王陽明(おう ようめい)の名前は、「知行合一(ちこうごういつ)」という四文字と一緒に覚えられていることが多いと思います。知ることと行うことは一つである、という教えです。

ただ、この言葉を言った人がどんな一生を送ったのかは、あまり知られていません。若いころ、先生の教えどおりに庭の竹を七日間見つめ続けて、病気で倒れた。宦官(かんがん)に逆らって四十回打たれ、山奥の宿場へ流された。反乱を一か月あまりで鎮めたのに、手柄を妬まれて謀反の疑いまでかけられた。最後は遠征からの帰りの舟の中で、「この心は光明だ。ほかに何を言うことがあろう」と言って亡くなりました。

この記事では、王陽明の生涯を、弟子たちが編んだ言行録『伝習録(でんしゅうろく)』からたどります。『伝習録』は教えを並べた本ですが、読んでいくと、竹の話も、流刑地の話も、戦の合間の講義も、晩年の病も、本人の口から語られています。

先に史料のことを断っておきます。『伝習録』は王陽明が自分で書いた本ではありません。上巻は最初の弟子・徐愛(じょあい)らの筆録、中巻は王陽明が弟子や論敵に宛てた手紙、下巻は晩年の弟子たちの筆録です。生涯の出来事の年月は、主に弟子の銭徳洪(せんとくこう)らがまとめた『年譜』に拠ります。『年譜』は師導に収録していないので、そこから引くときは要旨にとどめます。

王陽明とは ― 先に輪郭を押さえておく

王陽明は、明(みん)の時代の儒学者であり、政治家であり、軍の指揮官です。本名は王守仁(おう しゅじん)。「陽明」は号で、故郷に近い会稽山(かいけいざん)の陽明洞(ようめいどう)に庵を結んだことにちなみます。

生まれは成化8年(1472)、浙江(せっこう)の余姚(よよう)。父の王華(おうか)は、科挙(かきょ)=官僚の採用試験で首席の「状元(じょうげん)」を取った秀才でした。亡くなったのは嘉靖(かせい)7年11月29日。この日付は西暦に直すと1529年1月9日にあたります。年の変わり目をまたぐので、「1528年没」と書かれることもあります。享年は数え年で五十七です。

彼が唱えた学問は、のちに「陽明学(ようめいがく)」と呼ばれます。当時の正統は、南宋の朱熹(しゅき)=朱子が大成した朱子学でした。朱子学では、世の中の一つひとつの物に理(ことわり)があり、それを一つずつ窮めていくことで、やがて全体が分かるとされます。これを「格物(かくぶつ)」、物に格(いた)る、と言います。王陽明の一生は、この「格物」を本気でやってみたところから始まります。

一、竹を七日見つめて倒れた ― 朱子の教えを、本当に試した

晩年の王陽明が、弟子たちに若いころの失敗を打ち明けた一段があります。

【書き下し】先生曰く、「衆人は只だ『格物』は晦翁に依るを要すと説く。何ぞ曾て他の説を把(と)りて去きて用いんや。我は著実に曾て用い来たれり。初年、銭友と同じく聖賢を做すを論ず。天下の物を格せんと要す。如今、安くんぞ這等の大なるの力量を得んや。因りて亭前の竹子を指し、去きて格し看よと令む。銭子、早夜に去きて竹子の道理を窮格し、其の心思を竭くす。三日に至りて、便ち神を労して疾を成すを致す。当初、他は是れ精力、足らずと説く。某、因りて自ら去きて窮格す。早夜、其の理を得ず。七日に到り、亦た思いを労して疾を致す。遂に相い与に嘆ず、聖賢は是れ做し得ざる的なり、他の大力量の去きて物を格す無し、と。

出典:伝習録 黄以方録

晦翁(かいおう)は朱子のことです。「みんな格物は朱子に従えと言う。だが実際に朱子の説を使ってみた者がいるか。私は本当に使ってみた」。友人の銭(せん)という人と、聖人になるために天下の物の理を窮めようと話し合い、手始めに庭先の竹の理を窮めることにした。友人は三日で病気になった。王陽明は「精力が足りないのだ」と言って自分でやってみたが、七日目に同じく病に倒れた。二人は「聖人にはなれない。自分たちには物を窮める力がない」と嘆き合った、という話です。

