史記 / 屈原賈生列伝
太史公曰、余讀離騷天問招魂哀郢、悲其志。適長沙、觀屈原所自沈淵、未嘗不垂涕、想見其為人。及見賈生弔之、又怪屈原以彼其材、游諸侯、何國不容、而自令若是。讀服烏賦、同死生、輕去就、又爽然自失矣。
新字:太史公曰、余読離騷天問招魂哀郢、悲其志。適長沙、観屈原所自沈淵、未嘗不垂涕、想見其為人。及見賈生弔之、又怪屈原以彼其材、游諸侯、何国不容、而自令若是。読服烏賦、同死生、軽去就、又爽然自失矣。
書き下し
太史公曰く、「余、離騒・天問・招魂・哀郢を読み、其の志を悲しむ。長沙に適き、屈原の自沈する所の淵を観て、未だ嘗て涕を垂れずんばあらず、其の為人を想見す。賈生の之を弔ふを見るに及びて、又屈原の彼の其の材を以て、諸侯に游ばば、何の国か容れざらん、而も自ら是くの若くならしむるを怪しむ。服烏の賦を読み、死生を同じくし去就を軽んずるに、又爽然として自失す」と。
現代語訳
太史公は言う。「私は『離騒』『天問』『招魂』『哀郢』を読んで、その志を悲しんだ。長沙へ行き、屈原が身を投げた淵を見たときは、涙を流さずにはいられず、その人柄を思い描いた。そして賈生が屈原を弔った文を見たときには、屈原ほどの才があれば、どの諸侯のもとへ行っても受け入れられなかったはずはないのに、なぜ自らあのような最期を選んだのかと、不思議に思った。だが『鵩鳥の賦』を読み、生と死を同じものと見なし、進むも退くも軽々と受け流すその境地に触れると、私はまた呆然として、我を失ってしまうのである」。
解説
「信念に殉じた生き方への深い共感と、それとは別の生き方への揺れ」を率直に吐露した、司馬遷の思索に満ちた結びの一段です。司馬遷は、屈原の作品を読んでその志に涙し、屈原が身を投げた淵を実際に訪ねては、その人柄を偲んで涙を流したと、深い共感を語ります。しかし同時に、彼は率直な疑問も呈します。『屈原ほどの才能があれば、他の諸侯の国のどこへ行っても受け入れられただろうに、なぜ自ら死を選ぶような結末にしてしまったのか』と。楚を追われても、その才を活かして他国で生きる道もあったはずだ、と惜しむのです。ここには、前の魯仲連や虞卿の生き方とも通じる、「信念に殉じて死ぬ」ことと「生き延びて才を活かす」ことの、どちらが良いのかという問いが横たわっています。さらに司馬遷は、揺れる心を正直に記します。賈誼が屈原を弔った「鵩鳥賦(服烏賦)」——生と死を同じものと見なし、地位への執着(去就)を軽んじる、老荘的な達観の思想——を読むと、『爽然として自失す(心が晴れるようで、それでいて、これまでの自分の考え〈屈原の死を惜しむ気持ち〉が、ふっと分からなくなってしまう)』と。つまり、屈原の死を「惜しい」と思う一方で、賈誼の「生死を超越し、地位にこだわらない」達観に触れると、そもそも生き死にや地位の得失にこだわること自体が、小さなことに思えてくる——そう、自分の中で揺れる、と告白するのです。ここに、司馬遷という歴史家の、極めて誠実で深い人間観があります。第一に、彼は、屈原の信念に殉じた気高い死に、心から共感し涙する。しかし第二に、その死が最善だったかには疑問も抱き、生きて才を活かす道もあったと惜しむ。そして第三に、賈誼の「生死も地位も超越する」達観に触れると、その問い自体が相対化されて、答えが分からなくなる。司馬遷は、一つの正解を押しつけません。信念に殉じる生き方、生き延びて才を活かす生き方、生死も地位も超越する生き方——そのどれもに価値と真実があり、簡単には優劣をつけられない、と、自らの揺れを正直にさらけ出す。組織や人生で、私たちも、信念を貫くべきか、柔軟に生きるべきか、あるいは得失を超越すべきか、という問いに、しばしば直面します。この結びが教えるのは、その問いに唯一の正解はなく、それぞれの生き方の価値を認めながら、自分自身で揺れ考え続けることの誠実さです。宮刑の屈辱に耐えて生き、『史記』を完成させた司馬遷自身の生き方の選択が、この率直な思索の背後に、静かに投影されています。
この章句が説くこと
太史公評屈原と賈誼信念に殉じるか生き延びるか生死を超越する達観一つの正解はない揺れる思索
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