論語と算盤 / 処世と信条・人物の観察法
視も観も共に「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によつて見るだけの事で、観は外形よりも更に立ち入つて其奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見ることである、即ち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、先づ第一に其人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相し、それより其人の行為は何を動機にして居るものなるやを篤と観、更に一歩を進めて、其人の安心は何れにあるや、其人は何に満足して暮してるや等を知ることにすれば、必ず其人の真人物が明瞭になるもので、如何に其人が隠さうとしても、隠し得られるものでないといふにある
書き下し
視も観もともに「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によって見るだけの事で、観は外形よりもさらに立ち入ってその奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見ることである。すなわち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まず第一にその人の外部に顕れた行為の善悪正邪を相し、それからその人の行為は何を動機にしているものであるかをとくと観、さらに一歩を進めて、その人の安心はどこにあるか、その人は何に満足して暮らしているか等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になるもので、いかにその人が隠そうとしても、隠し得られるものでないというにある。
現代語訳
視も観もどちらも「みる」と読むが、視は外形を肉眼で見るだけのこと、観は外形よりさらに奥へ立ち入り、肉眼だけでなく心の眼を開いて見ることである。つまり孔子が論語で説いた人物観察法とは、まずその人の外に現れた行いの善悪正邪を見る。次にその行いが何を動機としているのかをよく観る。さらに一歩進めて、その人の心の落ち着き先はどこにあるのか、何に満足して暮らしているのかを知る。そこまでやれば、その人の本当の人物が必ずはっきりする。どれほど隠そうとしても隠しきれるものではない、ということである。
解説
論語為政篇の「其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや」を、渋沢が採用の実務として読み直したところである。この章では先に佐藤一斎の「初見の時に相すれば人多く違はじ」と、孟子の眸子を見る法を挙げ、どちらも手っ取り早くて当たるが、それだけでは届かないとして三段の観察を置く。効くのは第三段だ。行いが正しく、動機も正しくても、その人が満足しているところが「飽食暖衣逸居」であれば、いずれ誘惑に負ける。何をしたかでも、なぜしたかでもなく、何に安んじているか。面接で最も聞きにくく、最も外れないのはここである。
この章句が説くこと
視観察其の安んずる所人焉んぞ廋さんや人物観察法