渋沢栄一の名言として、いちばんよく出回っているのがこれです。
「夢なき者は理想なし、理想なき者は信念なし、信念なき者は計画なし……」
「夢七訓」と呼ばれるもので、色紙になり、学校に掲げられ、講演で引かれてきました。
ところが——渋沢栄一記念財団は、渋沢がこれを語ったという原典は存在しない、という見解を示しています。 つまり、本人の言葉かどうかが確認できていない。
この記事は、これまで有名な「遺訓」をいくつも疑ってきました。家康の「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」は明治十一年ごろの作。政宗の「仁に過ぎれば弱くなる」は明治二十七年が初出。そして渋沢の夢七訓も、原典が見つかっていない。
ただ、渋沢の場合は事情がまったく違います。この人は、自分で本を書いているからです。
『論語と算盤』。大正五年(一九一六年)の刊行で、渋沢が七十代半ばのときの本です。全編、本人の講演と談話をまとめたもので、何を読み、何を考えていたかが、本人の言葉で残っています。
そして——ここがこの記事でいちばん面白いところですが——その本のなかで、渋沢は徳川家康の遺訓について分析しています。 明治の人である渋沢が、当時流布し始めていたあの遺訓を、どう見ていたか。
この記事では、『論語と算盤』の原文を読みながら、渋沢栄一の頭の中を辿ります。
渋沢栄一とは、何をした人か
輪郭を押さえます。
天保十一年(一八四〇年)、武蔵国血洗島(いまの埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれました。藍玉の製造と養蚕を営む家で、幼いころから商売の実務に触れています。
そして七歳のとき、従兄の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)に学び始めます。 ここで『論語』に出会いました。この出会いが、生涯を決めます。
若いころは尊王攘夷にかぶれ、高崎城を乗っ取る計画まで立てています。それが中止になり、縁あって一橋家に仕え、やがて幕臣となり、慶応三年(一八六七年)、パリ万博に随行してヨーロッパへ渡りました。
ここで彼が見たのが、銀行と株式会社という仕組みです。国が事業をやるのでも、個人が私財でやるのでもない。大勢から少しずつ集めた金で、大きな事業を興す。 これを日本に持ち帰ります。
維新後は大蔵省に入りますが、明治六年(一八七三年)に退官。以後、生涯を実業に費やしました。
第一国立銀行、東京証券取引所、王子製紙、東京海上、帝国ホテル、キリンビール、東京ガス——関わった会社はおよそ五百。 さらに東京養育院、日本赤十字社、一橋大学、日本女子大学など、社会公共事業はおよそ六百。
昭和六年(一九三一年)没。享年九十一。そして二〇二四年から、新一万円札の肖像になりました。
ここで一つ、確認しておきたいことがあります。渋沢は、財閥を作りませんでした。 五百社に関わりながら、三井や三菱のような同族支配の巨大コンツェルンを築いていない。それは能力の問題ではなく、選択でした。 その理由が、この記事で読む本の中にあります。
一、『論語と算盤』とは何か ― 甚だ遠くして、甚だ近い
【原文】此の論語といふものと、算盤といふものがある、是は甚だ不釣合で、大変に懸隔したものであるけれども、私は不断に此の算盤は論語に依つて出来て居る、論語は又算盤に依つて本当の富が活動されるものである、故に論語と算盤は、甚だ遠くして甚だ近いものであると始終論じて居るのである
まず、書名の意味からです。
論語と算盤。 道徳と、経済。この二つは、ふつう正反対のものとして扱われます。「甚だ不釣合で、大変に懸隔したもの」と渋沢自身が認めている。
そのうえで、彼はこう主張します。
「此の算盤は論語に依つて出来て居る」——算盤(経済)は、論語(道徳)によってできている。
「論語は又算盤に依つて本当の富が活動される」——論語は、算盤によって本当の富として動き出す。
片方向ではなく、双方向です。
道徳が経済を支えるだけではない。経済がなければ、道徳も動かない。 立派なことを言っていても、そこに事業と富がなければ、何も変わらない。
