『孫子(そんし)』という兵法書の名前を知らない人は、あまりいないと思います。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」「戦わずして人の兵を屈する」。経営書やビジネス書でも、繰り返し引かれてきました。

では、その『孫子』を書いた人は、どんな人だったのか。こう聞かれると、答えに詰まるはずです。名前は孫武(そんぶ)。二千五百年ほど前の人。そこから先が、ほとんど出てきません。

無理もないことです。孫武について、まとまった記録は司馬遷(しばせん)の『史記(しき)』しかありません。しかもその伝記が孫武について書いている具体的な場面は、ほぼ一つだけです。王の前で宮中の女性たちを兵に見立てて訓練し、王のお気に入りの二人を斬った、という話です。

さらにややこしいことに、「孫子」と呼ばれる人物は二人います。孫武と、その百年あまり後に現れた孫臏(そんぴん)です。長いあいだ、二人は同じ人ではないか、孫武はそもそも実在しなかったのではないかと疑われてきました。その議論に一つの区切りをつけたのは、一九七二年に中国の古い墓から出てきた竹の札でした。

この記事では、『史記』が書いた孫武と孫臏の姿を原文でたどり、そのうえで「実在したのか」「二人の孫子はどう違うのか」という問いに、分かっている範囲で答えます。『孫子』の名言そのものは孫子の名言の記事で読んでいます。本記事は言葉ではなく、人の記事です。

孫武とは ― 先に「二人の孫子」を分けておく

最初に輪郭を押さえておきます。

孫武は、春秋時代の終わりごろの人です。生まれは斉(せい。いまの山東省のあたり)とされ、南方の呉(ご。いまの江蘇省のあたり)の王・闔廬(こうりょ)に仕えて将軍になったと伝えられます。生まれた年も亡くなった年も分かっていません。仕えた闔廬の在位が紀元前五一四年から前四九六年ごろなので、孔子とほぼ同じ時代の人ということになります。

孫臏は、戦国時代の中ごろ、紀元前四世紀の人です。『史記』は孫武の子孫だと書いています。斉の軍師として魏(ぎ)と戦い、二つの有名な勝利を挙げました。

「孫子」の「子」は、孔子・老子と同じ先生を表す敬称なので、二人とも「孫子」と呼ばれえます。『史記』の本文でも、二人ともそのまま「孫子」と書かれています。この記事では、人は「孫武」「孫臏」、書名だけを『孫子』と書きます。

一、兵法十三篇を読んだ王が、試しに訓練をさせた

『史記』には、孫武・孫臏・呉起(ごき)という三人の兵法家をまとめた「孫子呉起列伝(そんしごきれつでん)」という巻があります。孫武の部分は、次のように始まります。

【書き下し】孫子武は、斉人なり。兵法を以て呉王闔廬に見ゆ。闔廬曰く、「子の十三篇、吾尽く之を観たり。以て小しく兵を勒するを試みる可きか」と。対へて曰く、「可なり」と。闔廬曰く、「試みるに婦人を以てす可きか」と。曰く、「可なり」と。是に於いて之を許し、宮中の美女を出だして、百八十人を得たり。

出典:史記 孫子呉起列伝

短い書き出しですが、見落とせない点が一つあります。王が「子の十三篇、吾尽く之を観たり」、あなたの十三篇はすべて読んだ、と言っていることです。

つまり、『史記』の筋書きでは、孫武は将軍になる前に、すでに本を書き上げていたことになります。まず本があり、それを読んだ王が「本当に使えるのか、小さく試してみせてくれ」と頼む。実績ではなく、著作が先に立っている人物なのです。

そして王は、わざわざ意地の悪い条件をつけます。「試みるに婦人を以てす可きか」、兵ではなく宮中の女性でもできるか、と。孫武は「可なり」とだけ答えました。

二、笑った宮女たち ― 「将の罪」と「吏士の罪」

孫武は百八十人を二隊に分け、王が特にかわいがっていた二人を、それぞれの隊長にしました。

【書き下し】孫子、分かちて二隊と為し、王の寵姫二人を以て各々隊長と為し、皆戟を持たせしむ。之に令して曰く、「汝、而の心と左右の手と背を知るか」と。婦人曰く、「之を知る」と。孫子曰く、「前には則ち心を視よ、左には左の手を視よ、右には右の手を視よ、後ろには即ち背を視よ」と。婦人曰く、「諾」と。約束既に布かれ、乃ち鈇鉞を設け、即ち之に三令五申す。

