師導古典を学びたいすべての人に

正法眼蔵随聞記 / 巻五

ときに奘問て云く、打坐と看讀とならべて此を學するに、語錄公案等を見るには、百千に一つも聊か心得ることも出來るなり、坐禪にはそれほどのことの驗しもなし、然かあれども猶ほ坐禪を好むべきか、答て云く、公案話頭を見て聊か知覺有る樣なりとも、それは佛祖の道にとほざかる因緣なり、無所得無所悟にて、端坐して時を移さば、卽祖道なるべし、古人も看語祇管坐禪ともに勸めたれども、猶ほ坐をもはらにすゝめしなり、亦話頭に依てさとりをひらきたる人あれども、其れも坐の功に依りてさとりのひらくる因緣なり、まさしきは坐によるべし、

新字:ときに奘問て云く、打坐と看読とならべて此を学するに、語録公案等を見るには、百千に一つも聊か心得ることも出来るなり、坐禅にはそれほどのことの験しもなし、然かあれども猶ほ坐禅を好むべきか、答て云く、公案話頭を見て聊か知覚有る様なりとも、それは仏祖の道にとほざかる因縁なり、無所得無所悟にて、端坐して時を移さば、即祖道なるべし、古人も看語祇管坐禅ともに勧めたれども、猶ほ坐をもはらにすゝめしなり、亦話頭に依てさとりをひらきたる人あれども、其れも坐の功に依りてさとりのひらくる因縁なり、まさしきは坐によるべし、

書き下し

ときに奘問て云く、打坐と看読とならべて此を学するに、語録公案等を見るには、百千に一つも聊か心得ることも出来るなり、坐禅にはそれほどのことの験しもなし、然かあれども猶ほ坐禅を好むべきか、答て云く、公案話頭を見て聊か知覚有る様なりとも、それは仏祖の道にとほざかる因縁なり、無所得無所悟にて、端坐して時を移さば、即祖道なるべし、古人も看語祇管坐禅ともに勧めたれども、猶ほ坐をもはらにすゝめしなり、亦話頭に依てさとりをひらきたる人あれども、其れも坐の功に依りてさとりのひらくる因縁なり、まさしきは坐によるべし、

現代語訳

その時、懐奘が問うて言った。坐禅と読むこととを並べて学ぶと、語録や公案などを見るには、百千に一つはいささか心得ることも出てきます。坐禅にはそれほどの手ごたえもありません。それでもなお坐禅を好むべきでしょうか。答えて言われた。公案や話頭を見ていささか知覚があるようでも、それは仏祖の道から遠ざかる縁である。得るところなく悟るところなく、端坐して時を過ごせば、それがそのまま祖師の道であろう。古人も語を看ることと只管坐禅とを共に勧めたけれども、なお坐ることをもっぱらに勧めた。また話頭によって悟りを開いた人もあるけれども、それも坐の功によって悟りが開ける縁である。正しくは坐によるべきである。

解説

懐奘の問いが率直で、手ごたえのある公案と、手ごたえのない坐禅を並べている。道元の答えは、手ごたえこそが遠ざかる縁だというもので、無所得無所悟という言葉に集約される。話頭で開いた悟りも坐の功による、と因を坐へ引き戻している。

この章句が説くこと

坐禅公案無所得話頭懐奘只管打坐

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる