史記 / 伍子胥列伝
後二歲、闔廬使太子夫差將兵伐楚、取番。楚懼吳復大來、乃去郢、徙於鄀。當是時、吳以伍子胥・孫武之謀、西破彊楚、北威齊晉、南服越人。其後四年、孔子相魯。
新字:後二歳、闔廬使太子夫差将兵伐楚、取番。楚懼呉復大来、乃去郢、徙於鄀。当是時、呉以伍子胥・孫武之謀、西破彊楚、北威斉晋、南服越人。其後四年、孔子相魯。
書き下し
後二歳、闔廬、太子夫差をして兵を将ゐて楚を伐たしめ、番を取る。楚、呉の復た大いに来たらんことを懼れ、乃ち郢を去りて鄀に徙る。是の時に当り、呉、伍子胥・孫武の謀を以て、西のかた彊楚を破り、北のかた斉・晋を威し、南のかた越人を服す。其の後四年、孔子魯に相たり。
現代語訳
二年後、闔廬は太子夫差に兵を率いさせて楚を討たせ、番を取った。楚は呉がまた大挙して来るのを恐れ、郢を離れて鄀に都を移した。このころ呉は、伍子胥と孫武の謀によって、西では強国の楚を破り、北では斉と晋を威圧し、南では越を服従させていた。その四年後、孔子は魯の宰相となった。
解説
呉が伍子胥と孫武という二人の名臣の力で覇権の頂点に立った、絶頂の一段です。太子夫差が楚を攻めて番を奪い、楚は呉の再来を恐れて都を移すほど追い詰められます。この時期、呉は西で強国・楚を破り、北で斉・晋を威圧し、南で越を服従させ、まさに天下に威をとどろかせました。すべては、屈辱に耐えて呉に亡命し、闔廬を支えてきた伍子胥と、稀代の戦略家・孫武という「人材」あってのことです。組織の教訓は明快です。国家や企業の隆盛は、突き詰めれば「優れた人材を得て、その力を発揮させられるか」に懸かっている。かつて楚を追われた一人の亡命者が、受け入れた呉を最強国に押し上げた。人材こそが最大の資産であり、どこの出身か・過去がどうかではなく、その力を見抜いて活かせるかが組織の命運を決めます。なお「孔子相魯」の一句がさりげなく添えられ、同時代の別の場所で別の物語が動いていることを示す、司馬遷の巧みな時間軸の描写でもあります。
この章句が説くこと
人材こそ資産隆盛の条件亡命者の貢献伍子胥と孫武覇権登用
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史記 伍子胥列伝楚、其の大臣郤宛・伯州犁を誅す。伯州犁の孫伯嚭、亡げて呉に奔る。呉も亦た嚭を以て大夫と為す。前に王僚が遣す所の二公子・兵を将ゐて楚を伐ちし者、道絶えて帰るを得ず。後に闔廬の王僚を弑して自立せりと聞き、遂に其の兵を以て楚に降る。楚、之を舒に封ず。闔廬立ちて三年、乃ち師を興し、伍胥・伯嚭と楚を伐ち、舒を抜き、遂に故の呉の反せる二将軍を禽にす。因りて郢に至らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、且く之を待て」と。乃ち帰る。四年、呉、楚を伐ち、六と灊を取る。五年、越を伐ち、之を敗る。六年、楚の昭王、公子嚢瓦をして兵を将ゐて呉を伐たしむ。呉、伍員をして迎へ撃たしめ、大いに楚の軍を豫章に破り、楚の居巣を取る。
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史記 伍子胥列伝九年、呉王闔廬、子胥・孫武に謂ひて曰く、「始め子、郢は未だ入る可からずと言へり、今果たして何如」と。二子対へて曰く、「楚の将嚢瓦は貪にして、唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに之を伐たんと欲せば、必ず先づ唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之を聴き、悉く師を興し唐・蔡と楚を伐ち、楚と漢水を夾みて陳す。呉王の弟夫概、兵を将ゐて従はんことを請ふも、王聴かず、遂に其の属五千人を以て楚の将子常を撃つ。己卯、楚の昭王出奔す。庚辰、呉王郢に入る。子常敗走し、鄭に奔る。是に於いて呉、勝ちに乗じて前み、五戦して遂に郢に至る。
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史記 呉太伯世家王闔廬の元年、伍子胥を挙げて行人と為して与に国事を謀る。楚、伯州犁を誅し、其の孫伯嚭亡げて呉に奔る。呉以て大夫と為す。三年、呉王闔廬、子胥・伯嚭と兵を将ゐて楚を伐ち、舒を抜き、呉の亡将二公子を殺す。光謀りて郢に入らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、之を待て」と。四年、楚を伐ち、六と灊とを取る。五年、越を伐ちて之を敗る。六年、楚、子常囊瓦をして呉を伐たしむ。迎へて之を撃ち、大いに楚の軍を豫章に敗り、楚の居巣を取りて還る。九年、呉王闔廬、伍子胥・孫武に請ひて曰く、「始め子の言ふ、郢未だ入る可からずと。今果して如何」と。二子対へて曰く、「楚の将子常は貪り、而して唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに伐たんと欲せば、必ず唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之に従ひ、悉く師を興し、唐・蔡と西のかた楚を伐ち、漢水に至る。楚も亦兵を発して呉を拒ぎ、水を夾みて陳す。呉王闔廬の弟夫概戦はんと欲す。闔廬許さず。夫概曰く、「王已に臣に兵を属せり。兵は利を以て上と為す、尚ほ何をか待たん」と。遂に其の部五千人を以て楚を襲冒す。楚の兵大いに敗れて走る。是に於て呉王遂に兵を縦ちて之を追ふ。郢に至る比、五たび戦ひて、楚五たび敗る。楚の昭王亡げて郢を出で、鄖に奔る。鄖公の弟、昭王を弑せんと欲す。昭王、鄖公と随に奔る。而して呉の兵遂に郢に入る。子胥・伯嚭、平王の屍を鞭うちて以て父の讎に報ゆ。十年春、越、呉王の郢に在りて国空しきを聞き、乃ち呉を伐つ。呉、別兵をして越を撃たしむ。楚、急を秦に告ぐ。秦、兵を遣はして楚を救ひ呉を撃ち、呉の師敗る。闔廬の弟夫概、秦・越の交々呉を敗り、呉王の楚に留まりて去らざるを見て、夫概亡げて呉に帰りて自ら立ちて呉王と為る。闔廬之を聞き、乃ち兵を引きて帰り、夫概を攻む。夫概敗れて楚に奔る。楚の昭王乃ち九月を以て復た郢に入るを得て、夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。
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