出典:史記 孫子呉起列伝

前・左・右・後ろの意味を確かめ、「分かったか」「分かりました」というやりとりまでしています。そのうえで処刑用の斧(鈇鉞=ふえつ)を据え、命令を「三令五申」、三度繰り返して五度念を押しました。この四字熟語は、ここから来ています。

ところが、太鼓を打って「右」と号令すると、女性たちは大笑いしました。

【書き下し】是に於いて之を右に鼓す。婦人大いに笑ふ。孫子曰く、「約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり」と。復た三令五申して之を左に鼓す。婦人復た大いに笑ふ。孫子曰く、「約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり。既に已に明らかにして而も法の如くにせざるは、吏士の罪なり」と。

出典:史記 孫子呉起列伝

この段でいちばん大事なのは、処刑の場面より、その前です。

一度目に笑われたとき、孫武は女性たちを責めていません。「約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり」。取り決めがはっきりせず、命令が行き渡っていないのは、指揮する自分の責任だ、と言っています。そしてもう一度、三度繰り返し五度念を押してから号令をかけ直しました。

二度目も笑われて、はじめて言葉が変わります。すでにはっきり伝え、それでも決まりどおりに動かないのなら、それは隊長と兵の責任だ、と。

責任の置き場所を、伝わったかどうかで切り替えているのです。伝わっていない段階で部下を罰するのは筋違いで、伝わったあとに罰しないのは甘い。この区別は、『孫子』の本文にもそのまま書かれています。

【書き下し】卒未だ親附せずして之を罰すれば、則ち服せず、服せざれば則ち用い難きなり。卒已に親附して罰行われざれば、則ち用うべからざるなり。

出典:孫子 行軍篇

まだ心がつながっていないうちに罰すれば、兵は従わない。心がつながったあとで罰を行わなければ、兵は使いものにならない。そしてその手前にあるのが、ふだんから命令が行われているかどうかです。

【書き下し】令素より行われて以て其の民を教うれば、則ち民服す。令素より行われずして以て其の民を教うれば、則ち民服せず。令素より行わるる者は、衆と相得るなり。

出典:孫子 行軍篇

会社に置き換えると、ルールを破った部下を叱る前に、「そのルールは、本当に伝わっていたか」を確かめる、ということです。孫武は二度、自分の側を疑いました。三度目は疑いませんでした。

三、王の寵姫を斬る ― 「君命も受けざる所有り」

孫武が隊長二人を斬ろうとすると、台の上から見ていた王が慌てて使いをよこします。

【書き下し】乃ち左右の隊長を斬らんと欲す。呉王、台上より観、且に愛姫を斬らんとするを見て大いに駭き、趣かに使ひをして令を下さしめて曰く、「寡人已に将軍の能く兵を用ゐるを知れり。寡人、此の二姫に非ずんば、食するも味はひを甘しとせず。願はくは斬る勿れ」と。孫子曰く、「臣、既に已に命を受けて将為り。将、軍に在りては、君命も受けざる所有り」と。遂に隊長二人を斬りて以て徇ふ。其の次を用ゐて隊長と為し、是に於いて復た之を鼓す。婦人、左右前後跪起し、皆規矩縄墨に中り、敢て声を出だす者無し。

出典:史記 孫子呉起列伝

「将軍の腕前はもう分かった。あの二人がいないと食事もうまくないのだ。どうか斬らないでくれ」。王にここまで言われて、孫武は「将、軍に在りては、君命も受けざる所有り」と答え、二人を斬りました。次の者を隊長にして太鼓を打つと、今度は誰一人、声を立てませんでした。

残酷な話です。現代の感覚で「見習え」と読むものではありません。ただ、この一言には読むべきところがあります。「君命も受けざる所有り」は、『孫子』の本文にある言葉なのです。

