徳川家康の名言といえば、まずこれが挙がります。

「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、いそぐべからず」。

忍耐の人・家康を、これ以上よく表す言葉はないように思えます。学校でも、ビジネス書でも、日光東照宮でも紹介されてきました。

ところが、この言葉は家康が書いたものではありません。 出どころを辿ると、行き着くのは戦国でも江戸初期でもなく、明治時代です。

では、家康の実像はどこにあるのか。

答えははっきりしています。彼が実際に読み、そして自分で印刷させた本のなかにあります。 家康は、日本の出版史に名を刻むほどの規模で、古典を活字にして刷った人でした。関ヶ原の七か月前に『貞観政要』を刷り、生涯の最後には唐の太宗が編ませた帝王学の書を四十七巻まるごと組ませています。

何を刷るかは、何を大事だと思っているかの表明です。この記事では、家康が刷った本の原文にあたりながら、二百六十五年続いた体制を作った男が、どこから設計図を得ていたのかを辿ります。

徳川家康とは、何を残した人か

先に輪郭を押さえておきます。

天文十一年(一五四二年)、三河国(いまの愛知県東部)の小さな領主・松平氏に生まれました。幼名は竹千代。六歳から十九歳までのほとんどを、織田氏と今川氏のもとで人質として過ごしています。戦国大名としては、最も不利な出発点のひとつです。

桶狭間で今川義元が討たれたのを機に独立し、織田信長と同盟。姉川、長篠と信長の側で戦い、三方ヶ原では武田信玄に完敗しています。本能寺の変で信長が倒れ、豊臣秀吉の時代が来ると、その下で関東へ移封され、江戸を本拠にしました。

慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原。慶長八年(一六〇三年)、征夷大将軍。そして元和元年(一六一五年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、その翌年に駿府で没しました。七十五歳。

家康が本当に非凡だったのは、勝ったことではありません。 勝ったあとに作った仕組みが、彼の死後二百五十年以上動き続けたことです。信長も秀吉も、天下を取りました。しかし、その体制は本人が死ぬと崩れています。

つまり家康の主題は、最初から「創業」ではなく「守成」でした。 そして、それを正面から論じた本が、彼の手元にありました。

「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」は、家康の言葉ではない

まず、この有名な文章の全文を挙げます。表記も伝わっているままにします。

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくか如しいそくへからず不自由を常と思へばふ足無しこころに望み起こらば困窮したる時を思ひ出すヘし堪忍ハ無事長久の基いかりハ敵と思ヘ勝事はかり知りて負くる事志らされハ害其身にいたるお乃れを責て人をせむるな及ばざるハ過ぎたるよりまされり 慶長九年卯月家康

「東照宮御遺訓」あるいは「東照公御遺訓」と呼ばれるものです。末尾に「慶長九年卯月家康」と、日付と署名まで入っています。

気づいてほしいのは、家康の名言としてよく挙がるものが、ほとんどこの一枚に収まっていることです。

「重荷を負うて遠き道をゆくが如し」。「不自由を常と思えば不足なし」。「堪忍は無事長久の基」。「怒りは敵と思え」。「己を責めて人を責めるな」。「及ばざるは過ぎたるよりまされり」。

全部、ここです。家康の名言集をいくつ開いても、中身がよく似ているのは、そのためです。

では、この文章はどこから来たのか。

江戸時代の後期には、これは徳川光圀——水戸黄門——の言葉として広まっていました。 それが、天保六年(一八三五年)に寂庵大静という僧が出した『心要善悪種蒔鏡和讃』のなかで「東照御神君台諭」、つまり家康の言葉として掲載されます。ここで家康の作という説が生まれました。

そして決定打が、明治十一年(一八七八年)ごろ。元旗本の池田松之助という人物が、家康の署名と花押を入れたものを日光東照宮に奉納します。以後、これが「家康の遺訓」として定着しました。

つまり、こういうことになります。明治の人が、江戸後期に光圀の言葉として流布していた教訓に、家康の署名と花押を付けて神社に納めた。 それが百五十年近く、家康の言葉として読まれてきた。

この事実をどう受け取るかは、人それぞれだと思います。文章そのものの価値が下がるわけではありません。実際、よくできた教訓です。

ただ、この記事の立場ははっきりしています。家康が何を考えていたかを知りたいなら、この一枚を読んでも分からない、ということです。ここに書かれているのは、明治の人が思い描いた家康像です。

