薪を背負い、歩きながら本を読む少年。二宮金次郎(にのみや きんじろう)と聞いて、多くの人が最初に思い浮かべるのはこの姿でしょう。かつては全国の小学校の校庭に、この像が立っていました。

ところが、この姿が絵になったのは、本人が亡くなって三十五年後の明治二十四年(一八九一)です。銅像になったのは、さらに十九年後でした。像の少年は、後の時代が「こうあってほしい」と描いた金次郎です。

では、本人は自分の若いころをどう語ったのか。そして、あの少年は大人になって何をしたのか。この記事では、二宮尊徳(そんとく)の生涯を、本人の言葉が残る『二宮翁夜話(にのみやおうやわ)』からたどります。

先に史料の性格を断っておきます。『二宮翁夜話』は、尊徳自身が書いた本ではありません。門人の福住正兄(ふくずみ まさえ)が、若いころ師のもとで暮らした数年間に聞いた話を書き留め、明治十七年から二十年(一八八四〜八七)に刊行したものです。もう一つの基本史料である『報徳記(ほうとくき)』は、同じく門人の富田高慶(とみた こうけい)が尊徳の没年にまとめた伝記で、師導には収録していません。本記事では、『報徳記』に拠る話はそう書き添えます。

なお、尊徳が何を読み、どう読んだのか、そして「道徳なき経済は犯罪」という言葉が本人のものかどうかは、別の記事で扱いました。本記事は、その人がどう生きたかに絞ります。

二宮尊徳とは ― 年表で先に見る

年齢は当時の数え方(数え年)で書きます。主な年は真岡市の公式年表に拠りました。

  • 天明七年(一七八七) 相模国足柄上郡栢山村(かやまむら、現在の神奈川県小田原市)の農家に生まれる。通称は金次郎
  • 寛政三年(一七九一)五歳 酒匂川(さかわがわ)の堤が切れ、田畑が流される
  • 寛政十二年(一八〇〇)十四歳 父・利右衛門が亡くなる
  • 享和二年(一八〇二)十六歳 母・よしが亡くなる。金次郎は伯父・万兵衛の家に身を寄せる
  • 文化三年(一八〇六)二十歳 独立して、生家の再興に取りかかる
  • 文政元年(一八一八)三十二歳 小田原藩の家老・服部家の家政の立て直しを始める
  • 文政六年(一八二三)三十七歳 田畑も家財も売り払い、一家で下野国桜町(現在の栃木県真岡市)へ移る
  • 文政十二年(一八二九)四十三歳 成田山で断食の参籠をする
  • 天保四年・七年(一八三三・一八三六) 二度の大飢饉に対処する
  • 天保十三年(一八四二)五十六歳 幕府に召し抱えられる
  • 弘化元年(一八四四)五十八歳 日光神領の復興計画の作成を命じられる
  • 弘化三年(一八四六)六十歳 小田原藩が報徳仕法を打ち切る
  • 嘉永六年(一八五三)六十七歳 日光の仕法に着手する
  • 安政三年(一八五六)七十歳 今市(現在の栃木県日光市)の報徳役所で亡くなる

尊徳が各地で行った村や藩の立て直しの方法を「報徳仕法(ほうとくしほう)」と呼びます。仕法とは、やり方・手順のことです。その骨組みは、収入の実績から支出の上限を決める「分度(ぶんど)」と、決めた枠を超えた分を将来や他人に回す「推譲(すいじょう)」でした。

一、十四で父、十六で母 ― 本人が語った少年時代

尊徳は、自分の少年時代を多くは語っていません。『二宮翁夜話』に残るのは、次の一節くらいです。天保の飢饉の話の前置きとして出てきます。

【原文】予不幸にして、十四歳の時父に別れ、十六歳のをり母に別れ、所有の田地は、洪水の為に残らず流失し、幼年の困窮艱難実に心魂に徹し、骨髄に染み、今日猶忘るゝ事能はず、何卒して世を救ひ国を富し、憂き瀬に沈む者を助けたく思ひて、勉強せしに、斗らずも又天保両度の飢饉に遭遇せり