「甚だ遠くして甚だ近いもの」。 この言い方が絶妙です。遠いことを否定していません。認めたうえで、近いと言っている。
そして、この一冊が書かれた背景も見えてきます。明治の日本には、「商売は卑しい」という感覚が根強く残っていました。 武士が上で、商人が下。その空気のなかで、実業に人が集まらない。優秀な人材が官界へ流れていく。
渋沢がやろうとしたのは、実業に道徳的な正当性を与えることでした。 論語を持ち出したのは、教養のためではなく、必要があったからです。
出典:論語と算盤 処世と信条
二、「士魂商才」 ― 武士の魂と、商人の才
【原文】士魂商才といふのも同様の意義で、人間の世の中に立つには武士的精神の必要であることは無論であるが、併し武士的精神のみに偏して商才といふものが無ければ、経済の上から自滅を招くやうになる、故に士魂にして商才が無ければならぬ、……道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、謂ゆる小才子小悧口であつて、決して真の商才ではない、故に商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語に依つて養へる訳である
「士魂商才(しこんしょうさい)」。 渋沢の造語です。
もとは菅原道真の「和魂漢才」をもじったものだと言われます。武士の魂と、商人の才。その両方を備えよ、と。
前半は分かりやすい。武士的精神だけでは、経済の上から自滅する。 精神論だけでは食えない、という話です。
面白いのは後半です。
では商才はどうやって養うのか。渋沢は、それも論語で養えると言います。
「道徳の書と商才には関係がないように見えるけれども、商才ももともと道徳を根底としたものだ」。そして、決定的な一文が続きます。
「道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、謂ゆる小才子小悧口であつて、決して真の商才ではない」。
道徳から切り離された商才は、「小才子小悧口(こざいししょうりこう)」にすぎない。真の商才ではない、と。
これは、たんなる道徳論ではありません。定義の話です。渋沢は「商才」という言葉の意味そのものを、道徳を含むものとして定義し直している。
なぜそうする必要があったのか。実務で考えると分かります。騙して売る技術は、一回しか使えません。 相手を出し抜く才覚は、その相手との関係を終わらせる。続く商売は、相手も得をしていないと成立しない。
つまり「商才は道徳と離れられない」というのは、倫理の要請ではなく、取引が継続するための条件です。渋沢は、それを士魂商才という四文字にまとめました。
出典:論語と算盤 処世と信条
三、「孔子は、富を賤しんでなどいない」
【原文】此の言葉は如何にも言裡に富貴を軽んじた所があるやうにも思はれるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考へて見れば、富貴を賤しんだところは一つもない、其の主旨は富貴に淫するものを誡められたまで〻、……孔子の言はんと欲する所は、道理を有た富貴でなければ、寧ろ貧賤の方が可いが、若し正しい道理を踏んで得たる富貴ならば敢て差支ないとの意である、……此句に対して正当の解釈を下さんとならば、宜しく『道を以てせずして之を得れば』といふ所に能く注意することが肝要である。
渋沢が繰り返し戦ったのが、「儒教は金儲けを卑しむ」という通念でした。
その通念のもとになっていた論語の句を、彼は正面から読み直します。そして、「富貴を賤しんだところは一つもない」と言い切る。
孔子が戒めたのは「富貴に淫するもの」であって、富貴そのものではない。「道理を有(も)った富貴でなければ、むしろ貧賤のほうがよい。だが正しい道理を踏んで得た富貴なら、差し支えない」。
そして渋沢は、読解のポイントを一箇所に絞ります。
「宜しく『道を以てせずして之を得れば』といふ所に能く注意することが肝要である」。
条件節に注意しろ、と言っている。「その道によらずして得たなら」という但し書きが付いているのだから、道によって得た富は否定されていない。
では、その論語の原文を実際に開いてみます。