では、家康自身が確実に手を触れたものは何か。

彼が刷らせた本です。 印刷物には、いつ、誰が、何を、どれだけ刷ったかという記録が残ります。署名と違って、あとから足せません。

家康は、読んだだけでなく「刷った」 ― 伏見版と駿河版

日本の出版史に、家康は二度登場します。

伏見版(一五九九〜一六〇六)

慶長四年(一五九九年)、家康は足利学校の第九代庠主(校長)だった僧・閑室元佶(かんしつげんきつ)に、木活字十万余個を与えます。場所は京都の伏見、円光寺。ここで刷られた一群が「伏見版」と呼ばれます。

活字を十万個そろえるというのが、どれほどの事業か想像してみてください。関ヶ原の前年です。天下がどう転ぶか分からない時期に、印刷所を作っている。

刊行された書目が、そのまま家康の関心の目録になります。

慶長四年(一五九九年)『孔子家語』。 第一号がこれでした。孔子とその弟子たちの言行を集めた書です。
慶長五年(一六〇〇年)二月『貞観政要』。 唐の二代皇帝・太宗と家臣たちの政治問答の記録で、東洋の帝王学の教科書とされてきた本です。この七か月後が、関ヶ原の戦いです。
慶長十年(一六〇五年)『新刊吾妻鏡』。 鎌倉幕府の公式記録。武家政権の先例集です。
慶長十一年(一六〇六年)『七書』。 武経七書——『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『三略』『六韜』『李衛公問対』の七冊です。

順番を眺めると、意図が透けて見えます。儒教の基礎、帝王学、武家政権の前例、そして兵法七書。 天下を取る前の男が、天下を取ったあとに要るものを先に揃えている。

駿河版(一六一五〜一六一六)

二度目は、晩年です。大坂の陣が終わった元和元年(一六一五年)から翌年にかけて、家康は今度は銅活字を作らせます。木ではなく金属です。担当は林羅山金地院崇伝

ここで刷られたのが『大蔵一覧集』と、『群書治要』全四十七巻。約百部が印刷され、臣下に配られました。

『群書治要』が何の本かというと——唐の太宗の勅命で編まれた、古典から統治に関わる要点だけを抜き出したアンソロジーです。日本では帝王学の書として尊重されてきました。

つまり、家康の出版事業は太宗に始まり、太宗に終わっています。 関ヶ原の前に『貞観政要』を刷り、人生の最後に『群書治要』を刷った。どちらも唐の太宗です。

そして、最後に一つ。

家康は『群書治要』の完成を見ていません。 元和二年四月十七日に没し、四十七巻が組み上がったのは、その年の五月末頃でした。

死の床で、自分が命じた四十七巻がまだ印刷所にある。それを知りながら死んだことになります。七十五歳の男が、死ぬ直前まで作らせていたのが、統治の要点集だった。 これが、明治の遺訓よりもずっと確かな、家康の遺言だと思います。

では、その太宗の本には、何が書いてあるのか。

一、「創業と守成、いずれか難き」 ― 家康の主題そのもの

【白文】貞觀十年,太宗謂侍臣曰:「帝王之業,草創與守成孰難?」尚書左僕射房玄齡對曰:「天地草昧,群雄競起,攻破乃降,戰勝乃克。由此言之,草創為難。」魏徵對曰:「帝王之起,必承衰亂。……然既得之後,志趣驕逸,百姓欲靜而徭役不休,百姓雕殘而侈務不息,國之衰弊,恒由此起。以斯而言,守成則難。」
【書き下し】貞観十年、太宗侍臣に謂いて曰く、「帝王の業、草創と守成と孰(いず)れか難き」と。……魏徴対えて曰く、「帝王の起こるや、必ず衰乱を承(う)く。……然れども既に之を得たる後、志趣は驕逸し、百姓は静かならんことを欲するも徭役は休まず、百姓は雕残(ちょうざん)するも侈務(しむ)は息(や)まず。国の衰弊、恒に此に由りて起こる。斯(これ)を以て言えば、守成は則ち難し」と。

