歎異抄 / 後序
右条々は皆もって、信心の異なるより起こり候か。 故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子その数多かりける中に、同じ御信心の人も少なくおわしけるにこそ、親鸞御同朋の御中にして御相論のこと候いけり。
書き下し
右条々は皆もって、信心の異なるより起こり候か。 故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子その数多かりける中に、同じ御信心の人も少なくおわしけるにこそ、親鸞御同朋の御中にして御相論のこと候いけり。
現代語訳
右に述べてきた数々の条は、みな信心の違いから起こったことであろうか。亡き聖人の御物語によれば、法然聖人がご在世のころ、御弟子はその数が多かった中でも、同じ信心を持つ人は少なかったということで、親鸞と同じ門下の仲間との間で、こんな論争があったという。
解説
これまで述べてきた数々の異義は、結局のところ信心のとらえ方の違いに行き着くと総括される。師を同じくする仲間の間でさえ、信心の理解には食い違いが生まれるものだという事実は、正しい理解が一枚岩であることの難しさを物語っている。以下では、その具体例として親鸞自身が経験した論争が語られていく。同じ師のもとで学んでいても、受け取り方は一人ひとり違っているものだという、率直な認識がここにある。
この章句が説くこと
信心の異なり師弟の論争法然門下