「老子(ろうし)とは、どんな人だったのか」。この問いに、いちばん正直に答えるとこうなります。よく分かっていません。

道家(どうか)の祖。『老子』、別名『道徳経(どうとくきょう)』の著者。「上善は水の若(ごと)し」「足るを知る者は富む」の人。名前も言葉もこれほど知られているのに、いつ生まれ、どこで何をして、いつ亡くなったのかは、確かなことがほとんど言えません。

しかも、これは現代の研究者だけの悩みではありません。老子の伝記を最初にまとめた二千年あまり前の歴史家・司馬遷(しばせん)が、すでに同じところで立ち止まっています。司馬遷は『史記(しき)』の老子の伝記に、老子らしき人物の候補を三人並べ、最後に「世に其の然るか否かを知る莫し(本当かどうかは、世の誰にも分からない)」と書きました。

この記事では、その『史記』の老子伝を原文で一段ずつ読みながら、「記録に書かれていること」「後に付け加えられた伝説」「土の中から出てきた手がかり」を分けて並べます。

言葉そのもの(名言)を読みたい方は、先に 老子の名言に学ぶ、リーダーの器 ― 水のように、無為にして治める をどうぞ。本記事は「何を言ったか」ではなく、「どんな人だったとされ、その言葉がどう残ったとされるか」を扱います。

引用は、師導が収録する各書の底本から、書き下し(漢文を日本語の語順に直した読み)の欄をそのまま切り出しています。

老子とは ― 先に輪郭だけ押さえておく

最初に、よく語られる「老子像」をまとめておきます。あとでこの一つひとつに疑問符が付いていきます。

  • 時代:春秋時代の末、紀元前六世紀から五世紀ごろ。孔子(前五五一〜前四七九)と同じころの人とされます。
  • 名前:姓は李(り)、名は耳(じ)、字(あざな。通称)は耼(たん)。「老子」は「老先生」くらいの意味の呼び名で、「老聃(ろうたん)」とも呼ばれます。
  • 仕事:周(しゅう)の王室で、書庫や記録を管理する役人。
  • 著作:上下二篇、五千字あまりの『老子』。のちに八十一章に分けられ、『道徳経』と呼ばれるようになります。
  • 最期:周の衰えを見て西へ去り、関所で書を残したあと、行方知れず。

この五つのうち、確かな同時代の記録で裏づけられるものは、実は一つもありません。いちばん古いまとまった伝記が、老子の時代から三百年以上あとに書かれた『史記』だからです。では、その『史記』は何を書いているのか。順に見ていきます。

一、『史記』が書いた経歴 ― 名は李耳、周の書庫の役人

『史記』は、前漢の司馬遷が紀元前一世紀の初めごろにまとめた歴史書です。そのなかの「老子韓非列伝(ろうしかんぴれつでん)」は、老子・荘子・申不害・韓非という、道家と法家の思想家をひとまとめにした伝記です。冒頭はこう始まります。

【書き下し】老子は、楚の苦県厲郷曲仁里の人なり。姓は李氏、名は耳、字は耼、周の守藏室の史なり。

出典:史記 老子韓非列伝

楚(そ)は、長江の中流域を中心にした南方の大国です。苦県(くけん)はいまの河南省鹿邑(ろくゆう)県あたりとされ(別の土地を生誕地とする説もあります)。

注目したいのは職業です。「守藏室の史」とは、周王朝の書庫を守る記録官のこと。いまで言えば、国立図書館と公文書館を兼ねた部署の役人です。古い記録や儀礼の文書に誰よりも詳しい立場にいた人が、その知識を一冊にまとめるのではなく、「知識を捨てよ」と説く書を残した。老子という人物像の面白さは、まずここにあります。

もう一つ、この一行には伝記としての大事な特徴があります。生まれた年も、亡くなった年も書かれていません。 同じ『史記』でも、孔子の伝記(孔子世家)は生まれた年と亡くなった年を記し、年齢を追って出来事を並べています。老子伝には、年がほとんど出てこない。司馬遷の手元に、年代の分かる記録がなかったのだと考えられます。