父を十四歳で、母を十六歳で失い、田は洪水で残らず流された。幼いころの困窮と苦しみは「心魂に徹し、骨髄に染み」、今も忘れられない。だから何とかして世を救い、国を豊かにし、つらい境遇に沈む者を助けたいと思って励んできた、と言います。

この一文で、尊徳は自分の出発点を、努力の美談としてではなく傷として語っています。晩年になっても「今日猶忘るゝ事能はず」です。そして、その傷が「憂き瀬に沈む者を助けたい」という動機にそのままつながっている。後年の仕事の性格は、ほとんどこの一文に入っています。

出典:二宮翁夜話 巻之五

よく知られた少年時代の逸話は、主に『報徳記』に拠ります。身を寄せた伯父・万兵衛の家で夜に本を読んでいると、灯油の無駄遣いだと叱られた。そこで荒地に菜種を蒔き、とれた菜種を油に換えて読書を続けた。田植えで余って捨てられた苗を拾って空き地に植え、秋に一俵の米を得た。小さなものを積めば大きなものになる、という考え(積小為大)の原体験として語られる話です。

伝記の中の話なので、細部をそのまま事実と受け取ることはできません。ただ、晩年の尊徳が菜種について語った次の言葉は、夜話に残っています。弘法大師の法力で油が湧き出る井戸がある、という話を聞いたときの返事です。

【原文】何国にても、荒地を起して菜種を蒔、其実法を得て、是を油屋に送れば、種一斗にて、油二升は急度出て、永代絶へず、

どこの国でも、荒地を起こして菜種を蒔き、その実を油屋に持っていけば、種一斗から油二升は必ず出て、永久に絶えない。奇跡は一か所にしか起きないが、こちらはどこでも誰にでもできる、と尊徳は言いました。少年の日の菜種と同じ手順を、彼は「大師の法に勝れる」奇跡として語っています。

出典:二宮翁夜話 巻之四

積小為大とは — 二宮尊徳の原文と、小事を勤めることの意味

二、自分の家を立て直し、他人の家を立て直す

二十歳で独立した金次郎は、田を少しずつ買い戻し、二十四歳ごろには一町四反余りの田畑を持つまでになりました。生家を立て直したあと、彼は小田原藩の家老・服部家に若党(下働きの武家奉公人)として入り、やがてその家の家計の立て直しを任されます。文政元年(一八一八)、三十二歳のときです。

武家の借金を、農民出身の奉公人が整理する。この仕事ぶりが藩主・大久保忠真(ただざね)の目にとまり、尊徳は藩の分家・宇津家の知行地である下野国桜町の復興を命じられます。桜町は表向き四千石の土地ですが、田畑は荒れ、人は村を離れ、名目どおりの年貢が入らなくなっていました。

ここで尊徳は、普通の役人ならしないことをしました。

三、「己が家を潰して」 ― 桜町へ

【原文】吾始て、小田原より下野の物井の陣屋に至る。己が家を潰して、四千石の興復一途に身を委ねたり。

初めて小田原から下野の物井(桜町の陣屋があった村)に赴いたとき、自分の家を潰して、四千石の復興に身を委ねた。尊徳は、せっかく立て直した自分の家の田畑も家財も売り払って、一家で桜町に移ったのです。

出典:二宮翁夜話 巻之一

もう一つ、尊徳が桜町に行った理由として挙げているのが、藩主との約束の中身です。

【原文】予が桜町仕法の委任は、心組の次第一々申立るに及ばず、年々の出納計算するに及ばず、十ヶ年の間任せ置者也とあり、是予が身を委ねて、桜町に来りし所以なり、……本藩の下附金を謝絶し、近郷富家に借用を頼まず、此四千石の地の外をば、海外と見做し、

委任の命令書には、計画をいちいち申し立てる必要はない、毎年の収支を報告する必要もない、十年間まかせる、と書かれていた。それが身を委ねて桜町に来た理由だ、と尊徳は言います。そして来てみて決めたのは、藩からの資金を断り、近くの富農からも借りず、この四千石の外は「海外」と見なすことでした。