『年譜』はこれを弘治5年(1492)、二十歳ごろの出来事としています。

笑い話のようですが、ここには王陽明という人の性格がよく出ています。教わったことを、そのとおり本当にやってみる人だったのです。多くの人は朱子の言葉を読んで分かったつもりになり、実際に竹の前に座りはしません。王陽明は座りました。そして、やり方が合っていないという結果を、体で受け取りました。

彼はそのあと、道教や仏教にも深く打ち込んでいます。本人が後年こう振り返っています。

【書き下し】吾も亦た幼より二氏に志を篤くす。自ら謂えらく既に得る所有り、儒者を以て学ぶに足らずと為すと。其の後、夷に居ること三載、聖人の学の、是くの若く其れ簡易広大なるを見得て、始めて自ら三十年の気力を錯り用いしを嘆悔す。

出典:伝習録 薛侃録

二氏は道教と仏教です。「私も幼いころから二つの教えに打ち込み、儒学は学ぶに足りないとさえ思っていた。その後、夷(い)の地に三年住んで、聖人の学がこれほど簡易で広大だと知り、三十年の力を無駄に使ったことを悔いた」。この「夷の地に三年」が、次に書く流刑地のことです。

二、宦官に逆らい、四十回打たれて山奥へ

弘治12年(1499)、王陽明は科挙に合格して官僚になります。転機は正徳(せいとく)元年(1506)に来ました。

当時の皇帝・正徳帝(武宗)のもとでは、劉瑾(りゅうきん)という宦官が権力を握っていました。劉瑾は、自分を批判した官僚たちを捕らえます。王陽明は彼らを救うよう皇帝に上奏し、劉瑾の怒りを買いました。宮廷で棒で四十回打つ「廷杖(ていじょう)」の刑を受け、貴州(きしゅう)の龍場(りゅうじょう)という土地の宿駅の管理役=駅丞(えきじょう)に流されます。

龍場は、都から遠く離れた山の中でした。言葉の通じない土地の人々に囲まれ、住む家もない。『年譜』は、王陽明がここで石の棺を作り、その前で昼も夜も座り続けた、と伝えています。死を覚悟したうえで、それでも残る問いを問い続けた、ということでしょう。

三、龍場の大悟 ― 理は、心の外にはなかった

正徳3年(1508)、数え年で三十七歳のとき、王陽明は龍場で一つの確信に至ります。これを「龍場の大悟(たいご)」と呼びます。『年譜』はその言葉を「聖人の道は、吾が性に自ら足る。向(さき)に理を事物に求めしは誤りなり」と記しています。聖人になるための道は、はじめから自分の本性の中に足りている。これまで理を外の物に求めていたのが間違いだった、という意味です。

竹の失敗の答えが、ここで出ました。竹の前でいくら考えても理が見つからなかったのは、理が竹の側にはなかったからだ、と。さきほどの竹の話も、このあと「夷中に在ること三年に及び、頗る此の意思を見得たり」と続き、天下の物にはもともと窮めるべきものは無い、格物の努力は自分の身と心の上でするものだ、と結ばれています。

この確信は、最初の弟子・徐愛との問答で、こう言葉になっています。

【書き下し】先生曰く、「心は即ち理なり。天下に又た心外の事、心外の理有らんや」と。愛曰く、「父に事うるの孝、君に事うるの忠、友に交わるの信、民を治むるの仁の如きは、其の間に許多の理在る有り。恐らくは亦た察せざるべからず」と。先生嘆じて曰く、「此の説の蔽(おお)うこと久し。豈に一語の能く悟る所ならんや。今、姑(しばら)く問う所の者に就きて之を言わん。且つ父に事うるが如きは、父の上に去きて個の孝の理を求むるを成さんや。君に事うるは、君の上に去きて個の忠の理を求むるを成さんや。友に交わり民を治むるは、友の上、民の上に去きて個の信と仁の理を求むるを成さんや。都(すべ)て只だ此の心に在り。心は即ち理なり。此の心に私欲の蔽い無くんば、即ち是れ天理なり。外面に一分を添うるを須(もち)いず。

出典:伝習録 徐愛録

徐愛は「親に仕える孝、君に仕える忠には、それぞれ多くの理があるはずです。調べずにすむでしょうか」と食い下がります。王陽明の答えは、「親に仕えるのに、親のところへ行って孝の理を探すのか」でした。孝という理は、親の側に置いてあるものではない。親を思う自分の心から出てくるものだ。だから私欲に覆われていない心が、そのまま理である。これが陽明学の出発点「心即理(しんそくり)」です。

四、知行合一 ― 知って行わないのは、まだ知らないのだ

龍場を出た翌年の正徳4年(1509)、王陽明は貴陽(きよう)の書院に招かれて講義をし、そこで初めて「知行合一」を説いたとされます。

徐愛は、妹の夫にあたる義弟で、最初に弟子入りした人です。その徐愛でさえ、この教えがすぐには呑み込めませんでした。

【書き下し】愛曰く、「如今の人は尽く父は当に孝すべく、兄は当に弟すべきを知り得る者有り。却って孝する能わず、弟する能わず。便ち是れ知と行と分明に是れ両件なり」と。先生曰く、「此れ已に私欲に隔断せられ、知行の本体に非ざるなり。未だ知りて行わざる者有らず。知りて行わざるは、只だ是れ未だ知らざるなり。

出典:伝習録 徐愛録

「親に孝行すべきだと知っていながら、できない人はいくらでもいます。知ることと行うことは、はっきり二つではありませんか」。王陽明は答えます。「それは私欲に隔てられているのであって、本来の知と行ではない。知っていて行わない者は、まだいない。知っていて行わないのは、まだ知らないのだ」。

続けて彼は、『大学』の「好い色を好むように、悪臭を憎むように」という言葉を引きます。きれいな色を見た瞬間には、もう好きになっている。見てから改めて「好きになろう」と決めるわけではない。悪臭を嗅いだ瞬間には、もう嫌になっている。本当に知ったときには、行いはもう始まっている、というのです。

この言葉は、「知ったら行動しよう」という励ましとして引かれることが多いのですが、原文の向きは少し違います。「行動しないのは、まだ分かっていない証拠だ」という診断です。やるべきだと分かっているのに動けないとき、足りないのは意志の力ではなく、知り方のほうかもしれない。そう問い直させる言葉です。

知行合一の考え方そのものは、東洋哲学を紹介した別の記事でも取り上げています。徐愛はこの問答のあと、正徳12年(1517)に三十一歳で亡くなりました。『伝習録』の上巻は、この早世した弟子の筆録から始まります。

五、教え方を変えた ― 静坐を勧めて、失敗した

王陽明は、自分の教え方の失敗も隠していません。龍場のあと、滁州(じょしゅう)や南京(なんきん)で閑職につき、多くの弟子を持った時期の話です。

【書き下し】吾、昔、滁に居る時、諸生の多く知解・口耳の異同を務め、得るに益無きを見る。姑(しばら)く之に静坐を教う。一時、光景を窺見し、頗る近効を収む。之を久しくして漸く静を喜び動を厭い、枯槁に流入するの病有り。或いは務めて玄解妙覚を為し、人の聴聞を動かす。故に邇来、只だ『良知を致す』を説く。

出典:伝習録 黄省曾録

「滁州にいたころ、学生たちが知識や言葉の違いばかり気にするので、しばらく静坐(せいざ)=静かに座る修行を教えた。一時は効果があった。だが続けるうちに、静けさを好んで動くことを嫌い、枯れてしまう者が出た。人を驚かせるような深遠な解釈に走る者も出た。だから近ごろは『良知を致す』とだけ説いている」。

段の終わりには「医は肱を折るを経て、方に能く人の病理を察す」とあります。医者は自分の腕を折った経験があって、はじめて人の病が分かる。教えた側の処方が効かなかったと認めて、処方を変えた記録です。教える立場にある人が、これほど率直に自分の失敗を語るのは珍しいことです。

六、戦の合間の講義 ― 南贛の賊と、寧王の乱

正徳11年(1516)、王陽明は江西(こうせい)南部の南贛(なんかん)一帯の治安を任されます。山に拠る武装集団の反乱が続いていた地域です。彼はこれを数年のうちに鎮めました。このころ弟子に宛てた手紙に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」という、よく知られた一句があります(「楊仕徳・薛尚謙に与うる書」。この手紙は『伝習録』には入っていません)。