二、孔子が礼を問いに来た ― 「其れ猶お龍のごときか」

年の書かれていない老子伝のなかで、唯一はっきりした場面として描かれるのが、孔子との対面です。孔子が周の都を訪ね、礼(儀礼や制度)について老子に教えを請うた。老子はこう答えたといいます。

【書き下し】老子曰く、「子の言ふ所の者は、其の人と骨と皆已に朽つ。独り其の言在るのみ。且つ君子は其の時を得ば則ち駕し、其の時を得ざれば則ち蓬累して行く。吾之を聞く、良賈は深く藏して虚しきが若く、君子は盛徳あるも容貌は愚なるが若し、と。子の驕気と多欲、態色と淫志を去れ。是れ皆子の身に益無し。吾が以て子に告ぐる所は、是くの若きのみ」と。

あなたが語っている昔の聖人たちは、人も骨も朽ちて、言葉が残っているだけだ。優れた商人は品物を奥にしまって何も持たないように見せ、徳の高い人ほど愚か者のように見える。その驕りと欲、気取りと野心を捨てなさい――。礼の専門家に礼を尋ねたら、礼の話ではなく、「あなた自身の態度」を指摘された、という話です。

孔子は帰ってから、弟子たちにこう語ったとされます。

【書き下し】孔子去り、弟子に謂ひて曰く、「鳥は、吾其の能く飛ぶを知る。魚は、吾其の能く游ぐを知る。獣は、吾其の能く走るを知る。走る者には以て罔を為す可く、游ぐ者には以て綸を為す可く、飛ぶ者には以て矰を為す可し。龍に至りては、吾其の風雲に乗りて天に上るを知る能はず。吾今日老子を見るに、其れ猶ほ龍のごときか」と。

出典:史記 老子韓非列伝

鳥も魚も獣も捕まえ方は分かる。けれど風雲に乗って天に昇る龍だけは分からない。老子はまるで龍のようだった――。「老子は龍のような人」という評は、ここから来ています。

同じ場面が、三つの書で違う話になっている

この対面は、『史記』だけが伝える話ではありません。孔子の言行を集めた『孔子家語(こうしけご)』にも、老子の側から多くの登場人物が出てくる『荘子(そうじ)』にも出てきます。ところが、中身がそれぞれ違うのです。

『孔子家語』では、別れ際に老子が「富貴な者は財を贈り、仁者は言葉を贈る」と言って、孔子に言葉を贈ります。

【書き下し】凡そ當今の士、聰明深察にして死に近き者は、人を譏議することを好む者なり。博辯閎達にして其の身を危うくする者は、人の惡を發くことを好む者なり。

出典:孔子家語 觀周

頭が切れて物事を深く見抜くのに身を危うくする人は、人を批評するのが好きな人だ。弁が立って視野も広いのに危ない目にあう人は、人の悪を暴くのが好きな人だ――。こちらの老子は、若い孔子の身を案じる、面倒見のよい先輩のように描かれます。しかも話の結びは「周から魯に帰ると、孔子の道はいよいよ尊ばれ、弟子は三千人に達した」。孔子の側の書では、老子との対面は孔子の出世の足がかりとして置かれています。

一方の『荘子』では、様子がまるで違います。

【書き下し】孔子老聃に見えて帰り、三日談ぜず。弟子問いて曰く、「夫子は老聃に見えて、亦た将に何をか帰(き)せんとするか」と。孔子曰く、「吾乃ち今是に於いてか竜を見たり。竜は合して体を成し、散じて章を成す。雲気に乗じて陰陽を養う。予は口を張りて嗋(と)ずる能わず。予又た何ぞ老聃を規(ただ)さんや」と。

出典:荘子 天運

孔子は老聃に会って帰ってきたあと、三日間ものを言わなかった。「私は今日、龍を見た。口を開けたまま閉じられなかった」。同じ「龍」でも、こちらは孔子が言い負かされて呆然とする話です。『荘子』のほかの篇では、老聃が孔子の説く仁義を「太鼓を打ち鳴らして迷子を探すようなものだ」と切り捨てる場面もあります。