【書き下し】途に由らざる所有り、軍に撃たざる所有り、城に攻めざる所有り、地に争はざる所有り、君命に受けざる所有り。

出典:孫子 九変篇

通ってはならない道、撃ってはならない軍、攻めてはならない城、争ってはならない土地がある。そして、受けてはならない君命もある。九変篇はこれを、戦場で臨機応変に判断するための原則として並べています。地形篇には、さらに踏み込んだ一節があります。

【書き下し】故に戦道必ず勝たば、主戦う無かれと曰うとも、必ず戦うも可なり。戦道勝たずんば、主必ず戦えと曰うとも、戦う無きも可なり。是の故に進みて名を求めず、退きて罪を避けず、唯だ民を是れ保ちて、而して利の主に合うは、国の宝なり。

出典:孫子 地形篇

勝てると分かっているなら、主君が「戦うな」と言っても戦ってよい。勝てないなら、主君が「戦え」と言っても戦わなくてよい。進んでも名誉を求めず、退いても罪を避けない。ただ民を守り、結果として主君の利益にかなう者こそ「国の宝」だ、と。

『史記』の宮女の話は、この原則を王の目の前で、王の寵愛する人を相手にやってみせた、という筋になっています。本に書いたことを、書いた本人が、いちばん言い逃れのきかない形で実行した。司馬遷が孫武について一つだけ場面を選ぶとき、これを選んだ理由はそこにあるのでしょう。

四、「王は言葉を好むだけで、実を用いられない」

話には続きがあります。訓練を終えた孫武は、王に「兵は整いました。降りてご覧ください。水の中へでも火の中へでも進ませられます」と伝えました。王の返事は冷たいものでした。

【書き下し】是に於いて孫子、使ひをして王に報ぜしめて曰く、「兵既に整斉たり。王試みに下りて之を観る可し。唯だ王の之を用ゐんと欲する所、水火に赴くと雖も猶ほ可なり」と。呉王曰く、「将軍罷休して舎に就け。寡人、下りて観るを願はじ」と。孫子曰く、「王、徒に其の言を好み、其の実を用ゐる能はず」と。是に於いて闔廬、孫子の能く兵を用ゐるを知り、卒に以て将と為す。西のかた彊楚を破りて郢に入り、北のかた斉・晋を威し、名を諸侯に顕ししは、孫子与りて力有り。

出典:史記 孫子呉起列伝

「将軍は宿舎へ帰って休め。私は見に降りたくない」。孫武はそれに対して、「王、徒に其の言を好み、其の実を用ゐる能はず」と言いました。王は兵法の言葉が好きなだけで、中身を使うことはできない、と。

十三篇を全部読んだと言った王への、痛烈な一言です。兵法を「読む人」と「使う人」の距離を書いた話として読めます。それでも闔廬は、この一言を言った相手を最後には将軍にしました。

五、呉の将軍として ― 「民労る、未だ可ならず」

では、将軍になった孫武は何をしたのか。孫子呉起列伝は、「西は強い楚を破って都の郢(えい)に入り、北は斉・晋を威圧した。孫武はそれに力があった」とまとめるだけです。

実は『史記』には、孫武が出てくる場面がもう少しあります。呉に亡命した楚の人、伍子胥(ごししょ)の伝記「伍子胥列伝」です。

【書き下し】因りて郢に至らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、且く之を待て」と。乃ち帰る。

出典:史記 伍子胥列伝

闔廬の即位三年目、呉は楚を攻めて勝ち、その勢いで楚の都まで攻め込もうとしました。そこで孫武が止めます。「民が疲れています。まだその時ではありません」。勝っている最中に、ブレーキをかけているのです。

六年後、王はそのことを覚えていて、二人に問い直します。

【書き下し】九年、呉王闔廬、子胥・孫武に謂ひて曰く、「始め子、郢は未だ入る可からずと言へり、今果たして何如」と。二子対へて曰く、「楚の将嚢瓦は貪にして、唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに之を伐たんと欲せば、必ず先づ唐・蔡を得て乃ち可なり」と。

出典:史記 伍子胥列伝

楚の将軍は欲が深く、周りの小国の唐と蔡に恨まれている。攻めるなら、まずその二国を味方につけよ。条件が整うのを待ち、整えてから動く。『孫子』が繰り返し説く順番どおりの進言です。これが紀元前五〇六年、呉が楚の都を落とした柏挙(はくきょ)の戦いにつながります。