経営の言葉にすれば、十年の全権委任を取りつけたうえで、外部資金を入れずに再建するという判断です。外から金を入れれば、立ち直ったように見えても、その土地が自分の力で回るようにはならない。桜町の仕法は、そこから始まりました。

出典:二宮翁夜話 巻之四

四、深夜と未明の見回り

とはいえ、村はすぐには変わりません。尊徳自身、着任した当時の桜町を「至惰至汚」、この上なく怠惰で荒れていたと語っています。命令しても行き渡らず、教えても聞かない土地で、彼が最初にしたことは次のようなものでした。

【原文】予昔桜町陣屋に来る、配下の村々至惰至汚、如何共すべき様なし、之に依て、予深夜或は未明、村里を巡行す、惰を戒るにあらず、朝寝を戒るにあらず、可否を問はず、勤惰を言はず、只自の勤として、寒暑風雨といへども怠らず、一二月にして、初て足音を聞て驚く者あり、又足跡を見て怪む者あり、又現に逢ふ者あり、是より相共に戒心を生じ、畏心を抱き、数月にして、夜遊博奕闘争等の如きは勿論、夫妻の間、奴僕の交、叱咤の声無きに至れり、

深夜や夜明け前に、村々を歩いて回った。怠け者を叱るためでも、朝寝を戒めるためでもない。良し悪しも言わない。ただ自分の務めとして、暑くても寒くても雨でも欠かさなかった。一、二か月すると、足音に驚く者、足跡を見て不思議がる者、実際に出くわす者が出てきた。そのうち人々は自分から身を慎むようになり、数か月後には夜遊びや博奕、けんかはもちろん、夫婦や使用人のあいだの怒鳴り声まで聞こえなくなった、と言います。

尊徳は叱っていません。見ている、ということだけを、言葉ではなく足音で伝えています。上に立つ者が何を言うかより、何を続けているかのほうが先に伝わる。この段は、その最も素朴な記録です。

出典:二宮翁夜話 巻之四

五、成田山の二十一日と、床の間の不動

それでも桜町の仕法は、何年かで行き詰まります。外から来た農民出の責任者への反発は、村の中にも、藩から派遣された役人の側にもありました。文政十二年(一八二九)、四十三歳の尊徳は突然、桜町から姿を消します。探してみると、下総の成田山新勝寺にこもって二十一日の断食をしていた、というのが伝記の伝える話です。この参籠のあと、反対していた者たちの態度が変わり、仕法は軌道に乗ったとされます。

夜話には、この件を尊徳の側から語った話は残っていません。そのかわり、のちの尊徳が床の間に不動明王の像を掛けていたわけを、門人に説明した一段があります。

【原文】予壮年、小田原侯の命を受て、野州物井に来る、人民離散土地荒蕪、如何ともすべからず、仍て功の成否に関せず、生涯此処を動かじと決定す、仮令事故出来、背に火の燃付が如きに立到るとも、決して動かじと死を以て誓ふ、……不動仏、何等の功験あるを知らずといへども、予が今日に到るは、不動心の堅固一ッにあり、

壮年のころ小田原侯の命で物井に来たが、民は離散し土地は荒れ果て、どうしようもなかった。だから成功するかどうかにかかわらず、生涯ここを動くまいと決めた。背中に火がつくような事態になっても動かないと、死を覚悟して誓った。不動尊は「動かざれば尊し」と読む。その名と、炎を背負っても動かない姿を信じて、この像を掛けて妻子に自分の意志を示してきた。不動にどんな霊験があるかは知らない。自分が今日あるのは、動かない心を固く持ったことだけによる、と言うのです。

霊験は信じていない、と本人がはっきり言っているのが面白いところです。尊徳にとって不動の像は、祈る相手ではなく、決めたことを家族に見せ続けるための掲示でした。

出典:二宮翁夜話 巻之二

六、「術はない」 ― 江川代官の問い

桜町の立て直しが知られるようになると、ほかの役人が教えを請いに来るようになります。その一人が、伊豆韮山の代官・江川英龍(ひでたつ)でした。のちに韮山の反射炉を手がけたことで知られる人物です。