出典:論語と算盤 仁義と富貴
四、その論語を開くと ― 「其の道によらずして得れば、居らず」
【白文】子曰、富與貴、是人之所欲也;不以其道得之、不處也。貧與賤、是人之所惡也;不以其道得之、不去也。君子去仁、惡乎成名?君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是。
【書き下し】子曰わく、富と貴は人の欲するところなり。その道によらずして得れば、居らず。貧と賤は人の悪むところなり。その道によらずして得れば、去らず。君子仁を去りていずくにか名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違わず、あわただしくともこれにより、困窮してもこれにより。
『論語』里仁篇です。渋沢が「ここに注意せよ」と言った条件節が、実際に置かれています。
「富と貴は人の欲するところなり」——富と地位は、人が欲しがるものである。
孔子は、いきなりこれを認めています。 欲しがるのが当然だ、という前提から始まる。否定していません。
そのうえで、条件が付く。「その道によらずして得れば、居らず」——正しい道によらずに得たなら、そこに留まらない。
そして、後半が対になっています。「貧と賤は人の悪むところなり。その道によらずして得れば、去らず」——貧しさと低い地位は、人が嫌うもの。だが、正しい道によらずにそこへ落ちたのでなければ、そこから去らない。
つまり、富も貧も、それ自体は評価の対象ではありません。 どうやってそこに至ったかだけが問題になっている。
渋沢の読解は、正確でした。この句は富の否定ではなく、経路の審査です。
そして後半には、さらに厳しい一文があります。「君子は食を終うる間も仁に違わず、あわただしくともこれにより、困窮してもこれにより」——君子は食事を終えるあいだも仁を離れない。あわただしいときも、行き詰まったときも、必ずそこに拠っている。
平時ではなく、非常時が試金石だと言っている。渋沢が「道理を踏んで得た富」と言うとき、その道理が試されるのは、たいてい追い詰められた場面です。
出典:論語 里仁篇
五、渋沢は、家康の遺訓をこう分析していた
【原文】神君の遺訓と称して平仮名交りの文章がある、即ち『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず‥‥云々』私は斯様に能く覚えて居ります、此の遺訓は全く論語から出て居ります、東照公が論語をよくお読みなすつた証拠であります、『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎。』これは曾子といふ人の語で、論語の泰伯篇にあります、『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』と全く同意味であります、また末段の『及ばざるは過ぎたるよりまされり』は、孔子の言から出たのです、而して孔子は『過ぎたるは猶ほ及ばざるが如し』と言ふたを、公は『勝れり』と強くしたのです
この記事でいちばん驚いたのが、この一段です。
渋沢は、家康の遺訓——「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」——を取り上げ、その出どころを分析しています。
指摘は二つ。
一つ。冒頭は『論語』泰伯篇から来ている。 曾子の「士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し」と「全く同意味」である、と。
二つ。末尾の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は、孔子の言葉から出ている。 ただし——ここが鋭い——孔子が「過ぎたるは猶ほ及ばざるが如し」と言ったのを、公は「勝れり」と強くした。
「強くした」。
孔子は「同じだ」と言った。遺訓は「足りないほうがまさる」と言い換えた。渋沢は、その一語のずれを見ています。
そして、書き出しにも注目してください。「神君の遺訓と称して」。 称して、です。家康の作だと断定していません。
