歎異抄 / 第二条
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。 しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
書き下し
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。 しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
現代語訳
あなたがたそれぞれが、十カ国あまりの国境を越え、命の危険を顧みずに訪ねてきてくださったお志は、ひとえに往生極楽への道を尋ね聞きたいがためであろう。しかし、念仏のほかにも往生の道を知っており、また経典の意味なども知っているだろうと、心の中でひそかに期待しておられるのだとしたら、それは大きな誤りである。
解説
遠路はるばる訪ねてきた弟子たちに対し、親鸞は自分に特別な秘伝や学識があるわけではないとまず釘を刺す。人は権威や経験のある相手に、何か特別な答えを期待してしまいがちだが、その期待自体が的外れであると最初に断られる場面である。誰かに教えを乞うとき、自分は何を本当に求めているのかを見つめ直させられる箇所であり、憧れや権威への過剰な期待から離れて向き合うことの大切さを教えてくれる。
この章句が説くこと
求道期待誤解
関連する章句
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歎異抄・第二条もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。 親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
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歎異抄・別序そもそもかの御在生の昔、同じ志にして歩みを遼遠の洛陽に励まし、信を一つにして心を当来の報土にかけし輩は、同時に御意趣を承りしかども、その人々に伴いて念仏申さるる老若、その数を知らずおわします中に、聖人の仰せにあらざる異義どもを、近来は多く仰せられおうて候由、伝え承る。いわれなき条々の子細のこと。
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歎異抄・前序ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。
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歎異抄・第二条念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。 たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
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歎異抄・第六条専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らんこと、もってのほかの子細なり。 親鸞は弟子一人ももたず候。 そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ、ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申し候人を、「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。
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歎異抄・第二条弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。 詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御計らいなり、と云々。