません。九歳で出家し、比叡山で二十年修行して、それでも救われる確信を得られずに山を下りた。師の法然(ほうねん)とともに罪に問われて流され、僧でありながら妻を持ち、関東で二十年暮らした。八十四歳で実の息子と縁を切り、九十歳で京都で亡くなった。

しかも、いちばん読まれている『歎異抄』は、親鸞が書いた本ではありません。そして明治の後半には、親鸞という人は実在しなかったのではないか、とまで言われていました。

この記事では、親鸞の生涯を、『歎異抄』と、大正時代に見つかった妻の手紙からたどります。

親鸞とは ― 先に史料を分けておく

親鸞は鎌倉時代の僧で、のちに浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖と仰がれる人です。承安三年(一一七三)に京都の日野に生まれ、弘長二年(一二六二)に九十歳で亡くなりました。

親鸞の生涯を知る手がかりは、性格の違う四種類に分かれます。

  • 本人の著作:主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』、和讃(わさん)、門弟への手紙など。師導には収録していません。
  • 弟子の聞き書き:『歎異抄』。親鸞の死後、弟子の唯円(ゆいえん)が書いたとされます。
  • 家族の手紙:妻・恵信尼(えしんに)が娘に宛てた手紙『恵信尼消息(えしんにしょうそく)』。
  • 後世の伝記:ひ孫の覚如(かくにょ)が永仁三年(一二九五)にまとめた『親鸞伝絵(しんらんでんね)』など。

この記事で引く『歎異抄』は、二つめの聞き書きです。書き手自身が、冒頭でそう断っています。

【原文】よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。

出典:歎異抄 前序

「亡くなった親鸞聖人がお話しになったことのうち、耳の底に残っていることを少し書き留める」。つまり『歎異抄』は、師の没後、教えが食い違っていくのを嘆いた弟子が、記憶を頼りに書いた本です。書名の「歎異」は「異なるを歎く」の意味です。本人の言葉そのものというより、弟子の耳に残った言葉として読む必要があります。

一、九歳の出家と、比叡山の二十年

伝記によれば、親鸞は九歳で、のちに天台座主(てんだいざす)となる慈円(じえん)のもとで得度(とくど)したとされます。これは覚如の伝記などが伝える話です。

その後の二十年は比叡山で過ごしました。何をしていたかを伝えるのは、妻の手紙です。恵信尼は、夫が比叡山で堂僧(どうそう)をつとめていたと書いています。堂僧は、常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)という堂で念仏を続ける役目の僧です。念仏の修行そのものは、山を下りる前からしていたことになります。

それでも親鸞は、自分が救われるという確信を得られませんでした。二十年修行して、なお分からない。この行き詰まりが、親鸞の一生の出発点です。

二、六角堂の九十五日目 ― 山を下りる

建仁元年(一二〇一)、二十九歳の親鸞は比叡山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に百日こもりました。聖徳太子が建てたと伝わる寺です。恵信尼の手紙によれば、九十五日目の明け方、夢に聖徳太子が現れて言葉を示した。親鸞はその足で、東山の吉水(よしみず)で念仏を説いていた法然のもとへ向かいます。

そこからがまた百日です。恵信尼は、夫が雨の日も晴れの日も、どんな日も、百日のあいだ法然のもとへ通ったと書いています。そして、そのころ夫が口にしていた言葉を書き留めました。要旨はこうです。

「人が何と言おうと、たとえ地獄に堕ちると言われようと、法然上人の行かれるところへは、どこへでもついて行く。自分はもともと迷い続けてきた身なのだから」。

二十年の修行で得られなかったものを、親鸞は一人の師に賭けました。

三、「たとい法然聖人にすかされまいらせて」 ― 師に賭けた理由

この賭けを、親鸞は晩年にもう一度、自分の言葉で語っています。『歎異抄』第二条です。場面は京都。関東の門弟たちが、国境をいくつも越え、命がけで訪ねてきました。念仏のほかに、何か特別な救いの道を知っているのではないかと思って来たのです。

【原文】おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。

出典:歎異抄 第二条

親鸞は、それなら奈良や比叡山の立派な学者に聞けばよい、と突き放します。

【原文】親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。

出典:歎異抄 第二条(つづき)