渋沢は明治の人です。この遺訓が家康の署名と花押つきで日光東照宮に納められたのが明治十一年ごろ。まさにそれが広まっていく時代を、彼は生きていました。 そして「称して」と書いた。
もっとも、渋沢はここで真偽を論じてはいません。彼の関心は別のところにあります。この文章の中身が論語から来ている、つまり家康は論語をよく読んでいた証拠だ、という論証です。
家康の遺訓が誰の作なのかについては、別の記事で辿りました。渋沢の指摘と、現在の研究が示すことを並べて読むと、なかなか味わい深い。
→ 徳川家康の愛読書 ― 名言「人の一生は重荷を負うて」の真偽と、家康が刷った本
出典:論語と算盤 人格と修養
六、「士は以て弘毅ならざるべからず」 ― 渋沢が挙げた原典
【白文】曾子曰:「士不可以不弘毅,任重而道遠。仁以為己任,不亦重乎?死而後已,不亦遠乎?」
【書き下し】曾子曰く、「士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦重からずや。死して後已む、亦遠からずや」と。
渋沢が名指しした、その原文です。
「士は以て弘毅ならざるべからず」——士たる者は、心が広く、意志が強くなければならない。「弘」は広さ、「毅」は強さです。
「任重くして道遠し」——担う任務は重く、行く道は遠い。
そして、その中身が説明されます。「仁以て己が任と為す、亦重からずや」——仁を自分の任務とする。重くないわけがない。「死して後已む、亦遠からずや」——死んで、はじめて終わる。遠くないわけがない。
終わりが「死」に設定されています。 定年でも、引退でもない。生きているあいだ、ずっと続く。
家康の遺訓の「重荷を負うて遠き道を行く」は、たしかにこれと同じ景色です。重い荷を負って、遠い道を行く。
ただし、渋沢が指摘しなかった違いもあります。曾子は「弘毅であれ」と言い、遺訓は「急ぐべからず」と続けました。 曾子のほうは資質の話、遺訓のほうはペースの話です。
そして渋沢自身は、九十一まで生きて、九十歳を過ぎても社会事業の会合に出ていました。「死して後已む」を、文字どおりやった人だったことになります。
なお渋沢は、この曾子の言葉を含む論語を、七歳から九十一歳まで、生涯手放しませんでした。 「論語で一生を貫いてみせる」というのが、彼の言い方でした。
出典:論語 泰伯篇
七、「蟹穴主義」 ― 大蔵大臣も、日銀総裁も断った
【原文】私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るといふ主義で、渋沢の分を守るといふことを心掛けて居る、是でも今から十年ばかり前に、是非大蔵大臣になつて呉れだの、また日本銀行の総裁になつて呉れだのといふ交渉を受けたこともあるが、自分は明治六年に感ずる所があつて実業界に穴を掘つて這入つたのであるから、今更その穴を這出すことも出来ないと思つて固く辞して了つた、……併しながら分に安んずるからと云つて、進取の気象を忘れて了つては何にもならぬ
「蟹穴主義(かにあなしゅぎ)」。 渋沢の造語です。
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」。 自分の身の丈に合った穴を掘る、ということわざから来ています。
そしてこの条には、具体的な事実が書かれています。大蔵大臣にならないか、日本銀行総裁にならないか、という交渉を受けたが、固く辞退した。
理由が、実に渋沢らしい。「自分は明治六年に感ずる所があつて実業界に穴を掘つて這入つたのであるから、今更その穴を這出すことも出来ない」。
明治六年に大蔵省を辞めて実業界に入ると決めた。決めた以上、そこにいる。 それだけです。
これは、単なる謙遜ではないと思います。当時、実業界は官界より格下と見られていました。 大蔵大臣の椅子を蹴って実業に留まるのは、世間の物差しでは損な選択です。
その選択をすること自体が、「実業は卑しくない」という主張の実行でした。言葉で言うだけなら誰でもできる。彼は椅子を断ることで、それを証明した。
ただし、渋沢はこの条にきちんと歯止めをかけています。
「併しながら分に安んずるからと云つて、進取の気象を忘れて了つては何にもならぬ」。
