史記 / 屈原賈生列伝
賈生名誼、雒陽人也。年二十餘、最為少。每詔令議下、諸老先生不能言、賈生盡為之對、人人各如其意所欲出。諸生於是乃以為能不及也。孝文帝說之、超遷、一歲中至太中大夫。賈生以為漢興當改正朔易服色、乃悉草具其事儀法。天子議以為賈生任公卿之位。絳灌東陽侯馮敬之屬盡害之、乃短賈生曰、雒陽之人、年少初學、專欲擅權、紛亂諸事。於是天子後亦疏之、不用其議、乃以賈生為長沙王太傅。後歲餘、賈生徵見。孝文帝方受釐、坐宣室。上因感鬼神事、而問鬼神之本。賈生具道所以然之狀。至夜半、文帝前席。既罷、曰、吾久不見賈生、自以為過之、今不及也。
新字:賈生名誼、雒陽人也。年二十余、最為少。毎詔令議下、諸老先生不能言、賈生尽為之対、人人各如其意所欲出。諸生於是乃以為能不及也。孝文帝説之、超遷、一歳中至太中大夫。賈生以為漢興当改正朔易服色、乃悉草具其事儀法。天子議以為賈生任公卿之位。絳灌東陽侯馮敬之属尽害之、乃短賈生曰、雒陽之人、年少初学、専欲擅権、紛乱諸事。於是天子後亦疏之、不用其議、乃以賈生為長沙王太傅。後歳余、賈生徴見。孝文帝方受釐、坐宣室。上因感鬼神事、而問鬼神之本。賈生具道所以然之状。至夜半、文帝前席。既罷、曰、吾久不見賈生、自以為過之、今不及也。
書き下し
賈生名は誼、雒陽の人なり。年二十余、最も少と為す。詔令の議下る每に、諸老先生言ふ能はず、賈生尽く之が為に対へ、人人各々其の意の出でんと欲する所の如し。諸生是に於いて乃ち以て能く及ばずと為す。孝文帝之を説び、超遷して、一歳の中に太中大夫に至る。賈生以為らく漢興りて当に正朔を改め服色を易ふべし、乃ち悉く其の事の儀法を草具す。天子議して以て賈生を公卿の位に任ぜんとす。絳・灌・東陽侯・馮敬の属尽く之を害み、乃ち賈生を短じて曰く、「雒陽の人、年少初学、専ら権を擅にせんと欲し、諸事を紛乱す」と。是に於いて天子後亦た之を疏んじ、其の議を用ゐず、乃ち賈生を以て長沙王の太傅と為す。後歳余、賈生徴見せらる。孝文帝方に釐を受け、宣室に坐す。上鬼神の事に感ずるに因りて、鬼神の本を問ふ。賈生具に所以然の状を道ふ。夜半に至り、文帝席を前む。既に罷めて曰く、「吾久しく賈生を見ず、自ら以て之に過ぐと為すも、今及ばず」と。
現代語訳
賈生は名を誼といい、雒陽の人である。二十歳あまりで、朝廷では最年少であった。詔勅について議論が下されるたび、老練な先生方が答えられないところを、賈生はすべて答え、しかもその答えは、居合わせた誰もが言いたかったことをそのまま言い当てていた。学者たちはこうして、とても及ばないと認めた。孝文帝は彼を気に入り、異例の昇進をさせ、一年のうちに太中大夫にまで上げた。賈生は、漢が興った以上は暦を改め、装束の色を変えるべきだと考え、その儀礼や制度をすべて起草した。天子は議論のうえ、賈生を公卿の位に就けようとした。すると絳侯(周勃)・灌嬰・東陽侯・馮敬らがこぞって彼を妬み、賈生をけなして言った。「雒陽の若造で、学問も浅いくせに、ひたすら権力をわがものにしようとし、あれこれ引っかき回している」。そこで天子ものちには彼を遠ざけ、その議論を用いず、賈生を長沙王の太傅とした。一年余りのち、賈生は召し出されて謁見した。孝文帝はちょうど祭りの供物を受け、宣室に座っていた。帝は鬼神のことに心を動かされ、鬼神の本質について尋ねた。賈生はその理由をつぶさに語った。話は夜中まで及び、文帝は思わず座席を前へにじり寄せた。謁見が終わると、帝は言った。「私は長いこと賈生に会わず、自分のほうが彼より上だと思っていた。だが今、及ばないと分かった」。