史記 / 孫子呉起列伝
孫武既死、後百餘歲有孫臏。臏生阿鄄之閒、臏亦孫武之後世子孫也。孫臏嘗與龐涓俱學兵法。龐涓既事魏、得為惠王將軍、而自以為能不及孫臏、乃陰使召孫臏。臏至、龐涓恐其賢於己、疾之、則以法刑斷其兩足而黥之、欲隱勿見。
新字:孫武既死、後百余歳有孫臏。臏生阿鄄之閒、臏亦孫武之後世子孫也。孫臏嘗与龐涓倶学兵法。龐涓既事魏、得為恵王将軍、而自以為能不及孫臏、乃陰使召孫臏。臏至、龐涓恐其賢於己、疾之、則以法刑断其両足而黥之、欲隠勿見。
書き下し
孫武既に死し、後百余歳して孫臏有り。臏は阿・鄄の間に生まる。臏も亦た孫武の後世の子孫なり。孫臏嘗て龐涓と倶に兵法を学ぶ。龐涓既に魏に事へ、恵王の将軍と為るを得たり。而れども自ら以為らく、能は孫臏に及ばず、と。乃ち陰かに孫臏を召さしむ。臏至り、龐涓、其の己より賢なるを恐れ、之を疾む。則ち法刑を以て其の両足を断ちて之を黥し、隠れて見る勿らんことを欲す。
現代語訳
孫武の死後百年あまりして孫臏が現れた。孫臏は阿・鄄のあたりに生まれ、彼もまた孫武の子孫であった。孫臏はかつて龐涓とともに兵法を学んだ。龐涓は魏に仕えて恵王の将軍となったが、自分の才能は孫臏に及ばないと内心わかっていた。そこでひそかに孫臏を魏に招いた。孫臏が来ると、龐涓は彼が自分より優れているのを恐れて憎み、法をねじ曲げて罪を着せ、孫臏の両足を切断し、額に入れ墨を入れて、世に出られないよう葬り去ろうとした。
解説
才能への嫉妬が、いかに残忍な形で人を陥れるかを描いた一段です。龐涓は、旧友であり同門でもある孫臏の才能が自分を上回ると知っていたからこそ、彼を招き寄せて陥れ、両足を断つという凄惨な方法で再起を封じました。自分より優れた者を、活かすのではなく潰す――これは組織における最も破壊的な力学の一つです。有能な人材が、身近な競争相手の嫉妬によって闇に葬られる。リーダーや組織にとっての教訓は二重です。第一に、嫉妬に駆られて優秀な人材を排除する組織は、結局その才能を失い、自らを弱くする。第二に、能力ある者ほど、身近な人間の嫉妬という見えにくいリスクに警戒せねばならない。龐涓のこの所業は、後に馬陵での自らの破滅として跳ね返ってきます。他人を陥れて得た地位は、いずれ因果として自分に返る、という伏線でもあります。
この章句が説くこと
嫉妬才能の抹殺龐涓と孫臏有能な人材を潰す組織因果警戒
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