史記 / 伍子胥列伝
九年、吳王闔廬謂子胥・孫武曰、始子言郢未可入、今果何如。二子對曰、楚將囊瓦貪、而唐・蔡皆怨之。王必欲大伐之、必先得唐・蔡乃可。闔廬聽之、悉興師與唐・蔡伐楚、與楚夾漢水而陳。吳王之弟夫概將兵請從、王不聽、遂以其屬五千人擊楚將子常。己卯、楚昭王出奔。庚辰、吳王入郢。子常敗走、奔鄭。於是吳乘勝而前、五戰、遂至郢。
新字:九年、呉王闔廬謂子胥・孫武曰、始子言郢未可入、今果何如。二子対曰、楚将嚢瓦貪、而唐・蔡皆怨之。王必欲大伐之、必先得唐・蔡乃可。闔廬聴之、悉興師与唐・蔡伐楚、与楚夾漢水而陳。呉王之弟夫概将兵請従、王不聴、遂以其属五千人撃楚将子常。己卯、楚昭王出奔。庚辰、呉王入郢。子常敗走、奔鄭。於是呉乗勝而前、五戦、遂至郢。
書き下し
九年、呉王闔廬、子胥・孫武に謂ひて曰く、「始め子、郢は未だ入る可からずと言へり、今果たして何如」と。二子対へて曰く、「楚の将嚢瓦は貪にして、唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに之を伐たんと欲せば、必ず先づ唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之を聴き、悉く師を興し唐・蔡と楚を伐ち、楚と漢水を夾みて陳す。呉王の弟夫概、兵を将ゐて従はんことを請ふも、王聴かず、遂に其の属五千人を以て楚の将子常を撃つ。己卯、楚の昭王出奔す。庚辰、呉王郢に入る。子常敗走し、鄭に奔る。是に於いて呉、勝ちに乗じて前み、五戦して遂に郢に至る。
現代語訳
九年目、呉王闔廬は子胥と孫武に言った。「かつてお前たちは、郢にはまだ攻め入れないと言った。今はどうか」。二人は答えた。「楚の将軍・嚢瓦は強欲で、唐と蔡の両国はどちらも彼を恨んでいます。王がどうしても大挙して討とうとお考えなら、まず唐・蔡を味方につけてからでなければなりません」。闔廬はこれを容れ、全軍を挙げて唐・蔡とともに楚を討ち、漢水をはさんで楚軍と対陣した。呉王の弟・夫概が、兵を率いて従軍したいと願い出たが、王は許さなかった。夫概はそのまま自分の手勢五千人を率いて、楚の将・子常を攻撃した。己卯の日、楚の昭王は都を捨てて逃げ出した。庚辰の日、呉王は郢に入城した。子常は敗走して鄭に亡命した。こうして呉は勝ちに乗じて進み、五度戦ってついに郢に到達したのである。
解説
この章句が説くこと
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史記 呉太伯世家王闔廬の元年、伍子胥を挙げて行人と為して与に国事を謀る。楚、伯州犁を誅し、其の孫伯嚭亡げて呉に奔る。呉以て大夫と為す。三年、呉王闔廬、子胥・伯嚭と兵を将ゐて楚を伐ち、舒を抜き、呉の亡将二公子を殺す。光謀りて郢に入らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、之を待て」と。四年、楚を伐ち、六と灊とを取る。五年、越を伐ちて之を敗る。六年、楚、子常囊瓦をして呉を伐たしむ。迎へて之を撃ち、大いに楚の軍を豫章に敗り、楚の居巣を取りて還る。九年、呉王闔廬、伍子胥・孫武に請ひて曰く、「始め子の言ふ、郢未だ入る可からずと。今果して如何」と。二子対へて曰く、「楚の将子常は貪り、而して唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに伐たんと欲せば、必ず唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之に従ひ、悉く師を興し、唐・蔡と西のかた楚を伐ち、漢水に至る。楚も亦兵を発して呉を拒ぎ、水を夾みて陳す。呉王闔廬の弟夫概戦はんと欲す。闔廬許さず。夫概曰く、「王已に臣に兵を属せり。兵は利を以て上と為す、尚ほ何をか待たん」と。遂に其の部五千人を以て楚を襲冒す。楚の兵大いに敗れて走る。是に於て呉王遂に兵を縦ちて之を追ふ。郢に至る比、五たび戦ひて、楚五たび敗る。楚の昭王亡げて郢を出で、鄖に奔る。鄖公の弟、昭王を弑せんと欲す。昭王、鄖公と随に奔る。而して呉の兵遂に郢に入る。子胥・伯嚭、平王の屍を鞭うちて以て父の讎に報ゆ。十年春、越、呉王の郢に在りて国空しきを聞き、乃ち呉を伐つ。呉、別兵をして越を撃たしむ。楚、急を秦に告ぐ。秦、兵を遣はして楚を救ひ呉を撃ち、呉の師敗る。闔廬の弟夫概、秦・越の交々呉を敗り、呉王の楚に留まりて去らざるを見て、夫概亡げて呉に帰りて自ら立ちて呉王と為る。闔廬之を聞き、乃ち兵を引きて帰り、夫概を攻む。夫概敗れて楚に奔る。楚の昭王乃ち九月を以て復た郢に入るを得て、夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。
