荀子 / 儒効篇
王曰:「然則其為人上何如?」孫卿曰:「其為人上也,廣大矣!志意定乎內,禮節脩乎朝,法則度量正乎官,忠信愛利形乎下。行一不義,殺一無罪,而得天下,不為也。此君子義信乎人矣,通於四海,則天下應之如讙。是何也?則貴名白而天下治也。故近者歌謳而樂之,遠者竭蹶而趨之,四海之內若一家,通達之屬莫不從服。夫是之謂人師。《詩》曰:『自西自東,自南自北,無思不服。』此之謂也。夫其為人下也如彼,其為人上也如此,何謂其無益於人之國也!」昭王曰:「善!」
新字:王曰:「然則其為人上何如?」孫卿曰:「其為人上也,広大矣!志意定乎内,礼節脩乎朝,法則度量正乎官,忠信愛利形乎下。行一不義,殺一無罪,而得天下,不為也。此君子義信乎人矣,通於四海,則天下応之如讙。是何也?則貴名白而天下治也。故近者歌謳而楽之,遠者竭蹶而趨之,四海之内若一家,通達之属莫不従服。夫是之謂人師。《詩》曰:『自西自東,自南自北,無思不服。』此之謂也。夫其為人下也如彼,其為人上也如此,何謂其無益於人之国也!」昭王曰:「善!」
書き下し
王曰く、然らば則ち其の人の上と為るや何如、と。孫卿曰く、其の人の上と為るや、広大なり。志意は内に定まり、礼節は朝に脩まり、法則度量は官に正しく、忠信愛利は下に形わる。一の不義を行い、一の無罪を殺して、天下を得るも、為さざるなり。此の君子の義、人に信ぜらるれば、四海に通じ、則ち天下之に応ずること讙のごとし。是れ何ぞや。則ち貴名白らかにして天下治まればなり。故に近き者は歌謳して之を楽しみ、遠き者は竭蹶して之に趨り、四海の内一家のごとく、通達の属服従せざる莫し。夫れ是を之れ人の師と謂う。詩に曰く、西よりし東よりし、南よりし北よりし、思として服せざる無し、と。此を之れ謂うなり。夫れ其の人の下と為るや彼くの如く、其の人の上と為るや此くの如し、何ぞ其れ人の国に益無しと謂わんや、と。昭王曰く、善し、と。
現代語訳
昭王が言った。それでは、儒者が人の上に立つ場合はどうなのか、と。荀子は答えて言った。儒者が人の上に立つときのはたらきは、広く大きなものです。志は内にしっかりと定まり、礼儀作法は朝廷に整えられ、法や制度や度量衡は役所において正され、誠実さと人を愛し利する心が民のうえに現れます。一つでも不義を行い、一人でも無実の者を殺すことで天下が手に入るとしても、そんなことはしません。この君子の義が人々に信じられれば、それは四海にゆきわたり、天下は歓声をあげるように応じます。それはなぜか。尊い名声が明らかになって、天下が治まるからです。だから近くの者は歌をうたって喜び、遠くの者はつまずきながらも力を尽くして駆けつけ、四海の内は一つの家のようになり、行き来のできる限りの人々で従わない者はありません。これを人の師というのです。詩経に「西からも東からも、南からも北からも、心服しない者はなかった」とあるのは、このことをいうのです。儒者が人の下にあるときはあのようであり、人の上に立つときはこのようです。どうして儒者が人の国の役に立たないなどと言えましょうか。昭王は言った。よろしい、と。
解説
この章句が説くこと
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