同じ出会いが、儒家の書では「孔子を育てた先輩」として、道家の書では「孔子を黙らせた師」として書かれる。どちらの学派も、この対面を自分たちの側から語り直しているわけです(『孔子家語』には三国時代の王粛の手が入っているという説も古くからあります)。

「猶お龍のごとし」という言葉の受け取り方も、一つではありません。明の呂坤(りょこん)は『呻吟語(しんぎんご)』でこう書いています。

【書き下し】老子猶龍は是れ尊美の辭ならず。蓋し變化測る莫く、淵深露はれざるの謂ひなり。

出典:呻吟語 外篇・品藻

龍のようだ、というのは褒め言葉ではない。変化がつかめず、底が見えない、という意味だ――。孔子の言葉は、称賛とも、戸惑いとも、警戒とも読める。老子という人物は、最初に記録に現れた場面から、すでに「つかみどころのない人」として描かれているのです。

三、関所で書いた五千余言 ― 「其の終わる所を知る莫し」

老子の生涯で、もう一つよく知られているのが、西へ去る場面です。

【書き下し】老子、道徳を修む。其の学は自ら隠れて名無きを以て務めと為す。周に居ること之を久しくして、周の衰ふるを見、乃ち遂に去る。関に至り、関令の尹喜曰く、「子将に隠れんとす。彊めて我が為に書を著せ」と。是に於いて老子乃ち書上下篇を著し、道徳の意を言ふこと五千余言にして去る。其の終ふる所を知る莫し。

出典:史記 老子韓非列伝

老子の学問は「自ら隠れて名無きを以て務めと為す」、つまり自分を隠し、名を立てないことを旨としていた。周が衰えるのを見て去り、関所に着くと、関所の長である尹喜(いんき)が「隠れてしまう前に、どうか私のために書を残してください」と頼んだ。そこで老子は上下二篇、五千字あまりの書を著して去った。その最期を知る者はいない――。

『老子』という本が生まれた経緯を語る、ただ一つの記録です。この一節には、読み落としやすい点が三つあります。

一つめ。どの関所なのか、『史記』は書いていません。 原文は「關に至る」だけです。一般には函谷関(かんこくかん。いまの河南省西部にあった、東西を結ぶ要所の関所)とされますが、これは後の注釈や伝承によるもので、唐代の『史記』の注釈は、函谷関とする説と、さらに西の散関(さんかん)とする説の両方を挙げています。

二つめ。「紫の気」も「青い牛」も、『史記』には出てきません。 関所の役人が東から紫色の気が流れてくるのを見て聖人の到来を知り、やがて老子が青い牛に乗って現れた――という絵になる場面は、『列仙伝(れっせんでん)』という仙人の伝記集に由来するものとして、唐代の注釈に引かれています。「紫気東来(しきとうらい)」という吉祥の言葉も、この伝説から生まれました。伝説は時代を追って膨らみ、岡倉天心は『茶の本』で、客に茶を出す作法は関尹が函谷関で老子に一碗の仙薬を捧げたことに始まる、という中国の言い伝えまで紹介しています(茶の本 第三章)。天心自身は、その真偽の詮議は「さておき」として話を先へ進めています。

三つめ。書を頼んだ関所の役人は、それ自体が一人の思想家として扱われています。 原文の「関令尹喜」は、「関令(関所の長)の尹喜」と読むのが一般的ですが、「関尹(かんいん)という役職の喜という人」と読む説もあります。『荘子』の最後の篇(天下篇)では、この人物は「関尹」と呼ばれ、老聃と並ぶ思想家として紹介されています。

【書き下し】関尹曰く、「己に在りて居る無ければ、形物自ら著(あら)わる。其の動くこと水の若く、其の静かなること鏡の若く、其の応ずること響の若し。芴乎(こつこ)として亡(な)きが若く、寂乎(せきこ)として清きが若し。焉(これ)に同じくする者は和し、焉に得る者は失う。未だ嘗て人に先んぜずして常に人に随う」と。

出典:荘子 天下

動くときは水のように、静まるときは鏡のように、応じるときはこだまのように。決して人の先に立たず、常に人に従う――。『老子』とよく似た考え方です。書を頼んだ役人は、聞き役ではなく、同じ思想を分け持つ仲間として記憶されていました。

