正法眼蔵随聞記 / 巻二
亦云く、故公胤僧正の云く、道心と云ふは、一念三千の法門なんどを、胸の中に學し入れてもちたるを道心と云ふなり、なにと無く笠を頸に懸て迷ひありくをば、天狗魔緣の行と云ふなり夜話に云く、
新字:亦云く、故公胤僧正の云く、道心と云ふは、一念三千の法門なんどを、胸の中に学し入れてもちたるを道心と云ふなり、なにと無く笠を頸に懸て迷ひありくをば、天狗魔縁の行と云ふなり夜話に云く、
書き下し
亦云く、故公胤僧正の云く、道心と云ふは、一念三千の法門なんどを、胸の中に学し入れてもちたるを道心と云ふなり、なにと無く笠を頸に懸て迷ひありくをば、天狗魔縁の行と云ふなり夜話に云く、
現代語訳
また言われた。故公胤僧正が言われた。道心というのは、一念三千の法門などを胸の中に学び入れて持っているのを道心と言うのである。何ということもなく笠を首に懸けて迷い歩くのを、天狗魔縁の行と言うのである、と。
解説
公胤は天台の学僧で、道心を法門の理解として定義している。行脚して歩き回るだけの姿を天狗魔縁の行と切り捨てるのは、学解を重んじる立場からの厳しい言い方である。道元はこの言葉をそのまま伝えるにとどめており、前後の条で説かれる、学解を捨てて祖師の行履に随えという主張と並べて読ませる形になっている。
この章句が説くこと
道心学解法門行脚天狗一念三千
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