そして正徳14年(1519)6月、明の皇族で江西の南昌(なんしょう)にいた寧王(ねいおう)朱宸濠(しゅ しんごう)が反乱を起こします。王陽明は手元の兵をかき集めて南昌を奪い返し、挙兵から一か月あまりで寧王を捕らえました。

驚くのは、この軍務のさなかにも講義を続けていたことです。弟子の陳九川(ちんきゅうせん)の記録です。

【書き下し】己卯、京師より帰り、再び先生に洪都に見ゆ。先生、兵務倥傯たり。隙に乗じて講授す。首(はじ)めに問う、「近年、功を用うること何如」と。

出典:伝習録 陳九川録

己卯(きぼう)は正徳14年、洪都(こうと)は南昌のことです。「先生は軍務に追われていたが、合間を見て講義をした。最初に聞かれたのは『ここ数年、どう努力しているか』だった」。反乱鎮圧の司令官が、訪ねてきた弟子の勉強の進み具合を真っ先に尋ねています。

同じ陳九川は、翌年、虔州(けんしゅう)の陣営でもこんな場面を書き残しています。

【書き下し】先生曰く、「人の胸中には各々個の聖人有り。只だ自ら信ずること及ばずして、都て自ら埋め倒せり」と。因りて于中を顧みて曰く、「爾の胸中は原と是れ聖人なり」と。于中、起ちて敢えて当たらず。先生曰く、「此れ是れ爾の自家の有する的なり。如何ぞ推さんことを要す」と。于中、又た曰く、「敢えてせず」と。先生曰く、「衆人、皆な之を有す。況んや于中に在りてをや。却って何の故に謙し起こる。謙も亦た得ず」と。于中、乃ち笑いて受く。

出典:伝習録 陳九川録

「人の胸の中には、それぞれ聖人がいる。ただ自分で信じきれず、みな自分で埋めてしまった」。そして弟子の于中(うちゅう)に「君の胸の中はもとより聖人だ」と言います。于中が「とんでもない」と辞退すると、「これは君がもともと持っているものだ。なぜ押し返すのか。謙遜も無用だ」。于中は笑って受け取りました。戦場で、兵ではなく弟子の自己評価と向き合っている人の姿です。

七、手柄を立てて、謗られる

寧王の乱の平定は、王陽明の生涯最大の手柄でした。ところが、ここから彼の苦難が始まります。

皇帝の正徳帝は、自分で親征して寧王を捕らえる手柄を欲しがっていました。側近や宦官たちは、王陽明の功を奪おうとし、はじめは寧王と通じていたのではないかという讒言(ざんげん)まで流したと伝えられます。王陽明は捕らえた寧王を引き渡し、功を譲るかたちで身を守らなければなりませんでした。

その後も、世間の非難はやみませんでした。晩年の弟子たちが、その理由を話し合った場面があります。

【書き下し】薛尚謙・鄒謙之・馬子萃・王汝止、侍坐す。因りて先生の寧藩を征してより已来、天下の謗議、益々衆きを嘆じ、各々其の故を言わんことを請う。或るひとは先生の功業・勢位、日に隆く、天下の之を忌む者、日に衆しと言う。或るひとは先生の学、日に明らかなり。故に宋儒の為に是非を争う者も亦た日に博しと言う。或るひとは先生、南都より以後、同志の信従する者、日に衆くして、四方の排阻する者、日に益々力むと言う。先生曰く、「諸君の言、信に皆な之有り。但だ吾が一段の自ら知る処は、諸君、倶に未だ道い及ばざるのみ」と。諸友、問わんことを請う。先生曰く、「我、南都に在りし已前は、尚お些子の郷愿の意思、在る有り。我、今、這の良知の真是真非を信じ得て、手に信(まか)せて行き去り、更に些子の覆蔵をも著けず。我、今、纔(はじ)めて個の狂者の胸次を做し得たり。天下の人をして都て我が行いは言を揜わずと説かしむるも也(また)罷(や)めん」と。

出典:伝習録 黄省曾録

弟子たちは、功績と地位が高まって妬む者が増えたから、学問が広まって朱子学の側から反論する者が増えたから、同志が増えて排斥する者も力を入れ始めたから、と理由を挙げます。王陽明は「みなそのとおりだ。だが、私が自分で知っている一点を誰も言っていない」と言い、こう続けます。「南京にいたころまでの私には、まだ少し郷愿(きょうげん)=誰からも悪く言われないよう振る舞う八方美人の気持ちがあった。今は良知が正しいと示すものを信じて、手の赴くまま行い、少しも覆い隠さない。ようやく狂者の胸の内になれた」。