四、司馬遷が並べた三人の候補

ここまでが、老子伝の「本筋」です。ところが司馬遷は、この本筋を書き終えたあとに、別の話を書き足しています。

【書き下し】或いは曰く、「老萊子も亦た楚人なり。書十五篇を著し、道家の用を言ふ、孔子と時を同じくす」と。蓋し老子は百有六十余歳、或いは言ふ、二百余歳と、其の道を修めて壽を養ふを以てなり。孔子死して自りの後百二十九年にして、史、周の太史儋の秦の献公に見えて曰くを記す、「始め、秦と周とは合ひ、合ひて五百歳にして離れ、離れて七十歳にして覇王たる者出づ」と。或いは曰く、「儋は即ち老子なり」と。或いは曰く、「非なり」と。世に其の然るか否かを知る莫し。

出典:史記 老子韓非列伝

この一段には、老子である「かもしれない」人物が、李耳(老聃)のほかに二人出てきます。

一人めは老萊子(ろうらいし)。 同じ楚の人で、十五篇の書を著し、孔子と同じ時代を生きた、とされます。出身も時代も重なります。のちに親孝行の手本「二十四孝」で、七十歳になっても子どもの服を着て親を笑わせた人として知られる人物です。

二人めは太史儋(たいしたん)。 周の記録官で、秦の献公に会って「秦と周はいったん合わさり、五百年で分かれ、分かれて七十年後に覇王が出る」と予言した人物です。名の「耼(たん)」と「儋(たん)」の音が同じで、どちらも周の記録官だったことが、同じ人と見なされる理由として挙げられます。ただし、この予言の場面を、『史記』の周本紀(周の年代記)は周の烈王二年、紀元前三七四年のこととしています。孔子の死(前四七九年)から百年以上あとです。

そのうえで司馬遷は、老子の年齢について「百六十余歳、あるいは二百余歳とも言われる。道を修めて寿命を養ったからだ」と書き添えています。孔子と会った人物と、百年以上あとに秦の献公に会った人物を同じ一人にしようとすれば、そのくらいの長寿を想定するしかありません。長寿の伝説は、候補を一人にまとめようとした結果として生まれたと見ることもできます。

そして結論が、「或いは曰く、儋は即ち老子なりと。或いは曰く、非なりと。世に其の然るか否かを知る莫し」です。ある人はそうだと言い、ある人は違うと言う。本当のところは、世の誰にも分からない。

伝記の主人公について「誰なのか分からない」と書く。これは手落ちではありません。どれか一つを選んで筋の通った物語に仕立てることもできたはずなのに、司馬遷はそれをせず、食い違ったまま全部を並べて、判断を読者に預けました。 老子伝は、老子について最も古いまとまった記録であると同時に、「分からないことを、分からないと書いた記録」でもあるのです。

五、子孫の系譜と、唐の皇帝

同じ段の後半で、司馬遷は突然、具体的な系図を書き始めます。老子の子は宗(そう)といい、魏の将軍となって段干(だんかん)に封ぜられた。その子孫の假(か)は漢の文帝に仕え、假の子の解(かい)は膠西王の太傅(守り役)となって、斉に住みついた――。

生没年も分からない人物に、なぜか漢代まで続く子孫の名前がはっきり書かれている。この系図は、司馬遷と同じ時代に「老子の子孫」を名乗る一族が実際にいたことを示していると考えられます。ただ、ここにも引っかかりがあります。魏が諸侯の国として正式に認められたのは紀元前四〇三年で、孔子と同時代の人の息子が魏の将軍になるのは、年代としてかなり苦しいのです。研究者のなかには、この系図はむしろ百年ほど後の太史儋の子孫のものではないか、と見る人もいます。

老子の「子孫」を名乗ったのは、この一族だけではありません。七世紀に中国を統一した唐の皇帝の家は、姓が同じ李であることから老子を自分たちの祖先と仰ぎました。唐の高宗は乾封元年(六六六)、老子に「太上玄元皇帝(たいじょうげんげんこうてい)」という皇帝号を贈っています。名を立てないことを務めとした人が、千年あまりのちに皇帝の位を贈られた。老子の生涯のなかで、これほど本人の教えと遠い出来事もないかもしれません。

六、『荘子』のなかの老聃 ― 死んで、弔われる

『史記』は老子の最期を「其の終ふる所を知る莫し」とし、後の伝説は老子を仙人に仕立て、不老不死の神として祀るようになります。ところが、老子より少し後の思想家・荘子(荘周)の書には、老聃が死ぬ場面がはっきり書かれています。

【書き下し】老聃(ろうたん)死す。秦失(しんいつ)之を弔(とむら)い、三たび号(さけ)びて出づ。弟子曰く、「夫子の友に非ざるか」と。曰く、「然り」と。「然らば則ち焉(これ)を弔うこと此の若くにして、可ならんや」と。曰く、「然り。始めは、吾以て其の人と為せり。而して今は非なり。向(さき)に吾入りて焉を弔うに、老者の之を哭(こく)する有り、其の子を哭するが如し。少者の之を哭する、其の母を哭するが如し。彼の其の之に会する所以は、必ず言うを蘄めずして言い、哭するを蘄めずして哭する者有らん。是れ天を遁(のが)れ情に倍(そむ)き、其の受くる所を忘る。古者(いにしえ)之を遁天の刑と謂う。適(たまた)ま来たるは、夫子の時なり。適ま去るは、夫子の順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽(あいらく)入る能わず。古者是を帝の県解(けんかい)と謂う」と。

出典:荘子 養生主

老聃が死に、友人の秦失(しんいつ)が弔問に行って、三度声を上げただけで出てきた。弟子が「それでは冷たすぎませんか」と問うと、秦失は答えます。弔問客は、老人は我が子を失ったように、若者は母を失ったように泣いている。あそこまで人を泣かせるのは、生き方のどこかに無理があったのだろう。たまたまこの世に来たのは時が来たから、たまたま去るのは自然に従っただけだ――。

『荘子』は、司馬遷が「大抵は寓言(ぐうげん。たとえ話)」と評した書です。この場面も、事実の記録として読むものではありません。それでも、老子にもっとも近い学派の書が、老聃を「死ぬ人」として描いていることは覚えておいてよいでしょう。老子が不死の神になったのは、ずっと後の時代のことです。

『荘子』の天下篇は、人はみな先を取るのに彼ひとりは後ろを取る、と老聃の人柄をまとめ、最後にこう讃えます。

【書き下し】老聃曰く、「其の雄を知りて、其の雌を守れば、天下の谿(たに)と為る。其の白を知りて、其の辱を守れば、天下の谷と為る」と。……関尹・老聃かな。古の博大真人なるかな。

出典:荘子 天下

ここで老聃の言葉として引かれている「其の雄を知りて、其の雌を守れば、天下の谿と為る」は、いまの『老子』第二十八章とほぼ同じ文です。

【書き下し】其の雄を知りて其の雌を守れば、天下の谿と為る。天下の谿と為れば、常徳は離れず、嬰児に復帰す。其の白を知りて其の黒を守れば、天下の式と為る。天下の式と為れば、常徳は忒わず、無極に復帰す。其の栄を知りて其の辱を守れば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、常徳は乃ち足り、樸に復帰す。

出典:老子 第28章

天下篇が書かれたころには、すでに「老聃の言葉」として、いまの『老子』に近い文章が読まれていたことが分かります。人物は霧のなかでも、言葉のほうは早くから形を持っていたのです。

七、本のなかの「我」 ― 著者が自分を語るところ

では、『老子』という本そのものは、著者について何か語っていないのでしょうか。五千字あまりの大半は、道や聖人や国の治め方を説く、主語の見えない文章です。ところが、いくつかの章にだけ、「我(われ)」という一人称がはっきり顔を出します。その代表が第二十章です。

【書き下し】衆人は熙熙として、太牢を享くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊としてそれ未だ兆さず、嬰児の未だ孩わざるが如し。儽儽として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るに、我れ独り遺れたるが若し。我れは愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるに、我れ独り昏昏たり。俗人は察察たるに、我れ独り悶悶たり。澹としてそれ海の若く、飂として止まる所無きが若し。衆人は皆な以うる有るに、我れ独り頑にして鄙に似たり。我れ独り人に異なりて、母に食わるるを貴ぶ。