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史記 伍子胥列伝楚、其の大臣郤宛・伯州犁を誅す。伯州犁の孫伯嚭、亡げて呉に奔る。呉も亦た嚭を以て大夫と為す。前に王僚が遣す所の二公子・兵を将ゐて楚を伐ちし者、道絶えて帰るを得ず。後に闔廬の王僚を弑して自立せりと聞き、遂に其の兵を以て楚に降る。楚、之を舒に封ず。闔廬立ちて三年、乃ち師を興し、伍胥・伯嚭と楚を伐ち、舒を抜き、遂に故の呉の反せる二将軍を禽にす。因りて郢に至らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、且く之を待て」と。乃ち帰る。四年、呉、楚を伐ち、六と灊を取る。五年、越を伐ち、之を敗る。六年、楚の昭王、公子嚢瓦をして兵を将ゐて呉を伐たしむ。呉、伍員をして迎へ撃たしめ、大いに楚の軍を豫章に破り、楚の居巣を取る。
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史記 伍子胥列伝後二歳、闔廬、太子夫差をして兵を将ゐて楚を伐たしめ、番を取る。楚、呉の復た大いに来たらんことを懼れ、乃ち郢を去りて鄀に徙る。是の時に当り、呉、伍子胥・孫武の謀を以て、西のかた彊楚を破り、北のかた斉・晋を威し、南のかた越人を服す。其の後四年、孔子魯に相たり。
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説苑・指武呉王闔廬荊人と柏舉に戰い、大いに之に勝ち、郢郊に至り、五たび荊人を敗る。闔廬の臣五人進みて諫めて曰く、「夫れ深く入り遠く報ゆるは、王の利に非ざるなり、王其れ返らんか」と。五將頭を鍥み、闔廬未だ之に應えず、五人の頭馬前に墜つ、闔廬懼れ、伍子胥を召して之に問う。子胥曰く、「五臣は懼るるなり。夫れ五敗の人は、其の懼るること甚だし、王姑く少しく進め」と。遂に郢に入り、南は江に至り、北は方城に至り、方三千里、皆楚に服せり。
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史記 伍子胥列伝五年にして楚の平王卒す。初め、平王が奪ふ所の太子建の秦女、子の軫を生む。平王卒するに及び、軫竟に立ちて後と為る、是を昭王と為す。呉王僚、楚の喪に因りて、二公子をして兵を将ゐて往きて楚を襲はしむ。楚兵を発して呉兵の後を絶ち、帰るを得ず。呉国内空し、而して公子光乃ち専諸をして呉王僚を襲刺せしめて自立す、是を呉王闔廬と為す。闔廬既に立ち、志を得たり。乃ち伍員を召して以て行人と為し、与に国事を謀る。
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史記 伍子胥列伝之を久しくして、楚の平王、其の辺邑鐘離と呉の辺邑卑梁氏と俱に蠶し、両女子桑を争ひて相ひ攻むるを以て、乃ち大いに怒り、両国兵を挙げて相ひ伐つに至る。呉、公子光をして楚を伐たしめ、其の鐘離・居巣を抜きて帰る。伍子胥、呉王僚に説きて曰く、「楚破る可きなり。願はくは復た公子光を遣せ」と。公子光、呉王に謂ひて曰く、「彼の伍胥の父兄は楚に戮せらる、而して王に楚を伐つを勧むるは、以て自ら其の讎に報いんと欲するのみ。楚を伐つも未だ破る可からざるなり」と。伍胥、公子光に内志有りて、王を殺して自立せんと欲し、未だ外事を以て説く可からざるを知り、乃ち専諸を公子光に進め、退きて太子建の子の勝と野に耕す。
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