「よき人」とは法然のことです。自分には、法然上人の言葉を信じるほかに何もない。そしてこう続けます。

【原文】念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。 たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。

出典:歎異抄 第二条(つづき)

「念仏が浄土に生まれる種なのか、地獄に堕ちる行いなのか、私はまったく知らない。たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に堕ちたとしても、決して後悔しない」。

なぜ後悔しないのか。理由が次の段にあります。

【原文】そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ。 いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

出典:歎異抄 第二条(つづき)

ほかの修行で仏になれる身なら、だまされたと悔やむこともあるだろう。けれども自分は、どの修行もやり遂げられない身だった。どのみち地獄のほかに行き場はない。比叡山の二十年が、この一行に詰まっています。

第二条は最後に、「念仏を信じるのも捨てるのも、あなたがた一人ひとりの判断だ」と言って終わります(第二条の結び)。命がけで来た弟子に、答えを預けて返している。師に賭けた人が、弟子には自分に賭けさせないのです。

四、法然門下の論争 ― 「信心は一つ」

法然のもとには多くの弟子がいました。若い親鸞(当時は善信房(ぜんしんぼう)と名乗っていました)は、その中で先輩たちと論争になったことがあります。『歎異抄』の後序が、親鸞自身の思い出話として伝えています。

【原文】故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子その数多かりける中に、同じ御信心の人も少なくおわしけるにこそ、親鸞御同朋の御中にして御相論のこと候いけり。

出典:歎異抄 後序

親鸞が「私の信心も、法然上人の信心も一つだ」と言ったところ、勢観房(せいかんぼう)・念仏房(ねんぶつぼう)らの兄弟子が「上人と同じなどとんでもない」と怒った。親鸞は「学識が同じだと言うのではない。往生の信心が同じだと言うのだ」と返しますが、収まらず、法然の前で決着をつけることになりました。

【原文】法然聖人の仰せには、「源空が信心も如来より賜りたる信心なり、善信房の信心も如来より賜らせたまいたる信心なり、さればただ一つなり。別の信心にておわしまさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまい候わじ」と仰せ候いしかば、

出典:歎異抄 後序(つづき)

「私の信心も如来からいただいた信心、善信房の信心も如来からいただいた信心。だから一つだ。別の信心の人は、私が行く浄土へは行けないだろう」。

信心は自分で作るものではなく、いただくもの。だから師と弟子で差がない。この考え方が、のちの親鸞の中心になります。

法然がどんな師だったかは、兼好の『徒然草』にも短く残っています。

【原文】ある人法然上人に、「念佛の時睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何して此の障りをやめ侍らむ。」と申しければ、「目の覺めたらむ程念佛し給へ。」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり。」といはれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念佛すれば往生す。」ともいはれけり。是も亦尊し。

出典:徒然草 第三十九段

念仏の最中に眠くなると相談されて、「目が覚めているあいだに念仏しなさい」。そして「疑いながらでも念仏すれば往生する」。完璧さを求めない師でした。

五、承元の法難 ― 流罪と「僧にあらず俗にあらず」

建永二年(一二〇七)二月、専修念仏(せんじゅねんぶつ)、つまり念仏だけを勧める教えが朝廷から禁じられました。法然の門弟四人が死罪となり、法然と親鸞を含む弟子たちが流罪になります。「承元(じょうげん)の法難」と呼ばれる事件です。

この記録は、室町時代に蓮如(れんにょ)が書き写した『歎異抄』の末尾に付けられて伝わっています(師導の『歎異抄』の章句には入っていません)。それによれば、法然は土佐国へ、親鸞は越後国(いまの新潟県)へ流されました。親鸞は僧の身分を奪われて「藤井善信(ふじいよしざね)」という俗名を与えられ、ときに三十五歳でした。

記録はこう続きます。親鸞は僧としての身分を改められて俗名を与えられた。だから僧でもなく、俗人でもない。そこで「禿(とく)」の字を姓とした、と。親鸞がのちに自分を「愚禿(ぐとく)親鸞」と名乗ったのは、ここからです。罰として押しつけられた立場を、自分の名前として引き受けたことになります。