謗られる理由を、相手の側ではなく自分の変化に見ているのです。嫌われないように振る舞うのをやめたから、嫌われるようになった。それでよい、と。

別の手紙では、世の人が自分を「病狂喪心(びょうきょうそうしん)の人」、つまり狂人だと言っていることに触れて、こう書いています。

【書き下し】人、固より其の父子兄弟の深淵に墜溺するを見る者有らば、呼号匍匐し、裸跣顛頓して、懸崖壁を扳(よ)じて下りて之を拯(すく)わん。

出典:伝習録 答聶文蔚

親や兄弟が深い淵に落ちるのを見た人は、叫び、這いつくばり、裸足で転びながら崖を下りて救いに行くだろう。傍らで礼儀正しく談笑している人から見れば、それは狂った振る舞いに見える。だが自分は、民が溺れているのが痛くてたまらないのだ。人に笑われるかどうかを計算している暇はない、と。

八、致良知 ― 百死千難の中から得た三文字

正徳16年(1521)、五十歳のころ、王陽明は自分の教えを「致良知(ちりょうち)」の三文字にまとめます。良知(りょうち)とは、もとは『孟子』の言葉で、学ばなくても知っている、生まれつきの善悪の判断力のことです。それを致す、つまり十分に発揮する。『年譜』は、王陽明が「この良知の説は、百死千難の中から得てきたものだ」と語ったと伝えています。流刑も、戦も、讒言もくぐったあとの言葉です。

良知とは何か。陳九川が虔州で尋ねた場面が、いちばん分かりやすく答えています。

【書き下し】爾の那の一点の良知は、是れ爾の自家底の準則なり。爾の意念の著く処、他は是ならば便ち是なるを知り、非ならば便ち非なるを知る。更に他を瞞(あざむ)くこと一些も得ず。爾は只だ他を欺かんことを要せず、実実落落として他に依著して做し去れ。善は便ち存し、悪は便ち去れ。

出典:伝習録 陳九川録

「君のその一点の良知が、君自身の基準だ。何かを思うたびに、正しければ正しいと知り、間違っていれば間違いと知る。少しもごまかせない。ただそれを欺かず、実直にそれに従って行え。善は残し、悪は去れ」。

外にある規則ではなく、自分の中にすでにある判断に従え。ただし、それを欺くな。 言うのは簡単ですが、私たちがふだんしているのは、たいてい「分かっているけれど、今回は目をつぶる」という小さな欺きです。王陽明の言う致良知は、その小さな欺きをやめる、という地道な話です。

九、故郷の講学 ― 数百人が夜通し歌った

新建伯(しんけんはく)の爵位を受けたのち、父の喪もあって、王陽明は故郷の越(えつ)=紹興(しょうこう)の地に戻り、六年ほど講学に力を注ぎます。そのにぎわいを、弟子の銭徳洪がこう書いています。

【書き下し】先生、初めて越に帰る時、朋友の蹤跡、尚お寥落たり。既に後、四方より来遊する者、日に進む。癸未年已後、先生を環(めぐ)りて居る者、屋を比(なら)ぶ。天妃・光相の諸剎の如きは、一室に当たる毎に、常に合食する者、数十人。夜、臥処無く、更(こもごも)相い席に就く。歌声、昏旦を徹す。南鎮・禹穴・陽明洞の諸山、遠近の寺剎、徒足の到る所、同志の遊寓する所に非ざる無し。先生、講座に臨む毎に、前後左右、環坐して聴く者、常に数百人を下らず。

出典:伝習録 黄省曾録

帰ったばかりのころは訪ねてくる友もまばらだった。それが数年のうちに、先生の周りには家が軒を並べ、寺の一室ごとに数十人が寝起きし、夜は寝る場所がないので交代で座り、歌声が明け方まで響いた。講座に臨むたび、前後左右を囲んで聴く者は数百人を下らなかった、と。