ただし、同じ伍子胥列伝を読むと、決定的な一撃を加えたのは孫武ではありません。王の弟の夫概(ふがい)が、許しを得ないまま自分の手勢五千人で楚軍に突っ込み、それが楚の総崩れのきっかけになっています。孫武は、勝利の場面で名前が前に出てこない将軍なのです。

伍子胥列伝は、この時期の呉をこう締めくくります。

【書き下し】是の時に当り、呉、伍子胥・孫武の謀を以て、西のかた彊楚を破り、北のかた斉・晋を威し、南のかた越人を服す。其の後四年、孔子魯に相たり。

出典:史記 伍子胥列伝

司馬遷は、呉の最盛期のすぐあとに「その四年後、孔子が魯の宰相になった」と書き添えています。孫武と孔子は同じ時代の人でした。

『孫子』の本文にも、この時代の呉の事情がにじんでいる箇所があります。

【書き下し】吾を以て之を度るに、越人の兵多しと雖も、亦た奚ぞ勝敗に益あらんや。

出典:孫子 虚実篇

想定されている敵は越、呉の南隣の宿敵です。「呉越同舟」も、呉と越の仲の悪さを例に出したものでした(孫子の名言の記事の十二番目)。本の中の敵が呉の敵と一致していることは、この本が呉の周辺で書かれたと考える材料の一つです。

六、孫武は実在したのか ― 『春秋左氏伝』に名前がない

ここで、長く議論されてきた問題に触れておきます。孫武は本当にいたのかという問題です。

春秋時代の出来事をもっとも詳しく書いた歴史書に、『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』があります。『左伝』は呉が楚の都を落とした柏挙の戦いを詳しく記録していて、伍子胥(伍員)も夫概も出てきます。ところが、孫武の名前は一度も出てきません。

南宋の学者・葉適(しょうてき)は、この点を突いて孫武の実在を疑いました。春秋時代に他国の人を将軍に取り立てた例はない、呉の人でもない孫武がなぜ将軍になれたのか、『左伝』に出てこないのもおかしい、という趣旨です。その後も清の全祖望(ぜんそぼう)など、孫武の実在を疑う学者が続きました。日本でも、江戸時代の斎藤拙堂(さいとう せつどう)が同じ立場をとっています。

疑いの中には、『孫子』を書いたのは実は百年あとの孫臏で、それが孫武の名で伝わったという説や、二人を同じ人物とみる説もありました。

この議論は、文献を読み比べるだけでは決着がつきませんでした。決着に近づけたのは、孫臏の兵法書が土の中から出てきたことです(九節)。

七、孫臏 ― 百年あとの、もう一人の「孫子」

孫子呉起列伝は、孫武の話を終えると、すぐに孫臏に移ります。

【書き下し】孫武既に死し、後百余歳して孫臏有り。臏は阿・鄄の間に生まる。臏も亦た孫武の後世の子孫なり。孫臏嘗て龐涓と倶に兵法を学ぶ。龐涓既に魏に事へ、恵王の将軍と為るを得たり。而れども自ら以為らく、能は孫臏に及ばず、と。乃ち陰かに孫臏を召さしむ。臏至り、龐涓、其の己より賢なるを恐れ、之を疾む。則ち法刑を以て其の両足を断ちて之を黥し、隠れて見る勿らんことを欲す。

出典:史記 孫子呉起列伝

同門の龐涓(ほうけん)は、自分が孫臏に及ばないと知っていたからこそ、呼び寄せて罪を着せ、両足を断ちました。

「臏」という字は、もともと膝の皿の骨のことで、そこから足を切る刑を指すようになりました。孫臏という名は、受けた刑の名で呼ばれたものと考えられています。本名は分かっていません。

足を失った孫臏は斉へ逃れ、将軍の田忌(でんき)の客になります。そこで、競馬の三番勝負で自分の下の馬を相手の上の馬に、上を中に、中を下に当てて二勝一敗にする「田忌の競馬」を見せ、斉の威王の軍師に迎えられました(史記 孫子呉起列伝)。