建暦元年(一二一一)、流罪は解かれました。けれども翌年、法然は京都で亡くなります。親鸞は京都へは戻りませんでした。

六、妻を持った僧 ― 恵信尼と、後世の批判

越後で、親鸞は恵信尼と暮らしていました。越後に所領を持つ三善為教(みよしためのり)の娘と推定される女性で、二人のあいだには子どもが何人も生まれています。のちに京都で父を看取る娘の覚信尼(かくしんに)、そして後に父から縁を切られる息子の善鸞(ぜんらん)もその一人です。

当時、僧が公然と妻を持つことは戒律に背くことでした。親鸞はそれを隠さず、肉食妻帯(にくじきさいたい)の僧として生きました。伝記は、六角堂の夢でその許しを得たと伝えていますが、これは後世の伝承を含む話です。

この生き方は、後世ずっと議論の的でした。江戸時代の農政家・二宮尊徳は、「親鸞が肉食妻帯を許したのは卓見だ」と言った人に、はっきり反対しています。

【原文】或曰、親鸞は末世の比丘戒行の持ち難きを洞察して肉食妻帯を免せり、卓見と云ふべしと、翁曰、恐らくは非ならん、予仏道は知らずといへども、之を譬へば、田地の用水堰の如き物なるべし、夫れ用水堰は、米を作るべき地を潰して水路とせしなり、其の如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生を済度せんとする教なる事明なり、

出典:二宮翁夜話 巻之五

仏法は用水の堰(せき)のようなもので、田にできる土地をわざわざ潰して水路にするから水が流れる。人の欲を潰して法の水路にするのが仏法だ、というのが尊徳の見立てでした。欲を捨てない親鸞への、正面からの批判です。親鸞が選んだのは、この「潰せない欲を持ったまま救われる」という道でした。どちらが正しいかは、読む人の立場で分かれます。

七、関東の二十年と、捨てきれなかった「自力」

建保二年(一二一四)ごろ、親鸞は家族を連れて越後を発ち、関東へ移りました。常陸国(いまの茨城県)の稲田を拠点に、二十年ほど念仏を説いて回ります。主著『教行信証』の草稿も、この時期に書かれたと伝えられます。

この時期の親鸞について、恵信尼の手紙に印象的な話が残っています。寛喜三年(一二三一)、高熱で寝込んだ親鸞が、うわごとのように経を読む夢を見て、目を覚ましてからこう打ち明けたというのです。十七、八年前、人々のためにと浄土三部経を千回読もうと始めたことがある。けれども四、五日でやめた。念仏のほかに何が要るのかと思い直したからだ。それなのに、その気持ちがまだ残っていたのだ、と。

「自分の力で何とかしたい」という心は、分かったつもりでも抜けない。親鸞はそれを、五十九歳になって病床で見つけています。

関東で親鸞のまわりには多くの門弟が集まりましたが、親鸞は彼らを「自分の弟子」とは呼びませんでした。

【原文】つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るることのあるをも、「師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」なんどいうこと不可説なり。 如来より賜りたる信心を、わがもの顔に取り返さんと申すにや。 かえすがえすも、あるべからざることなり。

出典:歎異抄 第六条(つづき)

縁があれば一緒にいるし、縁がなければ離れる。師に背いてほかの人について念仏すれば往生できない、などと言うのはもってのほかだ。信心は如来からいただいたもので、師のものではない。第四節の「信心は一つ」と、同じ考え方です。第六条の前半「親鸞は弟子一人ももたず候」は、別の記事で読みました。

八、悪人正機 ― 誤解と、本人の戒め

親鸞の教えで最も有名な「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(第三条)は、しばしば「悪いことをしたほうが救われる」と誤解されます。

ここで言う「悪人」は、犯罪者のことではありません。自分の力では善を積みきれないと知っている人のことです。自分の善行で救われるつもりの人(善人)より、自分にはそれができないと分かって阿弥陀の願いに身を任せる人(悪人)のほうが、その願いの本来の相手だ、という意味です。第三条の原文と読み方は、別の記事で扱っています。

実際、親鸞の存命中にも「悪人が救われるなら、わざと悪いことをしよう」と言い出す者がいました。親鸞は手紙でそれを止めています。

【原文】そのかみ、邪見におちたる人あって、「悪をつくりたる者を助けんという願にてましませば」とて、わざと好みて悪をつくりて、「往生の業とすべき」由を言いて、ようように悪し様なることの聞こえ候いしとき、 御消息に「薬あればとて毒を好むべからず」とあそばされて候は、かの邪執を止めんがためなり。