分をわきまえることが、守りに入る言い訳になってはいけない。彼は五百社に関わった人です。穴を掘った場所は動かさない。ただし、その穴のなかでは限界まで動く。
場所を固定して、その中で最大限やる。 蟹穴主義とは、そういう構えでした。
出典:論語と算盤 処世と信条
八、「事を敗るは、多く得意の時に因す」
【原文】『名を成すは常に窮苦の日にあり、事を敗るは多く得意の時に因す』と古人も云つて居るがこの言葉は真理である、……然るに失敗は多く得意の日に其の兆をなして居る、人は得意時代に処しては恰も彼の小事の前に臨んだ時の如く、天下何事か成らざらんやの槩を以て、如何なることをも頭から呑んで掛るので、動もすれば目算が外れて飛んでもなき失敗に落ちて了ふ、……だから人は得意時代にも調子に乗るといふこと無く、大事小事に対して同一の思慮分別を以て之に臨むが可い
「名を成すは常に窮苦の日にあり、事を敗るは多く得意の時に因す」。
名声を得るのは、いつも苦しいとき。事を失敗するのは、たいてい得意なとき——。
渋沢はこれを「真理である」と断言し、そのメカニズムを説明します。
困難なときは、大事に臨むのと同じ覚悟で向き合う。 だから成功する。世に成功者と言われる人には、必ず「あの困難をよくやり遂げた」という話がある。それは心を締めてかかった証拠だ。
逆に、得意なときはどうか。
「天下何事か成らざらんや」——できないことなど何もない、という気概で、何でも頭から呑んでかかる。その結果、目算が外れて、とんでもない失敗に落ちる。
そして処方が示されます。「大事小事に対して同一の思慮分別を以て之に臨むが可い」——大きな事にも小さな事にも、同じ思慮で臨め。
これは、西郷隆盛が『南洲翁遺訓』第二十一条で書いていたことと、ほとんど同じです。事業を興す人は八割まではできる。残り二割ができないのは、功が立つと自らを愛する心が起こり、慎みがゆるむから。
明治を作った二人が、別々に、同じ場所を指しています。
→ 西郷隆盛の愛読書 ― 「敬天愛人」の出どころと、敵が作った遺訓
実務でこれが厄介なのは、得意なときに自分が得意なことに気づけないからです。うまくいっているとき、人はそれを実力だと思います。「調子に乗っている」という自覚は、後から来る。
だから渋沢は、自覚に頼らない方法を示しました。大事も小事も、同じ手つきで扱う。 判断の質を、そのときの気分から切り離しておく。
出典:論語と算盤 処世と信条
九、「自ら箸を取れ」
【原文】此くお膳立をして待つてるのだが、之を食べるか否かは箸を取る人の如何にあるので、御馳走の献立をした上に、それを養つてやるほど先輩や世の中といふものは暇でない、彼の木下藤吉郎は匹夫から起つて、関白といふ大きな御馳走を食べた、けれど彼は信長に養つて貰つたのでは無い、自分で箸を取つて食べたのである、何か一と仕事しやうとする者は、自分で箸を取らなければ駄目である。
短い条ですが、比喩が効いています。
世の中は、お膳立てはしてくれる。 機会は、それなりに用意されている。
ところが、食べさせてはくれない。 「御馳走の献立をした上に、それを養(やしな)ってやるほど、先輩や世の中というものは暇でない」。
そして例に挙がるのが、木下藤吉郎——豊臣秀吉です。「彼は信長に養つて貰つたのでは無い、自分で箸を取つて食べたのである」。
信長は機会を与えた。食べたのは、秀吉自身だった。
現代の職場に置き換えると、この一条はかなり刺さります。研修はある。制度もある。手を挙げれば挑戦できる仕組みも整っている。 それでも、動かない人は動きません。
そして、これは前の記事で扱った「部下が育たない」の裏返しでもあります。上司の側の課題を七つ挙げましたが、最後の一歩は、本人が箸を取るかどうかです。
→ 部下が育たないと感じたら ― 原因を七つに切り分ける、東洋古典の処方箋
渋沢自身が、まさに箸を取った人でした。武蔵の農家に生まれ、幕臣になり、パリを見て、大蔵省を辞めて、誰もやっていなかった株式会社という仕組みを日本に敷いた。お膳立てをしてくれる先輩は、いませんでした。
出典:論語と算盤 立志と学問
十、「親切らしき不親切」 ― 苗を引き抜く