【原文】江川県令問て曰、卿桜町を治る数年にして、年来の悪習一洗し、人民精励に赴き、田野開け民聚ると聞けり、感服の至り也、予、支配所の為に、心を労する事久し、然て少も効を得ず、卿如何なる術かあると、予答て曰、君には君の御威光あれば、事を為す甚安し、臣素より無能無術、然といへども、御威光にても理解にても、行れざる処の、茄子をならせ、大根を太らする事業を、慥に心得居る故、此理を法として、只勤めて怠らざるのみ、夫草野一変すれば米となる、米一変すれば飯となる、此飯には、無心の鶏犬といへ共、走り集り、尾を振れといへば尾を振り、廻れといへば廻り、吠よといへば吠ゆ、鶏犬の無心なるすら此の如し、臣只此理を推して、下に及ぼし至誠を尽せるのみ、別に術あるにはあらず、と答ふ、

あなたは桜町を治めて数年で悪習を一掃し、民は働くようになり、田は開け人が集まったと聞く。自分も支配地のために長く心を砕いてきたが、少しも効き目がない。どんな術があるのか。そう問われた尊徳は、あなたには威光があるが、自分には術がない、と答えます。ただ、威光でも理屈でも動かせないもの、つまり茄子を実らせ大根を太らせる仕事を心得ているので、その道理を手本にして怠らずに勤めるだけだ、と。

草が米になり、米が飯になれば、心のない犬や鶏でも集まってきて、言うことを聞く。だから民が集まる理由をまず作る。それ以外に術はない、というのが尊徳の答えでした。夜話によると、この後、尊徳は自分が実地で行ってきたことを六、七日にわたって江川に語ったそうです。

出典:二宮翁夜話 巻之四

七、茄子の味 ― 天保の飢饉を読む

尊徳の名を広めたのは、天保四年(一八三三)と天保七年(一八三六)の二度の大飢饉でした。

【原文】予土用前より、之を憂ひ心を用ひしに、土用に差掛り空の気色何となく秋めき、草木に触るゝ風も、何となく秋風めきたり、折節他より、新茄子到来せるを、糠味噌に付て食せしに、自然秋茄子の味あり、是に依て意を決し、其夕より、凶歳の用意に心を配り、人々を諭して、其の用意を為さしめ、其夜終夜書状を作りて諸方に使を発して、凶歳の用意一途に尽力したり、

土用の前から天候を気にかけていたが、土用に入ると空の様子も風も、どことなく秋めいてきた。ちょうど届いた初物の茄子を糠味噌に漬けて食べてみると、秋茄子の味がした。そこで意を決し、その夕方から凶作の備えに取りかかり、その夜は一晩じゅう手紙を書いて各地へ使いを出した、と言います。夜話ではこの話を二度の凶作を並べて語っていますが、真岡市の年表は、茄子で凶作を察したのを天保四年のこととしています。

備えの中身は具体的でした。空き地や荒地を起こし、木綿の畑までつぶして、蕎麦や大根など早くとれる食料を蒔かせる。売りに出ている穀物は何でも買い入れる。真岡の周辺は木綿の産地で、畑をつぶされることに不満を言う農民も多かったため、見本としていくつかの木綿畑を残しておいたところ、その年は綿の実が一つも結ばず、秋になってようやく尊徳の言うことを信じた、と夜話は伝えています。

【原文】其木綿畑を潰して、蕎麦を蒔替るを愚民殊の外歎く者あり、又苦情を鳴す者あり、仍て愚民明らめのため、所々に一畝づゝ、尤出来方の宜敷木綿畑を残し置たるに、綿実一ッも結ばず、秋に至て初て予が説を信じたりと聞けり、

出典:二宮翁夜話 巻之五

茄子の話は勘の話に見えますが、尊徳はその前から備えていました。天保三年には、桜町の畑の年貢を免除する代わりに、一町につき二反の割で稗(ひえ)を蒔かせています。

【原文】翁天保三年桜町陣屋下の畑租を免じ、壹町歩に付貳反歩づゝの割を以て稗を蒔かせ、常の囲とせられしに、翌四年違作にて積置くまでもなく用に立ち、又同六年同じく稗を蒔かせたるに、翌七年大凶荒なりき。