『貞観政要』のなかで最も有名な問答です。

太宗が家臣に問います。「帝王の事業において、創業と守成では、どちらが難しいか」。

房玄齢が答えます。創業です。天地が混沌として群雄が競い起こるなか、攻め破って初めて降し、戦って勝って初めて制する。あれ以上に難しいことはない、と。

魏徴が答えます。守成です。帝王が興るときは前の政権が乱れきっているから、倒せば民は喜んで従う。天が授け、人が与えるのだから、難しくはない。難しいのは、そのあとだ。 手に入れたとたんに志は驕り、民は静かに暮らしたいのに労役は止まず、民が疲れ果てても贅沢は止まない。国の衰えは、常にここから起こる、と。

そして太宗の裁定が見事です。どちらが正しいかを決めていません。

玄齢は自分に従って天下を定め、万死に一生を得てきた。だから創業の難しさが見えている。魏徴は自分とともに天下を安んじている。驕りの兆しを憂えている。だから守成の難しさが見えている。「今、創業の難しさは、すでに過ぎ去った。守成の難しさこそ、諸君とともに慎むべきことだ」。

問いに答えたのではなく、いま自分たちがどちらの局面にいるかを言ったのです。

家康がこの一段をどう読んだかは、想像するしかありません。ただ、彼の行動は不気味なほどこの筋に沿っています。関ヶ原に勝った三年後に将軍になり、そのわずか二年後には将軍職を秀忠に譲っています。 まだ六十三歳、健康で、実権も握ったままでした。

なぜ譲ったのか。将軍職が徳川家の世襲であることを、自分が生きているうちに既成事実にするためです。これは典型的な守成の手です。創業者が長く座り続ければ、その体制は創業者の個人的な力量に依存したままになる。家康は、自分がいなくても回ることを、自分の目が黒いうちに証明しようとしました。

事業でも同じことが起きます。創業の難しさと、守成の難しさは、まったく別の技能です。 立ち上げの得意な人が、安定期に入った組織を壊すことがある。逆も起きます。大事なのは能力の優劣ではなく、いま自分の組織がどちらの局面にいるかを、正しく見ることです。

出典:貞観政要 君道

二、「安くして能く懼るるは、豈に難しと為さざらんや」 ― 守成が難しい理由

【白文】貞觀十五年,太宗謂侍臣曰:「守天下難易?」侍中魏徵對曰:「甚難。」太宗曰:「任賢能、受諫諍,即可,何謂為難?」徵曰:「觀自古帝王,在於憂危之間,則任賢受諫。及至安樂,必懷寬怠,言事者惟令兢懼,日陵月替,以至危亡。聖人所以居安思危,正為此也。安而能懼,豈不為難?」
【書き下し】貞観十五年、太宗侍臣に謂いて曰く、「天下を守るは難きか易きか」と。侍中魏徴対えて曰く、「甚だ難し」と。太宗曰く、「賢能に任じ、諫諍を受くれば、即ち可なり。何ぞ難しと為すと謂うか」と。徴曰く、「古よりの帝王を観るに、憂危の間に在りては、則ち賢に任じ諫を受く。安楽に至るに及びては、必ず寛怠を懐(いだ)き、事を言う者は惟だ兢懼(きょうく)せしむ。日に陵(おか)され月に替(すた)れ、以て危亡に至る。聖人の居安思危する所以は、正に此が為なり。安くして能く懼るるは、豈に難しと為さざらんや」と。

前の問答から五年後。太宗が改めて聞きます。「天下を守るのは、難しいか、易しいか」。

魏徴、即答で「甚だ難し」。

太宗は少し反発します。「有能な者に任せ、諫言を受け入れればよいではないか。なぜ難しいと言うのか」。 もっともな反論です。やるべきことは分かっている。

ここからの魏徴の答えが、この記事でいちばん紹介したい一段です。

「それができるのは、危機の中にいる時だけです」。

古来の帝王を見ると、憂いと危機のなかにある時は、みな賢者に任せ、諫言を受け入れる。ところが安楽に至れば、必ず気が緩む。 そして、進言する者を怯えさせるようになる。日ごとに侵され、月ごとに廃れ、そうして滅びに至る。

聖人が「安きに居りて危うきを思う」と言うのは、まさにこのためだ。そして、こう締めます。

「安而能懼、豈不為難」——安らかでありながら、なお懼れることができるか。これが難しくないと言えましょうか。

つまり、守成が難しいのは、やり方が分からないからではありません。やり方は最初から分かっている。安楽になると、それが実行できなくなるからです。

知識の問題ではなく、状態の問題だと言っている。ここが鋭い。

家康の統治には、この警戒が制度の形で埋め込まれています。武家諸法度、禁中並公家諸法度、参勤交代の原型、大名の配置。どれも「うまくいっている時に、うまくいかなくなる場合に備える」設計です。