【原文】苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を芟除することに由らなければならぬのに、之を引き抜いて長ぜしめやうとするのは如何にも乱暴である、孟子の不動心術の可否は兎に角、世間往々苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争はれぬ事実である、苗を長ぜしめたいと、いふ其の志は誠に善であるが、之を抜くといふ所作が悪である、此の意味を拡充して考へると、志が如何に善良で忠恕の道に適つて居ても、其の所作が之に伴はなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
渋沢が引いているのは、『孟子』の「助長」の寓話です。苗が伸びないのを心配した宋の男が、一本ずつ引っ張って、枯らしてしまった話。
節の題が秀逸です。「親切らしき不親切」。
そして渋沢の分析が、この寓話を一段先へ進めます。
「苗を長ぜしめたいと、いふ其の志は誠に善であるが、之を抜くといふ所作が悪である」。
志と所作を、分けている。
そこから、彼はこう一般化します。「志が如何に善良で忠恕の道に適つて居ても、其の所作が之に伴はなければ、世の信用を受けることが出来ぬ」。
つまり、動機が善いことは、行為が善いことを保証しない。
これは、渋沢の一貫した立場です。彼は『論語と算盤』の別の箇所で、動機だけで善悪を判定する説と、動機と結果の両方で判定する説を比べ、後者に与すると明言しています。
善意でやったのだから許される、という理屈を採らない。苗を枯らしたことは、志が善かろうと、枯らしたことに変わりはない。
実務では、この分離が効きます。「良かれと思って」で始まる行動は、止めにくい。 悪意なら叱れるが、善意は叱りにくい。だから、動機と所作を分けて、所作だけを見るという技術が要ります。
孟子の助長そのものについては、育成の記事で詳しく扱いました。
→ 部下が育たないと感じたら ― 原因を七つに切り分ける、東洋古典の処方箋
出典:論語と算盤 常識と習慣
十一、「能く集むるを知りて、よく散ずることを知らねば」
【原文】然るに世には貴ぶといふことを曲解して、只無暗にこれを吝む人がある、真に注意せねばならぬことである、金に対して戒むべきは濫費であると同時に、注意すべきは吝嗇である、能く集むるを知りてよく散ずることを知らねば、その極守銭奴となるから、今日の青年は濫費者とならざらんことを勉むると同時に、守銭奴とならぬやうに注意せねばならぬのである。
渋沢の金銭観が、いちばん端的に出ている一条です。
戒めが二つ、対で置かれています。
濫費——無駄遣い。
吝嗇(りんしょく)——けち。
ふつう、道徳の書は前者だけを戒めます。無駄遣いはいけない、倹約せよ、と。渋沢は、後者にも同じ重さを置いている。
「能く集むるを知りて、よく散ずることを知らねば、その極、守銭奴となる」。
集めることと、散らすこと。両方を知らなければならない。 集めるだけなら、行き着く先は守銭奴です。
そして渋沢は、これを実行しました。約五百の会社に関わりながら、約六百の社会公共事業にも関わっています。 東京養育院の院長は、五十年以上務めました。
冒頭で触れた「渋沢は財閥を作らなかった」という事実も、ここに繋がります。同じ時代、同じ立場にいて、三井や三菱は同族の富を築きました。渋沢は築かなかった。
能力の差ではありません。「散ずる」を、集めることと同じ重さで考えていたからです。
もう一つ、この条には見落としやすい点があります。渋沢は「集めるな」とは一言も言っていません。 「能く集むるを知りて」——よく集めることを知ったうえで、と書いている。集める力がない人の話ではない。
集められる人が、散らすことも知っているかどうか。そこだけを問題にしています。
出典:論語と算盤 仁義と富貴
十二、「視・観・察」 ― 渋沢の人物観察法
