史記 / 屈原賈生列伝
於是懷石遂自沈汨羅以死。屈原既死之後,楚有宋玉、唐勒、景差之徒者,皆好辭而以賦見稱;然皆祖屈原之從容辭令,終莫敢直諫。其後楚日以削,數十年竟為秦所滅。自屈原沈汨羅後百有餘年,漢有賈生,為長沙王太傅,過湘水,投書以弔屈原。
新字:於是懐石遂自沈汨羅以死。屈原既死之後,楚有宋玉、唐勒、景差之徒者,皆好辞而以賦見称;然皆祖屈原之従容辞令,終莫敢直諫。其後楚日以削,数十年竟為秦所滅。自屈原沈汨羅後百有余年,漢有賈生,為長沙王太傅,過湘水,投書以弔屈原。
書き下し
是に於て石を懐きて遂に自ら汨羅に沈みて以て死す。屈原既に死するの後、楚に宋玉・唐勒・景差の徒なる者有り。皆辞を好みて賦を以て称せらる。然れども皆屈原の従容たる辞令を祖とし、終に敢て直諫する莫し。其の後楚は日に以て削られ、数十年にして竟に秦の滅ぼす所と為る。屈原の汨羅に沈みし後より百有余年、漢に賈生有り。長沙王の太傅と為り、湘水を過ぎ、書を投じて以て屈原を弔ふ。
現代語訳
こうして屈原は石を抱き、ついに自ら汨羅の淵に身を沈めて死んだ。屈原の死後、楚には宋玉・唐勒・景差といった人々がいて、みな文辞を好み、賦の名手として称えられた。しかし彼らはみな屈原の落ち着いた優雅な言い回しを手本としただけで、ついに君主を正面から諫めようとする者はいなかった。その後、楚は日ごとに領土を削られ、数十年のうちについに秦に滅ぼされた。屈原が汨羅に沈んでから百年余りのち、漢に賈生(賈誼)という人が現れた。長沙王の太傅(守り役)となり、湘水を渡るとき、文を水に投じて屈原を弔った。
解説
屈原の最期と、その後の楚の運命、そして百年後の賈誼へと話がつながる段です。屈原は石を抱いて汨羅に身を投げました。その後の楚にも宋玉らすぐれた文人がいましたが、彼らは屈原の美しい文体をまねるばかりで、屈原のように命がけで君主を諫める者はいなかった、と司馬遷は書きます。文体は受け継がれても、その根にあった気骨は受け継がれなかったのです。そして楚は数十年で秦に滅ぼされました。屈原と賈誼を一つの伝にまとめたのは、ともに才能がありながら讒言で遠ざけられ、長沙の地で不遇をかこった者として、司馬遷が二人を重ねて見ていたからでしょう。先人の仕事を引き継ぐとき、形や手法だけをまねて、その底にある覚悟を置き去りにしていないかを考えさせられます。
この章句が説くこと
屈原の死直諫汨羅に身を投ず継承気骨信念に殉じる
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