そして家康は、成功したあとの自分自身を信用しませんでした。 将軍職を早々に譲り、駿府に移ってなお実権を握り、死ぬ直前まで統治の本を刷らせていた男は、たぶん自分が緩むことを知っていたのだと思います。

会社でも同じ景色が見られます。業績が悪いときは、誰もが必死に意見を出し合う。ところが業績が良くなると、会議は静かになる。反対意見を言う人が減るのは、社員が納得したからではなく、言いにくくなったからです。魏徴が言った「進言する者を怯えさせる」は、怒鳴りつけることだけを指してはいません。うまくいっている空気そのものが、人を黙らせます。

出典:貞観政要 君道

三、「木の長ぜんことを求むる者は、必ず其の根本を固くす」 ― 見えない部分への投資

【白文】臣聞求木之長者,必固其根本;欲流之遠者,必浚其泉源;思國之安者,必積其德義。源不深而望流之遠,根不固而求木之長,德不厚而思國之治,臣雖下愚,知其不可,而況於明哲乎?
【書き下し】臣聞く、木の長ぜんことを求むる者は、必ず其の根本を固くす。流れの遠からんことを欲する者は、必ず其の泉源を浚(さら)う。国の安からんことを思う者は、必ず其の徳義を積む。源深からずして流れの遠からんことを望み、根固からずして木の長ぜんことを求め、徳厚からずして国の治まらんことを思う。臣は下愚なりと雖も、其の不可なるを知る。而るを況んや明哲に於けるをや。

魏徴が太宗に奉った「十思の疏(じっしのそ)」——君主が心すべき十のこと——の書き出しです。

木を高く伸ばしたければ、根を固める。流れを遠くまで届かせたければ、水源を浚う。国を安らかにしたければ、徳と義を積む。

当たり前のことを、当たり前に言っています。魏徴自身「臣は愚か者ですが、それが不可能であることは分かります」と書いている。誰でも分かる話だ、と。

問題は、この当たり前が、権力の座では見えなくなることです。

魏徴はこう続けます。それなのに、安らかな時に危うさを思わず、奢りを倹約で戒めず、徳においてその厚さに身を置かず、欲望に打ち勝てない。それは「根を切り倒して木が茂ることを求め、源を塞いで流れが長く続くことを望むようなもの」だ、と。

この比喩の恐ろしさは、根を切っている本人に自覚がないところにあります。木は、根を切られてもすぐには枯れません。しばらくは葉を茂らせたままです。手応えがないまま損なわれ、遅れて倒れる。

家康が江戸に幕府を開いてからやったことの多くは、この「根」にあたる仕事でした。検地と石高の確定。街道と宿場の整備。貨幣制度。朱印船と外交。そして学問——林羅山を召し抱え、儒学を武家の教養の中心に据えたのも、この時期です。

どれも、その年の収穫を増やす仕事ではありません。十年後、五十年後に効く仕事です。 家康の死後二百五十年以上、この体制が動き続けたのは、彼が「根」に手間をかけたからでした。

現代の組織で切られやすい根は、はっきりしています。教育、記録の整備、若手の育成、負債の返済、そして安全。どれも、削っても今期の数字が落ちません。 だから削られる。落ちるのは、数年後です。

出典:貞観政要 君道

四、「満つれば則ち覆る」 ― 伏見版の第一号から

【白文】孔子觀於魯桓公之廟,有欹器焉。……孔子曰:「吾聞宥坐之器,虛則欹,中則正,滿則覆,明君以為至誡,故常置之於坐側。」……夫子喟然嘆曰:「嗚呼!夫物惡有滿而不覆哉?」子路進曰:「敢問持滿有道乎?」子曰:「聰明睿智,守之以愚;功被天下,守之以讓;勇力振世,守之以怯;富有四海,守之以謙。此所謂損之又損之之道也。」
【書き下し】孔子魯桓公の廟を観るに、欹器有り。……孔子曰わく、「吾聞く、宥坐の器は、虚なれば則ち欹き、中なれば則ち正しく、満つれば則ち覆る、明君以て至誡と為し、故に常に之を坐側に置くと。」……夫子喟然として嘆じて曰わく、「嗚呼、夫れ物満ちて覆らざる有らんや。」子路進みて曰わく、「敢えて問う、満を持するに道有りや。」子曰わく、「聡明睿智も、之を守るに愚を以てす。功天下を被うも、之を守るに讓を以てす。勇力世に振うも、之を守るに怯を以てす。富四海を有つも、之を守るに謙を以てす。此れ所謂之を損じて又之を損ずるの道なり。」