八、囲魏救趙と馬陵 ― 「龐涓、此の樹の下に死せん」

孫臏の名を高めた戦いは二つあります。

一つ目は、魏が趙(ちょう)を攻め、趙が斉に助けを求めたときです。紀元前三五三年とされます。威王は孫臏を将軍にしようとしましたが、孫臏は「刑を受けた身では務まらない」と断り、幌のついた車の中から作戦を立てる軍師になりました。田忌がまっすぐ趙へ向かおうとすると、孫臏はこう止めます。

【書き下し】夫れ雑乱紛糾を解く者は控棬せず、闘を救ふ者は搏撠せず。亢を批け虚を擣ち、形格り勢い禁ずれば、則ち自ら解くを為さんのみ。今、梁・趙相ひ攻む。軽兵鋭卒は必ず外に竭き、老弱は内に罷せん。君、兵を引きて疾く大梁に走り、其の街路に拠り、其の方に虚なるを衝くに若かず。彼必ず趙を釈てて自ら救はん。是れ我が一挙にして趙の囲みを解きて弊を魏に収むるなり」と。

出典:史記 孫子呉起列伝

もつれた糸をほどくのに、力任せに引っ張ってはいけない。喧嘩を止めるのに、自分も殴り合いに加わってはいけない。趙を助けたいなら趙へ行くのではなく、主力が出払って手薄になった魏の都を突け。魏は必ず趙を放って引き返す。これが囲魏救趙(いぎきゅうちょう)、魏を囲んで趙を救う、として後世に知られる策です。

これも『孫子』の本文と響き合います。

【書き下し】我戦わんと欲すれば、敵塁を高くし溝を深くすと雖も、我と戦わざるを得ざる者は、其の必ず救う所を攻むればなり。

出典:孫子 虚実篇

こちらが戦いたいとき、敵がどれほど守りを固めていても出てこざるをえないのは、敵が必ず救いに来る場所を攻めるからだ。孫臏がやったのは、まさにこれでした。

二つ目は、その十三年後の馬陵(ばりょう)の戦いです。紀元前三四二年とも前三四一年ともされます。今度は魏が韓を攻め、斉はふたたび魏の都を目指しました。引き返してきた龐涓の軍を前に、孫臏は相手の思い込みを使います。

【書き下し】彼の三晋の兵は素悍勇にして斉を軽んじ、斉をば号して怯と為す。善く戦ふ者は其の勢いに因りて之を利導す。兵法に、百里にして利に趣く者は上将を蹶し、五十里にして利に趣く者は軍半ば至る、と。斉の軍をして魏の地に入りて十万の竈を為り、明日五万の竈を為り、又明日三万の竈を為らしめよ」と。

出典:史記 孫子呉起列伝

魏の兵は斉の兵を臆病だと見くびっている。ならば、野営のかまどの数を十万、五万、三万と毎日減らしてみせよ。追ってきた龐涓は「斉の兵は三日で半分以上逃げた」と喜び、歩兵を置き去りにして、身軽な精鋭だけで昼夜兼行の追撃に移りました。

ここで孫臏は「兵法に」として一節を引いています。「百里にして利に趣く者は上将を蹶し、五十里にして利に趣く者は軍半ば至る」。これは『孫子』軍争篇に対応する言葉です。

【書き下し】百里にして利を争えば、則ち三軍の将を擒にせらる。勁き者は先だち、疲るる者は後る。其の法十に一つ至る。五十里にして利を争えば、則ち上軍の将を蹶く。其の法半ば至る。

出典:孫子 軍争篇

見比べると、数字の組み合わせが少しずれています。軍争篇では、百里を急げば三軍の将が捕らえられ、五十里なら上軍の将を失う、となっています。孫臏の引用では、百里で上将を失い、五十里で半分が着く。記憶で引いたのか、伝わった本が違ったのかは分かりません。(軍争篇のこの段は、風林火山の記事で「疾きこと風の如く」の値段として読んでいます。)ただ、孫臏が孫武の兵法を「兵法」として引いていること自体は、二人が別の人で、孫臏が先人の書を学んだ側だったという『史記』の筋書きと合っています。