翌年の凶作で、その稗は蓄える間もなく役に立った。天保六年にも同じことをさせたら、翌七年が大凶作だった。門人はこれを「その先知神の如し」と書いていますが、実態は、凶作が来ると決めつけて毎年の備えを制度に組み込んだということです。天保七年の暮れには、桜町の村々で一人五俵ずつを家ごとに残させ、それ以上は高値のうちに売らせ、足りない家の分は郷蔵に積んで、残りを烏山領など他領の救済に回しました(巻之五)。

出典:二宮翁夜話 続篇

八、弁当を後にせよ ― 小田原と御厨の救済

天保七年の飢饉は、小田原藩の領地、とくに富士山麓の駿河国駿東郡でひどいものになりました。藩主は江戸で尊徳に救済を命じ、米と金は小田原の家老から受け取るように、と言います。夜話はそのときの様子を、門人の目で伝えています。

【原文】翁曰、飢民今死に迫れり、之を救ふべきの議、未決せず、然るに弁当を先にして、此至急の議を後にするは、公議を後にして、私を先にするなり、今日の事は、平常の事と違ひ、数万の民命に関する重大の件なり、先此議を決して後に弁当は食すべし、此議決せずんば、縦令夜に入るとも、弁当は用ふる事勿れ、

尊徳は夜通し歩いて小田原に着き、米と金を求めましたが、家老たちの評議はまとまらず、昼になると皆で弁当を食べてから続きを議論しようということになった。尊徳は言います。飢えた民は今まさに死にかけている。それを救う議がまだ決まっていないのに、弁当を先にするのは、公を後にして私を先にすることだ。この議が決まらないなら、夜になっても弁当は食べないでいただきたい。

家老たちは食事を止めて議論し、蔵を開くことが決まりました。ところが今度は蔵奉行が、蔵を開く日は月に六回と決まっていて、それ以外に開いた例はない、と言って開かない。弁当の一件を聞いて、ようやく蔵は開いたそうです。

出典:二宮翁夜話 巻之五

その後、尊徳は駿東郡の御厨(みくりや)郷で、飢えた人々に無利息十年賦の金を貸し、返せない人の分は、村の他の人々が乞食に施すつもりで毎日わずかな銭を出し合って補う、という仕組みを作ります。夜話はその結末を、数字で締めくくっています。

【原文】此時小田原領のみにして、救助せし人員を、村々より書上げたる処、四万三百九十余人なりき。

このとき小田原領だけで救った人数は、村々からの報告で四万三百九十余人だった。同じ年、下野国の烏山藩では、働けない老人や子ども、病人ら千余人を寺や仮小屋に収容して一人一日白米一合ずつを出し、働ける者には鍬と賃金を渡して荒田を起こさせ、ひと春で五十八町九反の田に苗を植えさせています(巻之五)。

出典:二宮翁夜話 巻之五

九、「先君の命に依て開き、当君の命に依て畳む」

ここまでの尊徳は、藩主・大久保忠真の信頼に支えられていました。その忠真は天保八年(一八三七)に亡くなります。後ろ盾を失った小田原藩の中では、農民出身の尊徳のやり方への反発が強まり、弘化三年(一八四六)、藩は報徳仕法を打ち切ります。

打ち切りを嘆いて、手作りの芋を持って訪ねてきた領民に、尊徳はこう諭しました。

【原文】夫小田原の仕法は、先君の命に依て開き、当君の命に依て畳む、皆是までなり、……汝等早く帰りて芋種を囲ひ置、来陽春暖を待て又植弘むべし、決して心得違ひする事なかれ、

小田原の仕法は、先の殿様の命令で始まり、今の殿様の命令で終わる。それまでのことだ。お前たちは早く帰って芋の種を土に埋めて囲っておき、春の暖かさを待って、また植え広げよ。決して心得違いをしてはならない。