伏見版の第一号、『孔子家語』からの一段です。慶長四年、家康が最初に刷らせた本にこれが入っていました。

孔子が魯の桓公の廟を見学すると、傾いた器がある。守り役に聞くと「宥坐(ゆうざ)の器」だと言う。座右に置いて戒めとする器です。

その性質が変わっています。空だと傾く。ほどよく水が入ると、まっすぐ立つ。いっぱいに満ちると、ひっくり返る。

孔子は弟子に「試しに水を注いでみなさい」と言います。注いでみると、そのとおりになった。孔子はため息をついて言います。「ああ、そもそも物事は、満ちて覆らないものなどあるだろうか」。

ここで子路が、実務家らしい質問をします。「満ちた状態を保ち続ける方法はあるのでしょうか」。

孔子の答えが、この一段の眼目です。

聡明で英知に優れていても、それを「愚」で守る。
功績が天下を覆うほどでも、それを「譲」で守る。
勇気と力が世に鳴り響いていても、それを「怯」で守る。
富が天下四方を有するほどでも、それを「謙」で守る。

これを「損之又損之」——減らして、また減らしていく道、と孔子は呼びました。

大事なのは、これが能力を隠せという話ではないことです。力を持てば持つほど人は驕る。その性質を自覚したうえで、意識的に反対側の重りを乗せる。愚・譲・怯・謙は、謙遜のポーズではなく、転覆を防ぐためのバラストです。

家康を見ていると、この四つがそろって思い当たります。関ヶ原に勝って将軍になっても、居城を華美にせず、質素な暮らしを崩さなかったこと。二年で将軍職を譲ったこと(譲)。大坂の陣まで十四年待ったこと(怯)。

もっとも家康の場合、これは徳というより計算だったのだろうと思います。だからこそ、この教えは実務的です。 謙虚さは人格の問題ではなく、満ちた器を倒さないための技術として使える。

出典:孔子家語 三恕

五、「天下とは、一人の天下に非ず」 ― 誰の天下か

【白文】故利天下者,天下啟之;害天下者,天下閉之;生天下者,天下德之;殺天下者,天下賊之;徹天下者,天下通之;窮天下者,天下仇之;安天下者,天下恃之;危天下者,天下災之。天下者、非一人之天下,唯有道者處之。
【書き下し】故に天下を利する者は、天下之を啓き、天下を害する者は、天下之を閉づ。天下を生かす者は、天下之を徳とし、天下を殺す者は、天下之を賊とす。天下を徹する者は、天下之に通じ、天下を窮せしむる者は、天下之を仇とす。天下を安んずる者は、天下之を恃み、天下を危ふくする者は、天下之を災とす。天下とは、一人の天下に非ず、唯だ道有る者のみ之に処る

『六韜』順啓篇。慶長十一年に家康が刷らせた「七書」の一冊です。周の文王と、その軍師・太公望(呂尚)の問答という形をとっています。

文王が問います。「どのようにすれば天下を治めることができるのか」。

太公望の答えは、対句を八つ重ねる形で進みます。

天下を利する者には、天下が門を開く。天下を害する者には、天下が門を閉ざす。
天下を生かす者を、天下は徳ある者とする。天下を殺す者を、天下は賊とする。
天下を通じさせる者には、天下が通じる。天下を行き詰まらせる者を、天下は仇とする。
天下を安んずる者を、天下は頼みとする。天下を危うくする者を、天下は災いとする。

構造が一貫しています。上に立つ者への評価は、すべて相手から返ってくる。 自分で名乗るものではない。

そして結びが、この篇の核心です。

「天下者、非一人之天下、唯有道者處之」——天下とは一人の天下ではなく、ただ道を体した者だけが、そこに立つ。

これは、戦国を終わらせた男が読むには、なかなか際どい一句です。天下は取るものではなく、預かる場所だと言っている。

実際、家康の作った体制は、この方向を向いていました。将軍は絶対君主ではなく、大名との関係の上に成り立つ。老中と評定という合議の仕組みがあり、武家諸法度という明文のルールがある。将軍個人の資質が低くても回るように設計されていたからこそ、二百六十五年続きました。

