論語と算盤 / 処世と信条・蟹穴主義が肝要
私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るといふ主義で、渋沢の分を守るといふことを心掛けて居る、是でも今から十年ばかり前に、是非大蔵大臣になつて呉れだの、また日本銀行の総裁になつて呉れだのといふ交渉を受けたこともあるが、自分は明治六年に感ずる所があつて実業界に穴を掘つて這入つたのであるから、今更その穴を這出すことも出来ないと思つて固く辞して了つた、孔子は、『以て進むべくんば進み、以て止まるべくんば止まり、以て退くべくんば退く』と言つて居られるが、実際人は其の出処進退が大切である、併しながら分に安んずるからと云つて、進取の気象を忘れて了つては何にもならぬ、業若し成らずんば死すとも還らずとか、大功は細瑾を顧みずとか、男子一度意を決す、須からく乾坤一擲の快挙を試むべしなど云ふが、其間にも必ず己が分を忘れてはならぬ、孔子は『心の欲する所に従つて矩を踰えず』と曰はれたが、つまり分に安んじて進むのが可からうと思ふ。
書き下し
私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、渋沢の分を守るということを心掛けている。これでも今から十年ばかり前に、ぜひ大蔵大臣になってくれだの、また日本銀行の総裁になってくれだのという交渉を受けたこともあるが、自分は明治六年に感ずる所があって実業界に穴を掘って這入ったのであるから、今更その穴を這い出すことも出来ないと思って固く辞してしまった。孔子は「もって進むべくんば進み、もって止まるべくんば止まり、もって退くべくんば退く」と言っておられるが、実際人はその出処進退が大切である。しかしながら分に安んずるからと言って、進取の気象を忘れてしまっては何にもならぬ。業もし成らずんば死すとも還らずとか、大功は細瑾を顧みずとか、男子ひとたび意を決す、すべからく乾坤一擲の快挙を試むべしなどと言うが、その間にも必ず己が分を忘れてはならぬ。孔子は「心の欲する所に従って矩を踰えず」と言われたが、つまり分に安んじて進むのがよかろうと思う。
現代語訳
私は、蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、渋沢という分を守ることを心がけている。これでも十年ほど前に、ぜひ大蔵大臣に、あるいは日本銀行総裁に、という交渉を受けたことがあるが、自分は明治六年に思うところがあって実業界に穴を掘って入ったのだから、今さらその穴を這い出すことはできないと思い、固く辞退した。孔子は「進むべきときは進み、止まるべきときは止まり、退くべきときは退く」と言われたが、実際、人は出処進退が大切である。とはいえ分に安んじるからといって、進んで取る気概を忘れてしまっては何にもならない。事が成らねば死んでも還らぬ、大きな仕事は小さな傷を気にしない、男子ひとたび決意すれば乾坤一擲の勝負に出るべきだ——そうも言うが、その間にも必ず自分の分を忘れてはならない。孔子は「心の欲するところに従って、それでも矩を越えない」と言われた。つまり、分に安んじたうえで進むのがよいと思う。
解説
この章句が説くこと
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論語・学而篇子曰く、「君子は食らうに飽くことを求めず、居るに安きを求めず、事に敏にして言に慎み、有道に就いて正す。学を好むと謂う可きのみ。」
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『慎思録』巻之五唯君子のみ能く君子と小人とを知る。小人は君子の心を知ること能はず。反りて猜疑疾悪し、動もすれば妨害を為し、終に枉冤陥殺するに至る者も、亦之れ有り。且つ小人は小人の害を為すを察せず、引き進めて己の助けと為し、終に其の身を亡ぼすに至りて悟らず。至愚にして暁すべからずと謂ふべし。
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『翁問答』下卷之本聖人の才徳天地神明とおなじき故に、神明不測広大周備、言語道断なり、賢人の才徳も大かた聖人の体段そなはりぬれども、神明不測の位にいたらず、英雄は大将の才徳は賢人と同じけれども、余の才と徳とは賢人より一位おとりて英雄のかどあるなり、聖人賢人英雄この三人は、才徳の高下大小ありと雖、いづれも君子なれば治世にも乱世にも天下無双の重宝なる人なり、奸雄は敵を退治する一科の用に立つ事は賢人英雄にもおとらねども、明徳くらく邪欲ふかき故、むほん逆心の疑ひありて、味方のたのみあやうし、さて国治まりて仕置などまかせぬれば国をみだり、乱をおこすものなり、
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