このころの王陽明の教え方がよく分かる一段もあります。

【書き下し】一日、王汝止、出遊して帰る。先生問いて曰く、「遊びて何をか見たる」と。対えて曰く、「満街の人、都て是れ聖人なるを見たり」と。先生曰く、「你、満街の人を看て是れ聖人なりとせば、満街の人も到(かえ)って你を看て是れ聖人なりと在らん」と。

出典:伝習録 黄省曾録

弟子の王汝止(おうじょし)が外出から帰って「町じゅうの人がみな聖人に見えました」と言うと、王陽明は「君が町の人を聖人と見るなら、町の人もかえって君を聖人と見ているだろう」と返しました。別の弟子が同じことを言ったときには「それは普通のことだ。何が不思議か」と答えています。同じ問いに、相手によって違う答えを返す。 汝止にはまだ角があり、もう一人は悟りかけていたから、と筆録者は説明しています。

十、天泉橋の夜と、最後の出征

嘉靖6年(1527)、五十六歳の王陽明に、広西(こうせい)の思恩(しおん)・田州(でんしゅう)の反乱を鎮めよという命が下ります。出発を前にしたころ、二人の高弟、銭徳洪と王畿(おうき。字は汝中)が、師の教えの解釈で議論になりました。

【書き下し】丁亥年九月、先生、起復して思・田を征す。将に命じて行かんとする時、徳洪、汝中と学を論ず。汝中、先生の教言を挙げて曰く、「善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知るは是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物なり」と。

出典:伝習録 黄省曾録

「善も悪も無いのが心の本体、善も悪も有るのが意(い)の動き、善悪を知るのが良知、善を為し悪を去るのが格物」。これが陽明学の「四句教(しくきょう)」です。王畿は「心の本体に善悪が無いなら、意にも善悪は無いはずだ」と言い、銭徳洪は「人には癖がついているから、善を為し悪を去る努力が要る」と言う。その夕べ、天泉橋(てんせんきょう)で二人が師に判定を求めた。これを「天泉証道(てんせんしょうどう)」と呼びます。

王陽明の答えは、どちらか一方を取るものではありませんでした。「二人の見方は互いに補い合うものだ。一方に偏ってはいけない」。素質の鋭い人には本体から入る道を、そうでない人には努力から入る道を示す。これは、滁州で静坐を教えて失敗した人の答えでもあります。一つの方法を全員に当てはめると、必ず枯れる人が出る、と。

十一、「此の心光明なり」

王陽明は病身のまま出征しました。遠征先から弟子の聶文蔚(じょうぶんい)に宛てた手紙に、こうあります。

【書き下し】賤躯は旧より咳嗽・畏熱の病有り。近ごろ炎方に入り、輒ち復た大いに作(おこ)る。主上、聖明にして洞察し、責付、甚だ重し。敢えて遽かに辞せず。地力・軍務は冗沓、皆な疾を輿(の)せて事に従う。今、却って幸いに已に平定す。已に本を具えて回りて病を養わんことを乞う。

出典:伝習録 答聶文蔚

「私は以前から咳と暑さに弱い持病がある。南方の暑い土地に入って、ひどくぶり返した。陛下から重い責任を託されたので、すぐには辞退できなかった。軍務は煩雑で、どれも病をおして当たった。幸いもう平定した。帰って病を養いたいと願い出ている」。

同じ手紙の後半で、彼は弟子の勉強の悩みに長々と答えています。病床で「枕に伏して」書いたと断りながら、「鍋に水も米も入れずに火ばかり焚くようなものだ」と、努力の空回りを戒めています。

帰郷の許しを待たずに帰路についた王陽明は、嘉靖7年11月29日(1529年1月9日)、江西の南安(なんあん)で、舟の中で息を引き取りました。『年譜』によれば、そばにいた門人の周積(しゅうせき)が泣いて遺言を求めると、王陽明はかすかに笑って「此の心光明なり。亦た復た何をか言わん」と答え、目を閉じたといいます。

死後、朝廷は、任地を勝手に離れたことなどを咎め、爵位の世襲を止め、その学問を正統から外れたものとして退けました。名誉が回復されたのは、死後三十八年たった隆慶(りゅうけい)元年(1567)。「文成(ぶんせい)」の諡(おくりな)を贈られ、万暦(ばんれき)12年(1584)には孔子廟に祀られる人々に加えられています。