現代の言葉に置き換えるなら、こうなります。会社は経営者の私物ではありません。 顧客、社員、取引先、地域が共有する場です。そして評価は、常に相手から返ってきます。「利する者には門が開き、行き詰まらせる者は仇とされる」。取引先が離れるのも、社員が辞めるのも、たいていは相手が下した評価の結果です。

権限の大きさが立場を支えるのではなく、周囲に何をもたらしたかが立場を支える。 太公望はそう言っています。

出典:六韜 順啓

六、「柔能く剛を制す」 ― 家康の代名詞の出どころ

【白文】軍讖曰:柔能制剛,弱能制強。柔者,德也。剛者,賊也。弱者,人之所助。強者,怨之所攻。柔有所設,剛有所施,弱有所用,強有所加,兼此四者,而制其宜。
【書き下し】軍讖に曰く、柔は能く剛を制し、弱は能く強を制す、と。柔は徳なり。剛は賊なり。弱は人の助くる所、強は怨の攻むる所なり。柔に設くる所有り、剛に施す所有り、弱に用うる所有り、強に加うる所有り。此の四者を兼ねて、其の宜しきを制す。

柔よく剛を制す」。この有名な言葉の出典が、これです。『三略』上略篇。これも家康が刷らせた七書の一冊です。

軍讖(ぐんしん)とは、古くから伝わる兵法の格言集を指します。『三略』はこれを引いて自説を組み立てます。

柔らかさは徳であり、硬さは人を損なうもの。弱い者には人が助けの手を差し伸べるが、強い者には人の怨みが向かう——。

家康の生涯は、まさにこれです。人質として耐え、信長の同盟者として耐え、秀吉の下で関東へ移されても耐えた。「鳴くまで待とう」という後世の川柳(これも家康の作ではなく、江戸後期以降に広まった見立てです)が定着したのは、その印象があるからでしょう。

ただし、この段には続きがあります。そこがいちばん大事です。

「柔に設くる所有り、剛に施す所有り、弱に用うる所有り、強に加うる所有り」。 柔をはたらかせるべき場面があり、剛を用いるべき場面があり、弱を活かすべき場面があり、強を加えるべき場面がある。この四つをすべて備えたうえで、状況に応じて使い分けるのである、と。

つまり『三略』は、柔弱をただ礼賛していません。 四つとも手札として持て、と言っている。

出典:三略 上略

七、「純柔純弱なれば、其の国必ず削らる」 ― 忍耐だけの人ではなかった

【白文】軍讖曰:能柔能剛,其國彌光。能弱能強,其國彌彰。純柔純弱,其國必削、純剛純強,其國必亡。
【書き下し】軍讖に曰く、能く柔に能く剛なれば、其の国は弥いよ光り、能く弱に能く強なれば、其の国は弥いよ彰る。純柔純弱なれば、其の国は必ず削られ、純剛純強なれば、其の国は必ず亡ぶ、と。

前の段のすぐあと。同じ『三略』上略篇が、今度は国家の運命という形で言い切ります。

柔にも剛にもなれる国は、いよいよ輝く。弱くも強くもなれる国は、いよいよ名が顕れる。
柔弱一辺倒の国は、必ず削り取られる。剛強一辺倒の国は、必ず滅びる。

両極端を、どちらも戒めています。

前の段と合わせて読むと、家康像が少し修正されます。「忍耐の人」という一語では、この人は説明できません。

事実、家康は待つだけの人ではありませんでした。関ヶ原では、まだ豊臣家が健在ななかで正面から決着をつけています。大坂冬の陣では、和議の条件として大坂城の外堀を埋めさせ、そのまま内堀まで埋めました。翌年の夏の陣で豊臣家は滅びます。豊臣秀頼と淀殿の助命嘆願も、受け入れていません。

やるときは、容赦がない。 「柔能く剛を制す」だけを取り出すと、この側面が消えます。『三略』は、消してはいけないと言っている。

組織運営でも、この二つの失敗は繰り返されます。人当たりのよさを優先して問題に踏み込めない組織は、じわじわ規律が崩れて削られていく。成果と統制だけを振りかざす組織は、短期的に数字を上げても人が疲弊し、ある日ふいに崩れる。