この段の前半で、尊徳は冬に芋を植えても凍って種まで失うだけだ、と言っています。道が行われるか行われないかは天のことで、人の力ではどうにもならない。そういうときは、才智も弁舌も勇気も役に立たない。種を埋めておくしかない。長年かけてきた仕事を打ち切られた人の言葉として、恨み言が一つもないのが印象に残ります。

出典:二宮翁夜話 巻之二

十、幕臣として ― 印旛沼、相馬、そして日光

小田原藩で退けられる少し前、天保十三年(一八四二)、尊徳は幕府に召し抱えられていました。最初の仕事の一つが、下総の印旛沼(いんばぬま)の開発計画の調査です。

【原文】予印旛沼を見分する時も、仕上げ見分をも、一度にせんと云て、如何なる異変にても、失敗なき方法を工夫せり、……相馬侯、興国の方法依頼の時も、着手より以前に百八十年の収納を調べて、分度の基礎を立たり、

事を始めるなら、まず終わりを詳しく決めておけ。木を伐るなら、伐る前に倒れる先を決めておけ。尊徳はそう言って、印旛沼の見分でも仕上げの検分まで一度に済ませるつもりで、どんな異変があっても失敗しない方法を考えた、と語ります。陸奥の相馬中村藩から立て直しを頼まれたときは、着手する前に百八十年分の収納の記録を調べて、分度の土台を立てました。尊徳の提案は、印旛沼では結局採用されませんでしたが、相馬藩では報徳仕法が長く続きます。

出典:二宮翁夜話 巻之四

最後の大仕事が、日光東照宮の神領の復興です。弘化元年(一八四四)に計画の作成を命じられ、弘化三年に六十冊の「雛形」を献上しました。実際に着手できたのは嘉永六年(一八五三)、六十七歳のときです。夜話には、尊徳がその帳簿の山を指して門人に語った言葉が残っています。

【原文】翁、日光御神領の興復法の取調帳数十巻を指して曰、夫れ此興復法、計算は独り日光のみにはあらず、国家興復の計算なり。……決して此帳を計算と見る事勿れ、夫れ数は免るゝ事能はず、此数理によりて道理を悟るべし、是悟道の捷径なり。

この復興の計算は日光だけのものではない、国家を立て直す計算だ。この帳簿を計算帳と見てはいけない。数は逃れられないものだから、この数の理から道理を悟れ。それが悟りへの近道だ、と尊徳は言います。

朝早く起きたおかげで麦が多くとれ、麦がとれたおかげで田を多く作り、田を作ったおかげで馬が買え……という連鎖を、尊徳は八十年分の計算で示しました。富む家が貧しくなるのも同じ道理です。理屈で説けば異論が出るが、算術で示せばどんな悟った人も論者も一言もない。尊徳が最後まで頼ったのは、弁舌ではなく帳簿でした。

出典:二宮翁夜話 続篇

日光の仕法が動き出して三年後、安政三年(一八五六)十月二十日、尊徳は今市の報徳役所で亡くなりました。七十歳でした。

十一、金次郎像はいつ生まれたか

最後に、冒頭の像の話に戻ります。

薪を背負って本を読む姿の、文章の上での出どころは『報徳記』です。富田高慶は、少年の金次郎が薪を採りに行く行き帰りにも『大学』を懐に入れ、歩きながら誦して少しも怠らなかった、と書きました。この伝記は尊徳の没年に書き上げられ、明治十六年(一八八三)に宮内省から刊行されて広く読まれるようになります。「誦す」は声に出して唱えることなので、本を開いて読んでいたというより、暗誦していたと読むほうが自然だという指摘もあります。

この一節がになったのは、明治二十四年(一八九一)、幸田露伴が少年向けに書いた伝記『二宮尊徳翁』の挿絵が最初とされます。描いたのは狩野派の流れをくむ画家・小林永興(えいこう)でした。この図の手本については説が分かれます。狩野派が昔から描いてきた、中国・漢代の朱買臣(しゅばいしん)が薪を背負って書を読む図を参考にしたという説。国際日本文化研究センターの井上章一氏が推測した、ジョン・バンヤン『天路歴程』の挿絵の影響という説。どちらも確かな証拠があるわけではありません。