出典:歎異抄 第十三条

「薬があるからといって、毒を好んで飲んではいけない」。救いがあることは、悪をしてよい理由にはならない。親鸞自身が、この誤解をはっきり戒めていました。

同じ第十三条には、唯円と親鸞の、ぞっとするようなやりとりも残っています。

【原文】またあるとき、「唯円房はわが言うことをば信ずるか」と仰せの候いし間、 「さん候」と申し候いしかば、 「さらば言わんこと違うまじきか」と重ねて仰せの候いし間、つつしんで領状申して候いしかば、 「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、 「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、 「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。

出典:歎異抄 第十三条(つづき)

「私の言うことを信じるか」「はい」「では、人を千人殺してみよ。そうすれば往生は確かだ」「一人も殺せそうにありません」「それでは、私の言うことに背かないと言ったのはどういうことか」。

親鸞の答えはこうです。

【原文】「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。 しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。 わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」

出典:歎異抄 第十三条(つづき)

人を殺さないのは、心が善いからではない。そうなる巡り合わせ(業縁)がないからにすぎない。巡り合わせ次第では、殺すまいと思っても百人千人を殺すこともある。自分の善さを、自分の手柄にしない。 これが「悪人」の自覚の中身です。

九、帰京と、八十四歳の義絶

六十歳を過ぎたころ、親鸞は関東を離れて京都へ戻りました。晩年の二十数年を、京都で著作と門弟への手紙に費やします。

関東に残った門弟のあいだでは、やがて教えをめぐる混乱が起きました。親鸞は収拾のため、息子の善鸞を関東へ送ります。ところが善鸞は、「自分だけが父からひそかに本当の教えを授かった」と言い出し、混乱をかえって大きくしました。

建長八年(一二五六)五月二十九日付の手紙で、親鸞は善鸞との縁を切ります。「いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり」。八十四歳でした。この手紙は親鸞の直筆が残っておらず、門弟の顕智(けんち)が書き写したものだけが伝わっています。

第四節で、親鸞は「信心は如来からいただくもので、師と弟子で差はない」と言いました。善鸞の「自分だけが特別な教えを受けた」は、その正反対です。親鸞は、自分の教えの核心を守るために、実の息子を切ったことになります。

十、「喜べない」と言った師と、九十歳の死

親鸞は、弟子の前で自分の弱さを隠しませんでした。『歎異抄』第九条で、唯円が思い切って打ち明けます。この対話がいつのものかは分かっていません。念仏しても、躍り上がるような喜びが湧いてこない。早く浄土へ行きたいという気持ちも起きない。これはどういうことでしょうか、と。

【原文】「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。

出典:歎異抄 第九条

「親鸞もこの疑問を持っていたが、唯円房、あなたも同じだったか」。

親鸞はそのうえで、喜べないのは煩悩のせいであり、だからこそ阿弥陀の願いは自分たちのためのものだと分かる、と続けます。

【原文】久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。

出典:歎異抄 第九条(つづき)

「長いあいだ迷い続けてきた苦しみの古里は捨てがたく、まだ生まれてもいない浄土は恋しくない」。念仏を説き続けてきた師が、弟子に向かって「浄土は恋しくない」と言っている。親鸞という人の信用は、こういう正直さにあったのだと思います。

弘長二年(一二六二)十一月二十八日、親鸞は京都で亡くなりました。九十歳(満八十九歳)でした。看取ったのは末娘の覚信尼です。

十一、実在を疑われた人 ― 大正十年の発見

親鸞の死から六百年以上たった明治の後半、近代的な歴史学の立場から、親鸞の実在そのものを疑う説が出ました。明治二十九年(一八九六)、村田勤が『史的批評 親鸞真伝』で親鸞の存在を疑問視しています。同時代の公的な記録に親鸞の名がほとんど見えないことなどが背景にありました。

これを覆したのが、大正十年(一九二一)の発見です。本願寺の史料を調査していた鷲尾教導(わしお きょうどう)が、西本願寺の宝物庫から、恵信尼が娘の覚信尼に宛てた手紙十通を見つけました。これが『恵信尼消息』です。