出典:老子 第20章

人々は、ごちそうを前にしたように、春の高台に登ったように浮かれている。私だけがぽつんとして、まだ笑うことも知らない赤子のようだ。人々はみな余裕があるのに、私だけ取り残されたようだ。世の人は明るく賢いのに、私だけが暗く、ぼんやりしている――。

一人の著者の告白なのか、「道を知る者」の型を一人称で描いたものなのかは分かりません。ただ読む側は、ここに周囲となじめない一人の人間の姿を見てきました。「龍のよう」と言われた人物の、龍ではない側の顔です。

第七十章では、著者はもっと率直です。

【書き下し】吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。天下能く知る莫く、能く行う莫し。言に宗有り、事に君有り。夫れ唯だ知る無し、是を以て我を知らず。我を知る者は希なれば、我に則る者は貴し。是を以て聖人は褐を被て玉を懐く。

出典:老子 第70章

私の言葉はとても分かりやすく、とても行いやすい。なのに天下に分かる者も行う者もいない。私を知る者は少ない。だから聖人は粗末な服を着て、懐に玉を抱く――。

「私を知る者は少ない」。二千年以上たったいまも、私たちはこの人のことをほとんど知りません。そのこと自体を、本人が先に書いてしまっているようにも読めます。

八、土の中から出てきた『老子』

二十世紀になって、老子をめぐる議論は大きく動きました。地中の墓から、古い『老子』の写本が相次いで見つかったのです。

一九七三年、湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)三号漢墓から、絹に書かれた『老子』が二種類(甲本・乙本)出てきました。墓が造られたのは紀元前一六八年。いまの『老子』とほぼ同じ内容でしたが、上下の順序が逆で、「徳」を説く後半が先、「道」を説く前半が後に置かれていました。『道徳経』ではなく「徳道経」の順番だったわけです。

さらに一九九三年、湖北省荊門市の郭店(かくてん)一号楚墓から、竹簡に書かれた『老子』が見つかりました。戦国時代の中ごろ、遅くとも紀元前三〇〇年ごろまでに書かれたものとされます。甲・乙・丙の三組に分かれ、合わせても三十一章ぶん、いまの八十一章の三分の一ほどの分量でした。

二十世紀の前半には、『老子』は戦国時代の終わりか漢の初めに書かれた新しい本だ、という説も有力でした。郭店の竹簡は、少なくともその一部が紀元前三〇〇年より前に存在していたことをはっきり示しました。一方で、いまの形の五千余言・八十一章が、一人の人物によって一度に書かれたと見るのは難しくなりました。言葉が少しずつ集まり、並べ替えられ、ふくらんでいった過程が、写本の違いから見えてきたからです。

関所で一気に書き上げた五千余言、という『史記』の物語と、写本が語る成り立ちは同じではありません。それでも、読まれ続けてきたのは言葉のほうです。

九、漢の宮廷で読まれた老子

司馬遷が老子伝を書いたとき、老子は「昔の人」であると同時に、宮廷で熱心に読まれている「いまの本」でもありました。前漢の初め、国の方針は「黄老(こうろう)」、つまり黄帝と老子の名を掲げた、干渉を少なくして民を休ませる政治だったのです。

『史記』は、この「黄老」の学問が、出自の分からない河上丈人(かじょうじょうにん)という人物から何代もの師弟を経て、漢の二代目の宰相・曹参(そうしん)の師に届いたと書き留めています。曹参は、前任者の定めた法をほとんど変えなかったと伝えられる宰相です。

老子の書を好んだ人は宮廷の奥にもいました。景帝の母、竇太后(とうたいこう)です。

【書き下し】竇太后老子の書を好み、轅固生を召して老子の書を問ふ。固曰く、「此は是れ家人の言のみ」と。太后怒りて曰く、「安くんぞ司空城旦の書を得んや」と。乃ち固をして圈に入りて豕を刺さしむ。景帝太后の怒りて固の直言にして罪無きを知り、乃ち固に利兵を假し、圈に下りて豕を刺さしむ、正に其の心に中り、一刺にして、豕手に応じて倒る。太后默然として、以て復た罪する無く、之を罷む。

