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荀子 / 性悪篇

曰:「聖可積而致,然而皆不可積,何也?」曰:可以而不可使也。故小人可以為君子,而不肯為君子;君子可以為小人,而不肯為小人。小人君子者,未嘗不可以相為也,然而不相為者,可以而不可使也。故塗之人可以為禹,則然;塗之人能為禹,則未必然也。雖不能為禹,無害可以為禹。足可以遍行天下,然而未嘗有遍行天下者也。夫工匠農賈,未嘗不可以相為事也,然而未嘗能相為事也。用此觀之,然則可以為,未必能也;雖不能,無害可以為。然則能不能之與可不可,其不同遠矣,其不可以相為明矣。

新字:曰:「聖可積而致,然而皆不可積,何也?」曰:可以而不可使也。故小人可以為君子,而不肯為君子;君子可以為小人,而不肯為小人。小人君子者,未嘗不可以相為也,然而不相為者,可以而不可使也。故塗之人可以為禹,則然;塗之人能為禹,則未必然也。雖不能為禹,無害可以為禹。足可以遍行天下,然而未嘗有遍行天下者也。夫工匠農賈,未嘗不可以相為事也,然而未嘗能相為事也。用此観之,然則可以為,未必能也;雖不能,無害可以為。然則能不能之与可不可,其不同遠矣,其不可以相為明矣。

書き下し

曰く、「聖は積みて致すべし、然り而して皆(みな)積む能わざるは、何ぞや」と。曰く、以(な)すべくして使(し)むべからざるなり。故に小人は以て君子と為るべくして、君子と為るを肯(がえん)ぜず。君子は以て小人と為るべくして、小人と為るを肯ぜず。小人君子なる者は、未だ嘗(かつ)て以て相(あい)為(な)るべからずんばあらず。然り而して相為らざる者は、以すべくして使むべからざればなり。故に塗の人も以て禹と為るべしとは、則ち然り。塗の人能く禹と為るとは、則ち未だ必ずしも然らざるなり。禹と為る能わずと雖(いえど)も、以て禹と為るべきを害(そこな)わず。足は以て遍(あまね)く天下を行くべし、然り而して未だ嘗て遍く天下を行く者有らざるなり。夫れ工匠農賈(こうしょうのうこ)は、未だ嘗て以て相為(あいたが)いに事を為すべからずんばあらず。然り而して未だ嘗て能く相為いに事を為さざるなり。此れを用て之を観れば、然らば則ち以て為すべきも、未だ必ずしも能わざるなり。能わずと雖も、以て為すべきを害わず。然らば則ち能と不能との可と不可とに与(お)ける、其の同じからざること遠し。其の以て相為るべからざること明らかなり。

現代語訳

問う者が言った。「聖人は積み重ねによって到達できるという。それなのに、実際にはすべての人が積み重ねられるわけではないのは、なぜか」と。答えて言う。それは、できるということと、実際にそうさせられるということが別だからである。だから小人も君子になることはできるのに、君子になろうとしない。君子も小人になることはできるのに、小人になろうとしない。小人と君子とは、互いに入れ替わることができないわけではない。それでも互いに入れ替わらないのは、できることと、実際にそうさせられることとが違うからである。だから「道行く人も禹になれる」というのは、その通りである。しかし「道行く人が実際に禹になる」というのは、必ずしもそうではない。たとえ実際に禹にならないとしても、そのことは禹になれるという可能性を損なうものではない。足は天下をあまねく歩き回ることができる。しかし実際に天下をあまねく歩き回った者は、いまだかつていない。職人も農民も商人も、互いに相手の仕事をすることができないわけではない。しかし実際に互いの仕事を務めることはない。こうして見れば、できるからといって、必ずしも実際にそうなるわけではない。実際にそうならなくても、できるという可能性は損なわれない。とすれば、実際にできるかどうかと、可能性としてできるかどうかとは、大きく異なる。この二つが決して同じではないことは、明らかである。

解説

痛いところを突く問いです。積み重ねれば誰でも聖人になれるはずなのに、現実にはそうならない人のほうが圧倒的に多い。ならばやはり素質の差があるのではないか。荀子の答えは静かで、しかし逃げ道を残しません。できるということと、実際にそうさせられることは別だ、と言うのです。小人も君子になれるのに、なろうとしない。君子も小人になれるのに、なろうとしない。足は天下をあまねく歩けるはずですが、実際に世界中を歩き尽くした人はいません。職人も農民も商人も、互いの仕事ができないわけではないのに、実際には務めません。できるからといって必ずそうなるわけではなく、しかし実際にそうならなくても、できるという可能性は少しも損なわれない。つまり、できないのではなく、していないだけ。裏返せば、いつからでも始められるということです。踏み出すかどうかだけが、ずっと自分の手に残されています。

この一句を、あなたの毎日に。

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