像になったのは、さらに後です。確認されている最初の像は、明治四十三年(一九一〇)に彫刻家の岡崎雪聲(せっせい)が出品したものとされます。売薬の版画や子ども向けの伝記で図柄が広まり、昭和の初めにかけて小学校に次々と置かれていきました。その銅像のほとんどは、第二次世界大戦中の金属供出で取り外されています。今残っている像の多くが石やコンクリートなのは、そのためです。

本人の言葉と並べてみると、ずれが見えてきます。夜話で尊徳が少年時代を振り返った言葉は、第一節で引いた「心魂に徹し、骨髄に染み」でした。そこに本の話は出てきません。像の少年は勤勉の手本として描かれましたが、本人にとっての少年時代は、何よりも困窮の記憶であり、その記憶が「憂き瀬に沈む者を助けたい」という一生の動機になっていました。

結び ― 「かりの身を元のあるじに貸渡し」

尊徳の生涯を一本の線で引くと、自分の家を立て直し、他人の家を立て直し、村を立て直し、藩を立て直し、最後は幕府の神領の帳簿の前で死んだ、ということになります。その途中で、せっかく立て直した自分の家を、桜町へ移るときに手放しています。

第三節で引いた「己が家を潰して」の一段には、続きがあります。尊徳はそこで、自分の歌を一首引いています。

【原文】予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」。……このかりの身を我身と思はず、生涯一途に世のため人のためのみを思ひ、国のため天下の為に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道橋整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫れのみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我此身である、といふ心にてよめるなり。是我畢生の覚悟なり。

この身は天から借りた仮の身だから、元の持ち主である天に貸し渡して、民が安らかであれと願うのがこの身だ。自分の身を自分のものと思わず、一生をかけて世のため人のためだけを思い、一人でも一家でも一村でも困窮を免れて暮らせるようにと、それだけを日々の勤めとする。これが一生の覚悟だ、と。

洪水で田を失った少年は、その傷を忘れませんでした。忘れなかったから、他人の傷に手を貸す一生になった。尊徳の言葉を並べると、美談よりも、帳簿と足音と茄子の味と、恨み言のない撤退の記録が残ります。

出典:二宮翁夜話 巻之一

関連する章句と記事

この記事で引いた話は、いずれも師導に原文・現代語訳と解説つきで収録しています。『二宮翁夜話』は全五巻と続篇の二百八十一話を通して読めます。

二宮翁夜話の章句一覧

尊徳が何を読み、どう読んだのか。「道徳なき経済は犯罪」は本人の言葉なのか。こちらの記事で扱いました。

二宮尊徳の愛読書 ― 「道徳なき経済は犯罪」は本人の言葉ではない。では何と言ったか
積小為大とは — 二宮尊徳の原文と、小事を勤めることの意味

自分の書や、弟子の書き留めた言葉に人生が残っている著者たちの記事もあります。

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石田梅岩の生涯 ― 農家の次男が四十五歳で開いた「席銭入り申さず」の講席

この記事の出典について

原文は、師導が収録する『二宮翁夜話』(福住正兄 筆録)から切り出して引用しています。仮名遣いは底本のままです。各節末のリンクから、その話の全文・現代語訳・解説をご覧いただけます。『二宮翁夜話』は尊徳の言葉を門人が書き留めたもので、尊徳自身の著作ではありません。

年表と年齢(数え年)は、真岡市公式ホームページの「二宮尊徳年表」に拠りました。伯父の家での菜種と油の話、捨て苗の話、成田山での二十一日の断食、薪を背負って『大学』を誦した話は、門人・富田高慶の『報徳記』などの伝記に拠るもので、本記事ではそう書き添えました。小田原藩の仕法打ち切りの年は弘化三年とする記述に従いました。

金次郎像の成り立ち(露伴『二宮尊徳翁』の挿絵、明治四十三年の岡崎雪聲の像、金属供出)は、一般に参照される資料と、八木書店「日本古書通信」編集長の記事に拠りました。図の手本についての朱買臣図説と『天路歴程』説は、いずれも推測の域を出ないものとして紹介しています。