出典:史記 儒林列伝

竇太后に老子の書について問われた儒者の轅固生(えんこせい)が「あれは使用人の言葉のようなものです」と答えたため、太后は怒って、彼を豚の檻に入れました。見かねた景帝が鋭い武器を貸し与えたので、轅固生は一突きで豚を倒して命拾いした――。老子の評価は、命がけの論争の種でもあったのです。

ちなみに司馬遷の父・司馬談は、諸学派を論じた文章で道家をもっとも高く評価した人でした。

もちろん、老子を高く評価しない読み手もいました。戦国時代の儒家・荀子(じゅんし)は、老子の弱点をひと言で言い当てています。

【書き下し】老子は詘(くつ)に見有るも、信(しん)に見無し。

出典:荀子 天論篇

老子は、身をかがめること(詘)は見えていたが、伸びること(信)が見えていなかった――。退く、へりくだる、争わない。そればかりでは、上下のけじめも立たないではないか、という批判です。経営の場で老子を読むときにも、心に留めておきたい指摘です。

結び ― 名を残さないことを務めとした人

老子伝の最後に、司馬遷は自分の評を書き添えています。老子・荘子・申不害・韓非の四人を並べたうえでの一言です。

【書き下し】太史公曰く、「老子の貴ぶ所の道は、虚無にして、応に因りて無為に変化す。故に著書の辞、微妙にして識り難しと称せらる。荘子は道徳を散じて放論す、要は亦た之を自然に帰す。申子は卑卑として、之を名実に施す。韓子は縄墨を引き、事情を切にし、是非を明らかにす、其の極は惨礉にして恩少なし。皆道徳の意に原づく、而して老子は深遠なり」と。

出典:史記 老子韓非列伝

荘子は老子の考えを自由に広げ、申不害は名と実を突き合わせる実務に落とし込み、韓非は墨縄のように厳しい基準を引いたが、その行き着く先は冷酷で情に乏しかった。どれも老子の考えから出ている。そして、老子がいちばん深い――。

伝記の主人公が誰なのかは分からない、と書いた歴史家が、その人の思想については「いちばん深い」と言い切っている。ここに、老子という人物の不思議さがよく表れています。

老子の学問は「自ら隠れて名無きを以て務めと為す」ものだった、と『史記』は書きました。その通りに、老子は生涯をほとんど残さず、五千字あまりの言葉だけを残しました。人物についての情報は時代とともに付け足され、食い違っています。それでも言葉のほうは、墓の中の竹簡から現代の本まで読み継がれてきました。

誰が言ったのかは確かめられなくても、何が書かれているかは確かめられる。 人物の伝説を楽しんだあとは、その言葉を原文で開いてみてください。

老子の言葉そのものは、こちらで六句を読んでいます。

老子の名言に学ぶ、リーダーの器 ― 水のように、無為にして治める

同じ老子韓非列伝や『史記』の伝記に記録された著者たちの記事もあります。

韓非の生涯 ― 『説難』を書いた男は、なぜ説得に失敗して死んだのか
孫子(孫武)はどんな人か ― 史記が書いた寵姫斬りの一場面と、実在論争・孫臏の足

この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・現代語訳・解説つきで収録しています。

老子の章句一覧
史記の章句一覧
荘子の章句一覧

本記事の出典について

『史記』老子韓非列伝・儒林列伝、『孔子家語』觀周、『荘子』天運・天下・養生主、『呻吟語』外篇・品藻、『茶の本』第三章、『荀子』天論篇、『老子』第二十章・第二十八章・第七十章は、師導の収録本文から引用しました。書き下し・原文は底本の表記のままです。

老子の生没年・実在・『老子』の成立年代には定説がなく、本記事は特定の説を支持しません。関所の場所と紫の気・青い牛の出どころは『史記』の唐代の注釈(索隠・正義)に、太史儋の年代は『史記』周本紀に、郭店楚簡・馬王堆帛書は一般に紹介されている発掘報告の要点に拠りました。系図を太史儋の子孫とみる見方は一説として紹介したものです。