十二、日本の陽明学 ― 佐藤一斎と、その周り

陽明学は日本でも読まれました。江戸時代初期の中江藤樹(なかえ とうじゅ)は、朱子学を学んだのちに王陽明の全集を手に入れ、正保元年(1644)、三十七歳のころから陽明学に傾いたとされ、「日本陽明学の祖」と呼ばれます。江戸後期には、大坂の与力(よりき)だった大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が陽明学の私塾・洗心洞(せんしんどう)を開き、天保8年(1837)に飢饉に苦しむ民のために乱を起こしました。

幕府の学問所・昌平坂学問所の儒官、つまり朱子学の総本山の教官を務めた佐藤一斎(さとう いっさい)は、表では朱子学を講じながら内では陽明学を好んでいるとして、「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」と評されました。一斎の門下からは幕末の人材が多く出ています。一斎がどう生き、なぜそう評されたのかは、別の記事でたどっています。

佐藤一斎の生涯 ― 陽朱陰王と呼ばれた昌平黌の儒官が、四十年かけて書いた『言志四録』

西郷隆盛も陽明学の影響を受けた一人です。西郷が『伝習録』のどの一段に通じるのかは、西郷の愛読書を扱った記事で取り上げました。

西郷隆盛の愛読書 ― 「敬天愛人」の出どころと、敵が作った遺訓

結び ― 転んだら、起きて歩けばいい

王陽明の一生を並べてみると、成功の話より失敗の話のほうが多いことに気づきます。竹の前で倒れた。宦官に逆らって流された。静坐を教えて弟子を枯らした。手柄を立てて謗られた。最後は病をおして出征し、帰り道で亡くなった。

その本人が、弟子たちに努力の仕方をこう語っています。

【書き下し】又た曰く、「諸君の功夫、最も『助長』すべからず。上智は絶えて少なし。学者に聖人に超入するの理無し。一起一伏、一進一退、自ら是れ功夫の節次なり。我、前日、功夫を用い得了り、今、却って済(な)らずとして、便ち矯強して一個の破綻無きの模様を做し出ださんと要すべからず。這れ便ち是れ『助長』なり。前の些子の功夫まで連ねて都て壊れ了れり。此れ小過に非ず。譬えば路を行くの人、一たび蹶跌に遭い、起き来たりて便ち走るが如し。人を欺きて那の曾て跌倒せざるの様子を做し出だすを要せず。

出典:伝習録 黄修易録

「上がったり下がったり、進んだり退いたりするのが、努力の順序だ。前はできたのに今はできないからと、無理に破綻のない姿を作ろうとしてはいけない。それは助長で、それまでの努力まで壊してしまう。道を行く人が転んだら、起き上がってまた歩けばよい。人を欺いて、転ばなかったふりをする必要はない」。

知行合一は、「知ったらすぐ行え」という号令のように聞こえます。けれども王陽明が生涯で示したのは、知ったつもりで行ってみて、転び、転んだことを隠さずに知り直す、その繰り返しでした。竹を七日見つめたのも、静坐を教えて失敗したのも、その一歩です。「知って行わないのは、まだ知らないのだ」という言葉は、他人を責めるためより、動けずにいる自分に向けるほうが、たぶん役に立ちます。

この記事の出典について

本文の引用は、師導が収録する『伝習録』の読み下しから、該当する部分をそのまま切り出しています。途中を略した箇所はありません。各節末のリンクから、その段の全文・現代語訳・解説をご覧いただけます。

『伝習録』は王陽明の自著ではなく、弟子の筆録と書簡をまとめたものです。生没年、左遷と龍場大悟、寧王の乱、「百死千難」「此の心光明なり」の言葉などは、弟子の銭徳洪らが編んだ『年譜』の記述に拠り、師導には収録していないため要旨で示しました。年齢は数え年です。死去の日付は嘉靖7年11月29日で、西暦では1529年1月9日にあたります。寧王の乱の後の讒言の中身については、伝わっている話として書いています。

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道元の生涯 ― 「なぜ修行するのか」を解きに宋へ渡った人。只管打坐と身心脱落
親鸞の生涯 ― 比叡山の二十年、流罪、妻帯、息子の義絶。歎異抄と妻の手紙でたどる
孟子の生涯 ― 王に会い続け、一度も用いられなかった人。孟母三遷の出どころと性善説