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荀子 / 性悪篇

孟子曰:「人之學者,其性善。」曰:是不然。是不及知人之性,而不察乎人之性偽之分者也。凡性者,天之就也,不可學,不可事。禮義者,聖人之所生也,人之所學而能,所事而成者也。不可學,不可事,而在人者,謂之性;可學而能,可事而成之在人者,謂之偽。是性偽之分也。今人之性,目可以見,耳可以聽;夫可以見之明不離目,可以聽之聰不離耳,目明而耳聰,不可學明矣。

新字:孟子曰:「人之學者,其性善。」曰:是不然。是不及知人之性,而不察乎人之性偽之分者也。凡性者,天之就也,不可學,不可事。礼義者,聖人之所生也,人之所學而能,所事而成者也。不可學,不可事,而在人者,謂之性;可學而能,可事而成之在人者,謂之偽。是性偽之分也。今人之性,目可以見,耳可以聴;夫可以見之明不離目,可以聴之聰不離耳,目明而耳聰,不可學明矣。

書き下し

孟子曰く、「人の学ぶ者は、其の性善なればなり」と。曰く、是れ然らず。是れ人の性を知るに及ばずして、人の性偽(せいぎ)の分を察せざる者なり。凡そ性なる者は、天の就(な)せるなり。学ぶべからず、事とすべからず。礼義なる者は、聖人の生ずる所なり。人の学びて能くし、事として成す所の者なり。学ぶべからず、事とすべからずして人に在る者、之を性と謂う。学びて能くすべく、事として成すべくして人に在る者、之を偽と謂う。是れ性と偽との分なり。今人の性、目は以て見るべく、耳は以て聴くべし。夫(そ)の以て見るべきの明は目を離れず、以て聴くべきの聡は耳を離れず。目明らかにして耳聡きは、学ぶべからざること明らかなり。

現代語訳

孟子は言った。「人が学ぶことができるのは、その生まれつきの性が善だからである」と。荀子は言う。それは違う。これは人の性というものを理解しておらず、生まれつきの性と人為との区別を見きわめていない議論である。そもそも性とは、天が作り上げたものである。学んで身につけるものではなく、努力して作り出すものでもない。礼義とは、聖人が生み出したものであり、人が学んではじめてできるようになり、努力してはじめて成し遂げられるものである。学ぶことも努力することもできずに人に備わっているもの、これを性という。学べばできるようになり、努力すれば成し遂げられるかたちで人に備わるもの、これを人為という。これが性と人為との区別である。今、人の性を見れば、目は見ることができ、耳は聴くことができる。その見える働きは目から離れず、聴こえる働きは耳から離れない。目が見え耳が聴こえることは、学んで得たものではないことが明らかである。

解説

荀子はまず孟子の主張を正確に引いてから反論を始めます。孟子は、人が学べるのは生まれつきの性が善だからだと言いました。荀子はそれを退け、議論の土台として「性」と「偽(人為)」の切り分けを示します。性とは天が与えた素材で、学んで身につけるものでも努力して作り出すものでもありません。目が見え耳が聴こえることを、私たちは誰からも習っていません。一方、礼義は聖人が生み出したもので、人が学んではじめてできるようになり、努力してはじめて成し遂げられます。だから礼義は性ではなく人為なのだ、というのが荀子の線引きです。議論が噛み合わないとき、原因は論点そのものより、使っている言葉の意味のずれにあることが少なくありません。反論の前に相手の主張を一文で言い直し、鍵になる言葉の定義を先に揃える。この手つきは、会議でも交渉でも、そのまま実務の技術として使えます。

この一句を、あなたの毎日に。

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