【原文】視も観も共に「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によつて見るだけの事で、観は外形よりも更に立ち入つて其奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見ることである、即ち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、先づ第一に其人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相し、それより其人の行為は何を動機にして居るものなるやを篤と観、更に一歩を進めて、其人の安心は何れにあるや、其人は何に満足して暮してるや等を知ることにすれば、必ず其人の真人物が明瞭になる
渋沢は、五百社の設立に関わりました。それはつまり、膨大な数の人物を見極める仕事でもあったということです。
その彼が拠り所にしたのが、『論語』為政篇の「其の以てする所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察す」でした。
そして渋沢は、この三段階を丁寧に解きほぐします。
視 ——外形を、肉眼で見るだけ。「其人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相す」。
観 ——外形よりさらに立ち入って奥に進み、心眼を開いて見る。「其人の行為は何を動機にして居るものなるや」。
察 ——さらに一歩進んで、「其人の安心は何れにあるや、其人は何に満足して暮してるや」。
三つ目の言い換えが見事です。その人は、何に満足して暮らしているか。
行為は見えます。動機は聞けば分かることもある。ところが「何に満足しているか」は、長く付き合わないと見えません。 そして、それがいちばんその人を規定している。
渋沢が付け加えているのは、こうすれば「必ず其人の真人物が明瞭になる」ということでした。孔子が「人焉んぞ廋(かく)さんや」——人はどうして隠せようか——と二度繰り返した、あの句の実務版です。
この観察法は、育成の記事でも七番目に置きました。見ていなければ、何が問題かも分かりません。
出典:論語と算盤 処世と信条
十三、渋沢が見た、西郷隆盛
【原文】西郷参議に於かせられては、相馬一藩の興国安民法は大事であるによつて是非廃絶させぬやうにしたいが、国家の興国安民法は之を講ぜずに其儘に致し置いても差支無いとの御所存であるか、承りたい、……本末顚倒の甚しきものであると、切論いたすと、西郷公は之に対し、別に何とも言はれず、黙々として茅屋を辞し還られてしまつた、兎に角、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫も虚飾の無かつた人物は西郷公で、実に敬仰に堪へぬ次第である。
最後に、少し毛色の違う一段を置きます。渋沢が、西郷隆盛と実際に議論した記録です。
西郷が、二宮尊徳の「興国安民法」を相馬藩で存続させたい、と渋沢のもとへ相談に来ました。相馬藩は、尊徳の仕法で財政を立て直した藩です。
渋沢の返答が、容赦ありません。
一藩の興国安民法は大事だから存続させたいと言われるが、国家の興国安民法のほうは、講じないまま放っておいて差し支えないとお考えなのか。 一国を双肩に担う参議の身でありながら、小さな一部にすぎない一藩のために奔走されるのに、国全体をどうするかについてお考えがないのは、本末転倒も甚だしい。
新参の官僚が、維新最大の英雄に向かって、正面からこれを言っている。
そして西郷は、何も言わなかった。
「別に何とも言はれず、黙々として茅屋を辞し還られてしまつた」。
反論しない。怒らない。黙って帰った。
そして渋沢は、こう締めくくります。
「維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫も虚飾の無かつた人物は西郷公で、実に敬仰に堪へぬ次第である」。
論破した相手を、渋沢は最大級に称えています。
理由は「知らないことを知らないとして、少しも虚飾がなかった」から。言い返せないことに、言い返さなかった。 それを渋沢は、豪傑のなかで唯一の資質として挙げました。
『南洲翁遺訓』第二十五条に、こうあります。「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」。
若い官僚に本末転倒だと言われて黙って帰るのは、まさにこの構えです。
