師導古典を学びたいすべての人に

二宮翁夜話 / 巻之五

或曰、親鸞は末世の比丘戒行の持ち難きを洞察して肉食妻帯を免せり、卓見と云ふべしと、翁曰、恐らくは非ならん、予仏道は知らずといへども、之を譬へば、田地の用水堰の如き物なるべし、夫れ用水堰は、米を作るべき地を潰して水路とせしなり、其の如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生を済度せんとする教なる事明なり、夫れ人は男女有りて相続すれば男女の道は天理自然なれ共、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしたるなり、肉身なれば肉食するも、天理なれども、此の欲をも潰して法水の堰路とせしなり、男女の欲を捨つれば、惜しひ欲しひの欲念も、悪ひかはゆいの妄念も、皆随ひて消滅すべし、此の人情捨て難き物を捨てて、堰代と為せばこそ、法水は流るるなれ、されば肉食妻帯せざる処を流伝して、仏法は万世に伝はる物なるべし、仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし、然るを肉食妻帯を免して法を伝へんとするは、水路を潰して、稲を植ゑんとするが如しと、予は竊かに我れ恐るるなり。

書き下し

或(ある)ひと曰く、親鸞(しんらん)は末世の比丘戒行(びくかいぎょう)の持(たも)ち難(がた)きを洞察(どうさつ)して肉食妻帯(にくじきさいたい)を免(ゆる)せり、卓見(たっけん)と云ふべしと、翁曰く、恐らくは非ならん、予仏道は知らずといへども、之を譬(たと)へば、田地の用水堰(せき)の如き物なるべし、夫れ用水堰は、米を作るべき地を潰(つぶ)して水路とせしなり、其の如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんとする教なる事明なり、夫れ人は男女有りて相続すれば男女の道は天理自然なれ共、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしたるなり、肉身なれば肉食するも、天理なれども、此の欲をも潰して法水の堰路とせしなり、男女の欲を捨つれば、惜(お)しひ欲しひの欲念も、悪(にく)ひかはゆいの妄念(もうねん)も、皆随(したが)ひて消滅すべし、此の人情捨て難き物を捨てて、堰代(せきしろ)と為せばこそ、法水は流るるなれ、されば肉食妻帯せざる処を流伝(るでん)して、仏法は万世に伝はる物なるべし、仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし、然るを肉食妻帯を免して法を伝へんとするは、水路を潰して、稲(いね)を植ゑんとするが如しと、予は竊(ひそ)かに我れ恐るるなり。

現代語訳

ある人が言った。親鸞は末世に僧の戒律を守り通すのが難しいことを見抜いて、肉食妻帯を許した。卓見というべきだ、と。翁が言われた。おそらく間違いだろう。私は仏道を知らないが、これをたとえれば、田地の用水堰のようなものだろう。そもそも用水堰は、米を作るべき土地を潰して水路にしたものだ。それと同じで、人の欲するところを潰して法の水路とし、衆生を救おうとする教えであることは明らかだ。人は男女がいて子孫を残すのだから、男女の道は天の自然の理ではあるが、法の水を流すために、男女の欲を潰して堰の路としたのだ。肉体を持つ以上、肉食も天の理だが、この欲もまた潰して法水の堰路とした。男女の欲を捨てれば、惜しい欲しいという欲念も、憎いかわいいという妄念も、みなそれに従って消え去るだろう。この人情として捨てがたいものを捨てて堰の材料とするからこそ、法の水は流れるのだ。だから肉食妻帯しないところを伝えて、仏法は万世に伝わるものだろう。仏法が伝わっていくのは、肉食妻帯しないところにあるはずだ。それなのに肉食妻帯を許して法を伝えようとするのは、水路を潰して稲を植えようとするようなものだ、と。私はひそかにそれを恐れるのである。

解説

親鸞の肉食妻帯の許容を「卓見」と評した人に対し、尊徳が疑問を呈した一条です。彼は農民らしく仏法を用水堰にたとえます。堰は米を作れる土地をあえて潰して水路とするように、仏法も人の捨てがたい欲を潰し、その材料として法の水を流す――欲を断つ厳しさこそが教えを万世に伝える力だ、と説きます。欲を許してしまえば、水路を潰して稲を植えるように本末転倒になりかねない、というのです。宗派の当否はさておき、私欲を制御し、それをむしろエネルギー源として活かすという発想は、私利を抑えて社会に譲る「推譲」や自己を律する報徳の精神と響き合います。安易さに流れず、あえて欲を制する厳しさに価値を見た、尊徳の一面がうかがえます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳私欲を制する用水堰推譲至誠

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる