学問のすゝめ / 十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・西洋に親鸞上人を生じ日本にマルチン・ルーザを
これらの箇条を枚挙すれば際限あることなし。今少しく高尚に進みて宗旨のことに及ばん。四百年前西洋に親鸞上人を生じ、日本にマルチン・ルーザを生じ、上人は西洋に行なわるる仏法を改革して浄土真宗を弘め、ルーザは日本のローマ宗教に敵してプロテスタントの教えを開きたることあらば、論者必ず評して言わん、「宗教の大趣意は衆生済度にありて人を殺すにあらず。いやしくもこの趣意を誤ればその余は見るに足らざるなり。西洋の親鸞上人はよくこの旨を体し、野に臥し、石を枕にし、千辛万苦、生涯の力を尽くしてついにその国の宗教を改革し、今日に至りては全国人民の大半を教化したり。その教化の広大なることかくのごとしといえども、上人の死後、その門徒なる者、宗教の事につき、あえて他宗の人を殺したることなくまた殺されたることもなきは、もっぱら宗徳をもって人を化したるものと言うべし。
書き下し
これらの箇条を枚挙すれば際限あることなし。今少しく高尚に進みて宗旨のことに及ばん。四百年前西洋に親鸞上人を生じ、日本にマルチン・ルーザを生じ、上人は西洋に行なわるる仏法を改革して浄土真宗を弘め、ルーザは日本のローマ宗教に敵してプロテスタントの教えを開きたることあらば、論者必ず評して言わん、「宗教の大趣意は衆生済度にありて人を殺すにあらず。いやしくもこの趣意を誤ればその余は見るに足らざるなり。西洋の親鸞上人はよくこの旨を体し、野に臥し、石を枕にし、千辛万苦、生涯の力を尽くしてついにその国の宗教を改革し、今日に至りては全国人民の大半を教化したり。その教化の広大なることかくのごとしといえども、上人の死後、その門徒なる者、宗教の事につき、あえて他宗の人を殺したることなくまた殺されたることもなきは、もっぱら宗徳をもって人を化したるものと言うべし。
現代語訳
これらの箇条を数え上げれば際限がありません。今少し高尚に進んで宗教のことに及びましょう。四百年前、西洋に親鸞上人が生まれ、日本にマルティン・ルターが生まれ、上人は西洋で行われている仏法を改革して浄土真宗を広め、ルターは日本のローマ宗教に敵対してプロテスタントの教えを開いたとすれば、論者は必ず評して言うでしょう。宗教の大きな趣旨は人々を救うことにあって人を殺すことではない。かりにもこの趣旨を誤れば、その他は見るに足らない。西洋の親鸞上人はよくこの旨を体し、野に臥し石を枕にし、千辛万苦して生涯の力を尽くしてついにその国の宗教を改革し、今日に至っては全国人民の大半を教化した。その教化の広大さはこの通りだが、上人の死後、その門徒が宗教のことで他宗の人を殺したこともなく、また殺されたこともないのは、もっぱら宗教の徳で人を感化したものと言うべきだ、と。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・ただ後世博識家の確説を待つのみ竊に按ずるに日本の耶蘇教も西洋の仏法も、その性質は同一なれども、野蛮の国土に行なわるればおのずから殺伐の気を促し、文明の国に行なわるればおのずから温厚の風を存するによりて然るものか、あるいは東方の耶蘇教と西方の仏法とは、はじめよりその元素を異にするによりて然るものか、あるいは改革の始祖たる日本のルーザと西洋の親鸞上人とその徳義に優劣ありて然るものか、みだりに浅見をもって臆断すべからず。ただ後世博識家の確説を待つのみ」と。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・虎狼相闘い食肉流血顧みて日本の有様を見れば、ルーザひとたび世に出でてローマの旧教に敵対したりといえども、ローマの宗徒容易にこれに服するにあらず、旧教は虎のごとく新教は狼のごとく、虎狼相闘い食肉流血、ルーザの死後、宗教のために日本の人民を殺し日本の国財を費やし、師を起こし国を滅ぼしたるその禍は、筆もって記すべからず、口もって語るべからず、殺伐なるかな、野蛮の日本人は、衆生済度の教えをもって生霊を塗炭に陥れ、敵を愛するの宗旨によりて無辜の同類を屠り、今日に至りてその成跡如何を問えば、ルーザの新教はいまだ日本人民の半ばを化すること能わずと言えり。東西の宗教その趣を異にすることかくのごとし。余輩ここに疑いを容るること日すでに久しといえども、いまだその原因の確かなるものを得ず。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・疑いを容るべからざるの習慣に疑いを容るるローマ宗教の妄誕を疑いて教法に一面目を改めたる者はマルチン・ルーザなり。フランスの人民は貴族の跋扈に疑いを起こして騒乱の端を開き、アメリカの州民は英国の成法に疑いを容れて独立の功を成したり。今日においても、西洋の諸大家が日新の説を唱えて人を文明に導くものを見るに、その目的はただ古人の確定して駁すべからざるの論説を駁し、世上に普通にして疑いを容るべからざるの習慣に疑いを容るるにあるのみ。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・日本の人はあたかも盗賊と雑居するがごとし西洋人は家の内外に錠を用うること少なく、旅中に人足を雇うて荷物を持たしめ、その行李に慥かなる錠前なきものといえども常に物を盗まるることなく、あるいは大工、左官等のごとき職人に命じて普請を請け負わしむるに、約定書の密なるものを用いずして、後日に至り、その約定につき公事訴訟を起こすことまれなれども、日本人は家内の一室ごとに締りを設けて座右の手箱に至るまでも錠を卸し、普請請負いの約定書等には一字一句を争うて紙に記せども、なおかつ物を盗まれ、あるいは違約等の事につき、裁判所に訴うること多き風ならば、論者また歎息していわん。「ありがたきかな耶蘇の聖教、気の毒なるかなパガン外教の人民、日本の人はあたかも盗賊と雑居するがごとし、これをかの西洋諸国自由正直の風俗に比すれば万々同日の論にあらず、実に聖教の行なわるる国土こそ道に遺を拾わずと言うべけれ」と。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらずなんぞそれ事物を信ずるの軽々にして、またこれを疑うの粗忽なるや。西洋の文明はわが国の右に出ずること必ず数等ならんといえども、けっして文明の十全なるものにあらず。その欠点を計うれば枚挙に遑あらず。彼の風俗ことごとく美にして信ずべきにあらず、我の習慣ことごとく醜にして疑うべきにあらず。
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『学問のすゝめ』十五編・事物を疑いて取捨を断ずること・彼の富強はまことに羨むべしといえども西洋の文明もとより慕うべし。これを慕いこれに倣わんとして日もまた足らずといえども、軽々これを信ずるは信ぜざるの優に若かず。彼の富強はまことに羨むべしといえども、その人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに倣うべからず。日本の租税寛なるにあらざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえってわが農民の有様を祝せざるべからず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼なる細君が跋扈して良人を窘しめ、不順なる娘が父母を軽蔑して醜行を逞しゅうするの俗に心酔すべからず。