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荀子 / 性悪篇

故善言古者,必有節於今;善言天者,必有徵於人。凡論者貴其有辨合,有符驗。故坐而言之,起而可設,張而可施行。今孟子曰:「人之性善。」無辨合符驗,坐而言之,起而不可設,張而不可施行,豈不過甚矣哉!故性善則去聖王,息禮義矣。性惡則與聖王,貴禮義矣。故檃栝之生,為枸木也;繩墨之起,為不直也;立君上,明禮義,為性惡也。用此觀之,然則人之性惡明矣,其善者偽也。

新字:故善言古者,必有節於今;善言天者,必有徴於人。凡論者貴其有辨合,有符験。故坐而言之,起而可設,張而可施行。今孟子曰:「人之性善。」無辨合符験,坐而言之,起而不可設,張而不可施行,豈不過甚矣哉!故性善則去聖王,息礼義矣。性悪則与聖王,貴礼義矣。故檃栝之生,為枸木也;繩墨之起,為不直也;立君上,明礼義,為性悪也。用此観之,然則人之性悪明矣,其善者偽也。

書き下し

故に善く古(いにしえ)を言う者は、必ず今に節(せつ)有り。善く天を言う者は、必ず人に徴(ちょう)有り。凡そ論ずる者は其の辨合(べんごう)有り、符験(ふけん)有るを貴ぶ。故に坐して之を言えば、起ちて設(もう)くべく、張りて施行すべし。今孟子曰く、「人の性は善なり」と。辨合符験無く、坐して之を言い、起ちて設くべからず、張りて施行すべからず。豈(あ)に過つこと甚だしからずや。故に性善ならば則ち聖王を去り、礼義を息(や)めん。性悪ならば則ち聖王に与(くみ)し、礼義を貴ばん。故に檃栝(いんかつ)の生ずるは、枸木(こうぼく)の為なり。縄墨(じょうぼく)の起こるは、直(なお)からざるが為なり。君上を立て、礼義を明らかにするは、性の悪なるが為なり。此れを用て之を観れば、然らば則ち人の性の悪なるは明らかなり、其の善なる者は偽なり。

現代語訳

だから、古いことをうまく語る者は、必ず今の現実に照らして裏づけを持っている。天について語る者は、必ず人間の現実に証拠を持っている。そもそも議論というものは、筋道が合致し、証拠が実際に符合することを貴ぶのである。だから座って語ったことは、立ち上がればそのまま実行の形にでき、広げれば実際に施行できるのでなければならない。今、孟子は「人の性は善である」と言う。しかしこれには筋道の合致も証拠の符合もない。座って語るばかりで、立ち上がっても実行の形にできず、広げても施行することができない。これは大きな誤りではないか。もし性が善であるなら、聖王は不要になり、礼義もやめてよいことになる。性が悪であればこそ、聖王に味方し、礼義を尊ぶことになるのだ。だから矯め木が生まれたのは、曲がった木があるからである。墨縄が使われるようになったのは、まっすぐでないものがあるからである。君主を立て、礼義を明らかにするのは、人の性が悪だからなのである。こうして見れば、人の性が悪であることは明らかであり、その善は人為によるものなのである。

解説

荀子の実践的な精神が最も濃く出た段です。まともな議論には「辨合」と「符験」——筋道の合致と、現実での裏づけが要る。座って語ったことが、立ち上がってそのまま実行の形にならないなら、それは机上の空論だ、と荀子は孟子を斬ります。理論の正しさを、現実に施行できるかどうかで測るのです。そして矯め木は曲がった木があるからこそ生まれ、墨縄はまっすぐでないものがあるからこそ要る。制度とは、人が完全でないという現実から逆算して作られたものだ、という洞察です。私たちの仕事でも、美しい理念だけを掲げて運用の形に落ちない企画は、結局は何も動かしません。語ったことがそのまま明日の手順書になるか。荀子の物差しは、そこを問うています。

この一句を、あなたの毎日に。

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