求められるのは、温かさと厳しさの両方を、場面ごとに選び取れる幅です。自分の得意な型に固執しないこと。それが『三略』の結論でした。

出典:三略 上略

八、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」 ― 遺訓と、たった一字の違い

【白文】子貢問:「師與商也孰賢?」子曰:「師也過,商也不及。」曰:「然則師愈與?」子曰:「過猶不及。」
【書き下し】子貢問う、「師と商とは孰れか賢れる。」子曰く、「師や過ぎたり、商や及ばず。」曰く、「然らば則ち師愈れるか。」子曰く、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。」

最後に、冒頭の遺訓に戻ります。

あの一枚のなかに、こういう一句がありました。「及ばざるハ過ぎたるよりまされり」。 足りないほうが、やりすぎよりまさっている。

そして、その元になっているのが、この『論語』先進篇です。

子貢が孔子に聞きます。「子張と子夏では、どちらが優れていますか」。孔子は「子張はやりすぎ、子夏は足りない」と答える。子貢が重ねて聞きます。「では、子張のほうが優れているのですね」。

自然な感覚です。足りないより余っているほうがいい、と多くの人は思っています。

孔子はそれを否定しました。「過猶不及」——過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。

基準からの距離という一点で見れば、超過も不足も等しく外れている。どちらがましか、という話ですらない。同じだと言っている。

さて、並べてみます。

孔子——過ぎたるは、及ばざるがごとし。(同じである)
遺訓——及ばざるは、過ぎたるよりまされり。(足りないほうがよい)

違います。 遺訓は、孔子の「同じ」を「足りないほうがまし」へずらしている。

どちらが正しい、という話ではありません。ただ、この一句の変形は、あの遺訓がどういう性格の文章かをよく表しています。 忍耐と自制を説く方向へ、全体が寄せてある。過剰を戒め、控えめであれと繰り返す。だから読みやすく、だから広まりました。

いっぽう孔子のほうは、もっと素っ気ない。過剰も不足も、等しく的を外している。

そして実務では、孔子のほうが役に立ちます。過剰は、努力の形をしているから指摘されにくいからです。品質を上げすぎて納期を落とす。丁寧すぎて決まらない。資料を作り込みすぎて意思決定が遅れる。どれも失敗ですが、頑張った結果なので、責める空気になりません。

不足は誰にでも見えます。過剰は、見えないまま組織を蝕みます。

出典:論語 先進篇

信玄と家康 ― 三方ヶ原で完敗した男が、そのあと何をしたか

家康の人生で最大の敗戦は、元亀三年(一五七二年)の三方ヶ原です。相手は武田信玄。

家康は当時三十一歳。籠城すべきところを、浜松城から打って出て、正面から武田軍にぶつかり、一方的に破られました。多くの家臣を失い、命からがら城へ逃げ帰っています。

この敗戦のあと、家康が信玄から何を学んだかについては、いろいろな逸話が語られてきました。ただし、そうした話の多くは後世に整えられたもので、確かなことは多くありません。「敗戦で家康が変わった」という物語自体が、後から作られた形をしています。

確かなのは、もっと地味なことです。家康は信玄の死後、武田家の遺臣を大量に召し抱えました。 井伊直政に武田の旧臣を付け、赤備えを再編したのは、その代表例です。武田家の軍制、税制、鉱山の技術、そして甲州流の治水。これらは徳川の統治に取り込まれていきます。

負かした相手の仕組みを、そのまま自分の中に入れる。 恨むでも真似るでもなく、部品として使う。この態度のほうが、どんな精神論よりも家康らしい。

そして、信玄と家康は同じ本を読んでいました。信玄は『孫子』を旗と法度と情報部隊に変え、家康は『貞観政要』と七書を活字にして配りました。同じ本を、まるで違う形で使っている。

武田信玄の愛読書 ― 孫子・韓非子・貞観政要を、旗と法律と治水に変えた男

家康が刷った「七書」は、いまも全部読める

慶長十一年、家康が伏見で刷らせた『七書』——武経七書の七冊が、四百年後の現在、どうなっているか。

七冊とも、師導に収録されています。

『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『三略』『六韜』『李衛公問対』。それぞれ白文・書き下し文・現代語訳・解説つきで、篇ごとに読めます。家康が木活字を組ませて配った本を、いまは検索して読める。それだけのことですが、四百年の隔たりを考えると、少し不思議な気持ちになります。