そして結末です。

【書き下し】乃ち大樹を斫り白げて之に書して曰く、「龐涓、此の樹の下に死せん」と。是に於いて斉の軍の善く射る者萬弩をして、道を夾みて伏せしめ、期して曰く、「暮に火の挙がるを見て倶に発せよ」と。龐涓果たして夜、斫木の下に至り、白書を見、乃ち火を鑽りて之を燭す。其の書を読むこと未だ畢らざるに、斉の軍の萬弩倶に発す。魏の軍大いに乱れて相ひ失す。龐涓、自ら智窮まり兵敗るるを知り、乃ち自剄して曰く、「遂に豎子の名を成せり」と。

出典:史記 孫子呉起列伝

孫臏は、龐涓が日暮れに馬陵の狭い道に着くと読み、大木の皮を削って白くし、「龐涓、此の樹の下に死せん」と書きました。道の両側には弩(いしゆみ)の名手を一万人伏せ、「火が上がったら一斉に射よ」と命じておきます。夜、木の下に着いた龐涓は、白い文字に気づいて火をともしました。読み終わらないうちに矢が降り注ぎ、龐涓は「とうとうあの小僧に名を成させてしまった」と言って自ら首をはねました。

かつて足を奪った相手に、自分の「読み」で討たれる。『史記』の中でも、とりわけ劇的な場面の一つです。

九、一九七二年、銀雀山 ― 二冊の兵法書が、別々に出てきた

さて、六節の問いに戻ります。

中国の古い図書目録である『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)には、兵法書として「呉孫子兵法 八十二篇」と「斉孫子 八十九篇」が別々に載っています。呉の孫子=孫武と、斉の孫子=孫臏です。漢の時代には、二人の孫子の兵法書が別の本として存在していたことになります。

ところが斉孫子のほうは、その後の目録から姿を消しました。『隋書(ずいしょ)』経籍志にはもう載っておらず、それ以来、およそ千七百年にわたって失われた本になっていました。残ったのは一冊の『孫子』だけです。こうなると、「残った一冊は本当は孫臏の書ではないか」という疑いが出てくるのも無理はありません。

転機は一九七二年四月に訪れました。山東省臨沂(りんぎ)県の銀雀山(ぎんじゃくざん)で、前漢時代の墓が発掘されたのです。一号墓からは四千九百枚を超える竹簡、つまり文字を書いた竹の札が出てきました。墓の年代は、一緒に出た暦や貨幣から、前漢の武帝の初めごろ、紀元前一三四年から前一一八年のあいだと推定されています。

その中に、いまの『孫子』十三篇に当たる兵法書と、それとは別の、孫臏の兵法書が一緒に入っていました。後者は『孫臏兵法』と名づけられています。千七百年ぶりに姿を現した「斉孫子」です。

二つの書が同じ墓から別々の書として出てきたことで、「いまの『孫子』は孫臏の書だ」という説は成り立ちにくくなりました。『孫子』は孫武の系統の書、孫臏には孫臏の書があるという見方が有力になったのです。孫武という人物の生涯そのものが証明されたわけではありませんが、少なくとも「二人の孫子を一人にまとめてしまう」議論には、ここで一つの区切りがつきました。

一方で、出土した『孫臏兵法』は新しい謎も持ち込みました。その中の一篇は、桂陵の戦い(囲魏救趙のとき)で龐涓を生け捕りにしたと書いているのです。『史記』では、龐涓は十三年後の馬陵で自ら命を絶っています。どちらが正しいのか、それとも龐涓は一度捕らえられて解き放たれたのか。これはまだ決着していません。土の中から出てきた一次資料が、『史記』の劇的な場面に疑問符をつけている、ということは覚えておいてよいと思います。

十、司馬遷の結び ― 語れる者は、必ずしも行えない

孫子呉起列伝の最後で、司馬遷は自分の感想を述べています。

【書き下し】語に曰く、『能く之を行ふ者は未だ必ずしも能く言はず、能く之を言ふ者は未だ必ずしも能く行はず』と。孫子、龐涓を籌策すること明らかなり、然れども蚤く患ひを被刑より救ふ能はず。呉起、武侯に説くに形勢の徳に如かざるを以てす、然れども之を楚に行ふに、刻暴少恩を以て其の軀を亡ふ。悲しいかな」と。

出典:史記 孫子呉起列伝

実行できる者が語れるとは限らず、語れる者が実行できるとは限らない。孫臏は龐涓を見事に謀ったが、自分が足を斬られる災いは、前もって防げなかった。呉起は「国を守るのは地形ではなく徳だ」と説いたのに、自分は冷酷なやり方で身を滅ぼした。悲しいことだ、と。

司馬遷は、兵法書の中身は世に出回っているから論じない、と断ったうえで、兵法家たちの「行い」だけを論じています。そして、他人のことは見通せた人が、自分の身の危険は見通せなかった、と書きました。

この「悲しいかな」には、司馬遷自身の影が重なっています。司馬遷は、敗将の李陵(りりょう)を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑という屈辱的な刑を受けました。そのあとで『史記』を書き継いだのです。自序の中で、苦難のなかで書を残した先人を並べたとき、その一人に孫臏を挙げています。

【白文】孫子臏腳,而論兵法

出典:史記 太史公自序

孫子は足を斬られて、兵法を論じた。刑を受けた身で書いた人を、刑を受けた身の歴史家が書いている。司馬遷の自序については、史記の名言の記事の最後の一句で詳しく読んでいます。

結び ― 人より、本のほうが確かに残った

孫武という人について、確かに言えることは多くありません。生まれた年も、亡くなった年も、どんな最期だったのかも、『史記』は書いていません。『左伝』には名前すら出てきません。

それでも司馬遷は、孫武の人生から一つの場面を選びました。十三篇を読んだ王の前で、伝わっていない命令は自分の責任として二度やり直し、伝わってからは王の寵愛する人でも例外にしなかった。そして「言葉を好むだけで、実を用いない」と王に言った。

この場面は、『孫子』の中身をそのまま人の姿にしたものです。命令が伝わっているかを先に疑うこと。現場を預かる者には、上からの命令でも受けないことがあること。どちらも十三篇の本文に書かれています。司馬遷は孫武の伝記を書くかわりに、本の中身を演じてみせる一場面を書いたのだ、と読むこともできます。

『孫子』形篇には、「善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功も無し」という言葉があります。本当に戦いのうまい者が勝っても、知恵者という評判も、勇敢だという手柄話も残らない。柏挙の戦いで孫武の名前が前に出てこないのは、この言葉どおりだったのかもしれません。人の記録は霧の中にあり、本は二千五百年残りました。孫武にとっては、それが望んだ残り方だったのではないでしょうか。

この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・現代語訳と解説つきで収録しています。

孫子の章句一覧
史記の章句一覧

『孫子』の言葉そのものを読むなら、こちらの記事です。

孫子の兵法の名言13選 — 原文・現代語訳と、戦わずして勝つの本当の意味
風林火山の意味 ― 原文には六句ある。そして信玄はこの言葉を使っていない
史記の名言12選 — 原文・現代語訳と、人を活かした者と活かせなかった者の記録

『史記』が書いた、ほかの著者たちの記事もあります。

老子とはどんな人か ― 生涯と実在の謎、司馬遷が「分からない」と書いた三人の候補
韓非の生涯 ― 『説難』を書いた男は、なぜ説得に失敗して死んだのか

本記事の出典について

『史記』と『孫子』の引用は、師導が収録する底本の書き下しをそのまま切り出しています。『史記』の書き下しは歴史的仮名遣い、『孫子』は現代仮名遣いで、底本の表記に従っています。太史公自序の一句だけは、書き下しの欄に該当の文言がないため、白文で引きました。

孫武・孫臏の生没年は不明で、闔廬の在位年、桂陵・馬陵の戦いの年には諸説があります(馬陵は二説を併記)。孫武の実在をめぐる議論、『漢書』芸文志と『隋書』経籍志の著録、銀雀山漢墓の発掘(一九七二年四月、山東省臨沂県)と竹簡の年代推定は、研究史の一般的な概説に拠っています。出土した竹簡が「孫武の実在」そのものを証明したわけではない点、『孫臏兵法』と『史記』で龐涓の最期の記述が食い違う点は、本文に記したとおりです。

宮女を斬った話が史実どおりであったかどうかは、確かめる手段がありません。本記事は、司馬遷がこの場面を孫武の伝記として書き残したことの意味を読むものです。