普勧坐禅儀 / 第三段 坐禅は安楽の法門
所謂、坐禪非習禪也、唯是安樂之法門也、究盡菩提之修證也。公案現成、籮籠未到。若得此意、如龍得水、似虎靠山。
新字:所謂、坐禅非習禅也、唯是安楽之法門也、究尽菩提之修証也。公案現成、籮籠未到。若得此意、如竜得水、似虎靠山。
書き下し
所謂坐禅は習禅には非ず、唯是れ安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり。公案現成、籮籠未だ到らず。若し此の意を得ば、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。
現代語訳
いわゆる坐禅は、禅定を習う修練ではない。ただこれは安らかで楽な教えの門であり、悟りを究め尽くす修行そのものである。ありのままの真実がそのまま現れ、網や籠のような束縛はまだ及ばない。もしこの意味をつかめば、龍が水を得たように、虎が山に寄りかかったようになる。
解説
坐禅を、悟りのために我慢して積む訓練だと考えてはならない、と道元は言う。修行と悟りを別々のものとせず、坐ること自体が悟りの現れだという修証一等の考えがここにある。安楽の法門という言い方は、苦行のイメージとは正反対だ。龍が水を、虎が山を得るという比喩は、本来の場所に戻った生き物の伸びやかさを表している。努力が苦役になっている人に、向き合い方そのものを変える視点を渡す句である。
この章句が説くこと
安楽修証一等坐禅公案現成本来法門
関連する章句
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『普勧坐禅儀』第三段 坐禅は安楽の法門然れば則ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。専一に功夫せば、正に是れ弁道なり。修証自ら染汚せず、趣向更に是れ平常なる者なり。
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