出典:論語と算盤 人格と修養
「夢七訓」について
冒頭に戻ります。
「夢なき者は理想なし、理想なき者は信念なし、信念なき者は計画なし、計画なき者は実行なし、実行なき者は成果なし、成果なき者は幸福なし、ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず」。
渋沢栄一の言葉として、広く流布しているものです。渋沢栄一記念財団は、渋沢がこれを語った原典は存在しない、という見解を示しています。
つまり、本人の言葉である確証がない。
これは、家康の遺訓や政宗の五常訓と同じ構図です。有名な人物の名前に、後世の誰かが自分の言葉を着せる。 そして、それはたいてい、よくできた文章です。
ただ、渋沢の場合には特有の皮肉があります。
この人は、家康の遺訓について「称して」と書き、その出どころを論語まで辿り、一語のずれまで指摘した人でした。 出どころを疑うということを、実際にやっていた。
その人が、いま、出どころのない言葉を着せられている。
もっとも、渋沢なら怒らないかもしれません。彼の関心は「誰が言ったか」ではなく「中身が道理にかなっているか」にあったからです。
ただ、この記事の立場ははっきりしています。渋沢栄一が何を考えていたかを知りたいなら、夢七訓を読んでも分かりません。 彼は自分で本を書いています。そちらを読むほうが、はるかに近い。
まとめ ― 論語で一生を貫いた人
整理します。
渋沢栄一の愛読書は、『論語』でした。 七歳で従兄に学び、九十一で死ぬまで手放さなかった。推測ではなく、本人が繰り返し書いています。
そして彼は、論語を教養として持っていたのではありませんでした。
論語で商才を養えると言い(士魂商才)、孔子は富を賤しんでいないと読み直し(仁義と富貴)、人物観察の手順にし(視・観・察)、家康の遺訓の出どころを論語まで辿った。全部、使っています。
さらに、その使い方が具体的でした。大蔵大臣の椅子を断って実業に留まり(蟹穴主義)、五百社を作り、六百の社会事業に散らした(能く集め能く散ぜよ)。
言っていることと、やっていることが、ほぼ完全に一致しています。
このシリーズで、信玄・謙信・家康・官兵衛・政宗・西郷と辿ってきました。多くの人物では、本人の言葉が後世の作だったり、蔵書の記録が残っていなかったりして、「行動から逆算する」という方法をとる必要がありました。
渋沢だけは、その必要がありません。 本人が書いた本があり、そこに何を読んだかが書いてあり、しかも五百社という形で実行の記録が残っている。
近代人であることの強みとも言えますし、この人が生涯を通じて言行を一致させ続けた結果とも言えます。
最後に、彼の言い方をもう一度置いておきます。
「論語と算盤は、甚だ遠くして甚だ近いもの」。
道徳と経済は、遠い。それは認める。認めたうえで、近いと言い張って、五百社で証明した。 渋沢栄一という人の仕事は、たぶんそれに尽きます。
『論語と算盤』全九十句と『論語』全五百一句は、師導に収録しています。
→ 論語の名言一覧 43選 — 経営者が座右の銘にしたい言葉と現代語訳
→ 吾日に吾が身を三省す — 意味と現代語訳、渋沢栄一の座右の銘
→ 石田梅岩とは — 石門心学と都鄙問答、商人の道を説いた思想家
→ 二宮尊徳の愛読書 ― 「道徳なき経済は犯罪」は本人の言葉ではない。では何と言ったか
本記事の出典について
『論語と算盤』は、渋沢栄一本人の講演と談話をまとめたもので、大正五年(一九一六年)に刊行されました。 本記事が引用した原文は、すべて師導が収録する底本の値です。長い条は「……」で中略していますが、残した部分は一字も変えていません。仮名遣いも底本のままです。
「夢七訓」については、渋沢栄一記念財団が「渋沢栄一が語った原典は存在しない」という見解を示していることに基づいて書きました。 誰の作かについては、確認できていません。
『論語』の白文・書き下し文・現代語訳・解説も、師導が収録する底本の値です。 各節の末尾のリンクから、その章句の全文と解説をご覧いただけます。
生没年、パリ万博への随行、大蔵省退官の年、関わった会社と社会事業のおおよその数は、一般に伝わる記録に拠りました。