手紙には、比叡山の堂僧だったこと、六角堂の百日参籠、法然のもとへの百日通い、病床での打ち明け話など、ここまで書いてきた場面が、夫を見てきた妻の筆で書かれていました。親鸞の死を知らせてきた娘への返事の中で、恵信尼は若いころの夫を思い出して書き送っていたのです。この記事の前半は、ほとんどこの手紙に拠っています。

十二、『歎異抄』のその後 ― 泣く泣く書かれ、長く閉じられた本

最後に、この記事で読んできた『歎異抄』そのものの運命です。唯円は、結びにこう書いています。

【原文】悲しきかなや、幸いに念仏しながら、直に報土に生まれずして辺地に宿をとらんこと。一室の行者の中に信心異なることなからんために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。 名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず。

出典:歎異抄 後序(結び)

「同じ念仏の仲間のなかで信心が食い違わないよう、泣く泣く筆をとってこれを記す。名づけて歎異抄という。外部の人に見せてはならない」。

この「外見あるべからず」は、その後も守られました。室町時代に蓮如が書き写した本には、「宿善(しゅくぜん)の機無きにおいては、左右無く之を許すべからず」、つまり仏縁の熟していない人に軽々しく見せてはならない、という奥書が付いています。『歎異抄』が広く読まれるようになったのは、明治になって清沢満之(きよざわ まんし)らが取り上げてからのことです。

同じ明治、福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、親鸞を宗教改革者ルターと並べて論じています。

【原文】上人は西洋に行なわるる仏法を改革して浄土真宗を弘め、ルーザは日本のローマ宗教に敵してプロテスタントの教えを開きたることあらば、

出典:学問のすゝめ 十五編

福沢は、東西の立場を入れ替える思考実験の中で、親鸞の門徒が宗教のために人を殺しも殺されもしなかったことを挙げています。外に見せるなと言われた本の主が、明治には近代の宗教改革者として語られるようになっていました。

同じ時代の、もう一つの道 ― 道元

親鸞が関東で念仏を説いていたころ、二十七歳年下の道元(どうげん)が宋から帰国し、京都で坐禅を説き始めていました。親鸞が「自分の力では何もできない」と知って阿弥陀の力に任せた(他力)のに対し、道元は「ただ坐れ」と坐禅そのものを修行とした(自力)人です。二人が会ったという確かな記録はありません。

同じ比叡山で学び、同じように山の仏教に行き詰まって山を下り、正反対の答えを出した二人です。道元の生涯は、別の記事でたどっています。

道元の生涯 ― 「なぜ修行するのか」を解きに宋へ渡った人。只管打坐と身心脱落

結び ― 自分の手柄にしない人

親鸞の一生を並べ直すと、同じ動きが何度も出てきます。

二十年の修行でも確信を得られなかったとき、自分の努力を手放して師に賭けた。信心は自分で作ったものではないから、師と同じだと言った。弟子を自分の弟子と呼ばなかった。人を殺さないのは心が善いからではない、と言った。自分だけが特別な教えを受けたと言った息子を切った。そして九十歳近くになって、浄土は恋しくない、と弟子に打ち明けた。

どれも、自分の善さや努力や立場を、自分の手柄にしないという一点でつながっています。

組織の中で長く人の上に立つと、うまくいったことを自分の力だと思いたくなります。親鸞は、その気持ちが八十歳を過ぎても消えないことを、自分で見つけて書き残させた人でした。『歎異抄』が七百年以上読まれてきたのは、立派な教えが書いてあるからというより、立派になりきれない人の正直な言葉が書いてあるからだと思います。

この記事の出典について

『歎異抄』の引用は、師導が収録する底本の本文をそのまま切り出しています。『歎異抄』は親鸞の没後に弟子(唯円とされる)が書いたもので、親鸞本人の著作ではありません。流罪の記録(蓮如書写本の付録)、『恵信尼消息』、善鸞への義絶状は師導に収録していないため、要旨と短い引用にとどめ、章句へのリンクは張っていません。

生没年・年齢は数え年です。九歳の出家や六角堂の夢告の内容など、覚如の伝記に拠る部分は後世の伝承を含みます。親鸞と道元が会ったという確かな記録はありません。

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