論語と算盤 / 常識と習慣・親切らしき不親切
苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を芟除することに由らなければならぬのに、之を引き抜いて長ぜしめやうとするのは如何にも乱暴である、孟子の不動心術の可否は兎に角、世間往々苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争はれぬ事実である、苗を長ぜしめたいと、いふ其の志は誠に善であるが、之を抜くといふ所作が悪である、此の意味を拡充して考へると、志が如何に善良で忠恕の道に適つて居ても、其の所作が之に伴はなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
書き下し
苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を刈り除くことによらなければならぬのに、これを引き抜いて長ぜしめようとするのはいかにも乱暴である。孟子の不動心術の可否はともかく、世間おうおうにして苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争われぬ事実である。苗を長ぜしめたいというその志は誠に善であるが、これを抜くという所作が悪である。この意味を拡充して考えると、志がいかに善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
現代語訳
苗を育てるには、水の加減、肥料の加減、雑草を取り除くことによるほかないのに、それを引き抜いて伸ばそうとするのは、いかにも乱暴である。孟子の不動心の説の是非はともかく、世間にはしばしば、苗を助けて伸ばそうとする行いがあるのは争えない事実だ。苗を伸ばしたいというその志はまことに善い。だが、それを引き抜くという所作が悪い。この意味を広げて考えると、志がどれほど善良で忠恕の道にかなっていても、所作がそれに伴わなければ、世の信用は得られないということである。
解説
孟子の助長——宋の人が苗の伸びが遅いのを気に病んで引き抜き、帰って「今日は疲れた、苗を助けて伸ばしてやった」と言い、息子が走って見に行くと苗は枯れていた——を、渋沢は善意の失敗の型として使う。章の冒頭には、卵の殻を剝いてやったら雛が死んだ話も出てくる。志と所作は別だ、というのがこの章の主題である。志がどれだけ真面目でも、所作が伴わなければ善行ではない。そして章の後半では逆側も直視する。世間は心の善悪より所作の善悪を見るから、志の曲がった者でも所作が機敏なら信用される、と。育てる側にとっては痛い指摘だろう。手を掛けた量ではなく、相手が伸びたかどうかで測られる。
この章句が説くこと
助長親切らしき不親切志と所作忠恕の道
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切孟子自身は浩然の気を養ってこの修養に資したが、凡人はとかく所作に間違いを来しやすい。孟子はその例として「宋人有閔其苗之不長而揠之者、芒芒然帰、謂其人曰、今日病矣、予助苗長矣、其子趨而往視之、苗則槁矣云々」と、大いに告子を罵倒している。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切世間には冷酷無情にしていささかも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものがかえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴きいるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契ったものがかえって世に疎ぜられ落伍者となる場合がいくらもある。天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するのは誠に興味ある問題である。思うに人の行為の善悪は、その志と所作と相まって較量せねばなるまい。志がいかに真面目で忠恕の道に契っていても、その所作が遅鈍であるとか、放僻邪肆では何にもならぬ。志においてはあくまで人のためになれかしと思っていても、その所作が人の害となるようでは善行と言われぬ。昔の小学読本に、「親切のかえって不親切になりし話」と題して、雛が孵化せんとして卵の殻から離れずに困っているのを見て、親切な子供が殻を剝いてやった所が、かえって死んでしまったという話があるが、孟子にもこれと同じような例がたくさんあったように記憶する。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為の本である志が曲がっていても所作が正しいという理屈は、厳格に言えばあろうはずはないが、聖人も欺くに道をもってすれば与しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。例えば将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負って拝観に出て褒美をもらった。ところが、平素不良の一無頼漢がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美をもらってやろうと、他人の老婆を借りて背負って拝観に出かけた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側役人から彼は褒美をもらわんための偽孝行であると故障を申し立てた。すると吉宗公は、いや真似は結構であると篤く労われたということである。また孟子の言に、「西子も不潔を蒙らば、すなわち人皆鼻を掩うてこれを過ぐ」というのがある。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切文句は一々覚えていないが、人のためを計ると言っても、その室に闖入してその戸を破る、これをしも忍ぶかと言ったような意味や、それから梁の恵王が政事を問うた時に、「庖に肥肉あり、厩に肥馬あり、民に饑色あり、野に餓莩あり、これ獣を率いて人を食ましむるものなり」と言って、刃をもって人を殺すも、政事をもって人を殺すも、同じだと断定している。それから告子と不動心説を論じた所に、「心に得ずとも気に求むることなかれとは可なれども、言に得ずも心に求むることなかれとは不可なり、それ志は気の帥なり、気は体の充てるなり、それ志は至れり、気は次ぐ、ゆえに曰く、その志を持してその気を暴うことなかれ」とある。これは志はすなわち心の本で、気は心の所作となって現れる末である。志は善で忠恕の道に契っていても、出来心と言ってふと志に適わぬことをすることが往々ある。だからその本心を持して出来心たる気を暴わぬよう、すなわち所作に間違いのないように不動心術の修養が肝要である。
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『論語と算盤』教育と情誼・孝らしからぬ孝孝行孝行と、いかにも孝行は百行の基たるに相違ないが、孝行をしようとしての孝行は真実の孝行とは言われぬ。孝行ならぬ孝行が真実の孝行である。私が年老いたる母に種々と頼んで、足を揉ませたりするまでに致し、お汁やご飯の小言を言ったりするのも、母は息子が山仕事から帰って来るのを見れば、さぞ疲れていることだろうと思い、「さぞ疲れたろう」と親切に優しくして下さるので、その親切を無にせぬようにと、足を伸ばして揉んでもらい、また客人をもてなすについては、さぞ不行き届きで息子が不満足だろうと思って下さるものと察するから、その親切を無にせぬため、ご飯やお汁の小言までも言ったりするのである。
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『論語と算盤』教育と情誼・孝らしからぬ孝何でも自然のままに任せて、母の思い通りにしてもらうところが、あるいは世間に、私を孝子孝子と言いはやして下さる所以であろうか」というのが、信州の孝子の答えであった。これを聞いて近江の孝子も翻然として大いに悟り、孝の大本は何事にも強いて無理をせず、自然のままに任せる所にある、孝行のために孝行を力めて来た我が身には、まだまだ至らぬ点があったのだと気付くに至った、と説いた所に道二翁道話の孝行修行の教訓があるのである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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