『孫子』については、名言を十三句集めた記事も用意しています。

孫子の兵法の名言13選 — 原文・現代語訳と、戦わずして勝つの本当の意味

そして、家康がこの七書と並んで重んじた『貞観政要』も、全三百八十七句を収録しています。

貞観政要の名句一覧

まとめ ― 家康の遺言は、遺訓ではなく印刷所にあった

もう一度、整理します。

「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」は、家康の言葉ではありません。 江戸後期に徳川光圀の言葉として広まり、天保六年に家康の言葉として本に載り、明治十一年ごろ、元旗本の池田松之助が署名と花押を付けて日光東照宮に納めたものです。

その代わり、確かなものがあります。

慶長四年、木活字十万個。第一号は『孔子家語』。 そこには「満つれば則ち覆る」という器の話が入っていました。
慶長五年二月、関ヶ原の七か月前に『貞観政要』。 そこには「創業と守成、いずれか難き」という問答が入っていました。
慶長十一年、『七書』。 そこには「柔能く剛を制す」と、その直後の「純柔純弱なれば其の国必ず削らる」が入っていました。
元和元年、銅活字。最後に組ませたのは『群書治要』四十七巻。 唐の太宗が編ませた統治の要点集です。完成の一か月半前に、家康は死んでいます。

並べてみると、一つの線が見えます。家康が集めたのは、勝ち方の本ではありませんでした。 勝ったあとに何が起きるか、そしてそれをどう防ぐかを書いた本ばかりです。

満ちれば覆る。守成のほうが難しい。安楽になれば緩む。根を切れば木は倒れる。柔だけでも剛だけでも国は保たない。天下は一人のものではない。

全部、同じことを言っています。取ったあとが本番だ、と。

戦国の勝者が最後に刷らせたのが、統治の要点集だったことは、偶然ではないと思います。彼は自分の死後を設計していました。そして実際、その体制は二百六十五年動きました。

最後に、この記事の書き方についてひとこと。

有名な遺訓を「偽物だ」と暴くことが目的ではありません。出どころを辿ると、その人の実像がもっと面白く見えてくる——それが辿る理由です。明治の人が作った家康像は、忍耐と我慢の人でした。実際の家康は、活字を十万個そろえ、死ぬ直前まで本を刷らせていた男です。

どちらが魅力的かは、読む人が決めればいいと思います。ただ、後者のほうが、たしかに存在した人です。

なお、明治になって現れた戦国武将の「遺訓」は、家康のものだけではありません。 伊達政宗の「五常訓」も、初出は明治二十七年の刊行物で、伊達家の史料に根拠が見つかっていません。同じ構図を、政宗の記事でも辿りました。

伊達政宗の愛読書 ― 五常訓は本人の言葉ではない。では何を残したか

なお、明治に現れた遺訓がすべて後世の作というわけではありません。 『南洲翁遺訓』は、戊辰戦争で西郷と戦った旧庄内藩の人々が、直接聞いた話をまとめて明治二十三年に刊行したものです。同じ「明治の遺訓」でも、成り立ちがまったく違います。

西郷隆盛の愛読書 ― 「敬天愛人」の出どころと、敵が作った遺訓

なお、この遺訓を明治の時点で分析していた人がいます。渋沢栄一です。 『論語と算盤』のなかで「神君の遺訓と称して」と書き、冒頭が論語泰伯篇から来ていること、末尾の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は孔子の「猶ほ及ばざるが如し」を「勝れり」と強くしたものだと指摘しています。

渋沢栄一の名言と愛読書 ― 『論語と算盤』の原文と、「夢七訓」の真偽

本記事の原文について

「東照宮御遺訓」は、伝わっている表記のまま引用しました。 読みやすさのために現代仮名遣いに直したり、句読点を補ったりはしていません。この文書がどういう性格のものかを見るには、表記そのものが情報だからです。

出どころについては、江戸後期の流布、天保六年(一八三五年)の『心要善悪種蒔鏡和讃』、明治十一年(一八七八年)ごろの池田松之助による日光東照宮への奉納、という経緯を本文に書きました。

漢籍の白文・書き下し文・現代語訳・解説は、すべて師導が収録する底本の値です。 記事のために訳し直したり、文意に合わせて手を入れたりはしていません。長い章句は「……」で中略していますが、残した部分は一字も変えていません。各節の末尾のリンクから、その章句の全文と解説をご覧いただけます。

伏見版・駿河版の年次と書目は、国立公文書館および印刷博物館の資料に拠りました。