二宮翁夜話 / 巻之四
翁曰、江川県令問て曰、卿桜町を治る数年にして、年来の悪習一洗し、人民精励に赴き、田野開け民聚ると聞けり、感服の至り也、予、支配所の為に、心を労する事久し、然て少も効を得ず、卿如何なる術かあると、予答て曰、君には君の御威光あれば、事を為す甚安し、臣素より無能無術、然といへども、御威光にても理解にても、行れざる処の、茄子をならせ、大根を太らする事業を、慥に心得居る故、此理を法として、只勤めて怠らざるのみ、夫草野一変すれば米となる、米一変すれば飯となる、此飯には、無心の鶏犬といへ共、走り集り、尾を振れといへば尾を振り、廻れといへば廻り、吠よといへば吠ゆ、鶏犬の無心なるすら此の如し、臣只此理を推して、下に及ぼし至誠を尽せるのみ、別に術あるにはあらず、と答ふ、是より予が年来実地に執行ひし事を談話する事六七日なり、能倦まずして聴れたり、定めて支配所の為に、尽されたるなるべし。
書き下し
翁曰く、江川県令(けんれい)問いて曰く、卿(けい)桜町を治むる数年にして、年来の悪習一洗(いっせん)し、人民精励に赴(おもむ)き、田野開け民聚(あつま)ると聞けり、感服の至りなり、予、支配所の為に、心を労(ろう)する事久し、然(しか)して少(すこ)しも効(しるし)を得ず、卿如何(いか)なる術(じゅつ)かあると、予答えて曰く、君には君の御威光(ごいこう)あれば、事を為す甚(はなは)だ安し、臣(しん)素(もと)より無能無術、然(しか)りといえども、御威光にても理解にても、行われざる処の、茄子(なす)をならせ、大根を太(ふと)らする事業を、慥(たしか)に心得居る故、此の理を法として、只勤めて怠らざるのみ、夫(それ)草野(そうや)一変すれば米となる、米一変すれば飯となる、此の飯には、無心の鶏犬(けいけん)といえども、走り集り、尾を振れといえば尾を振り、廻れといえば廻り、吠(ほ)えよといえば吠ゆ、鶏犬の無心なるすら此の如し、臣只此の理を推(お)して、下に及ぼし至誠を尽せるのみ、別に術あるにはあらず、と答う、是より予が年来実地に執(と)り行いし事を談話する事六七日なり、能(よ)く倦(う)まずして聴かれたり、定めて支配所の為に、尽されたるなるべし。
現代語訳
翁が言われた。江川県令(韮山代官)が尋ねて言った。「あなたは桜町を治めて数年で、長年の悪習を洗い流し、人民は精を出すようになり、田野は開け民が集まったと聞いた。まことに感服の至りだ。私も支配地のために心を砕くこと久しいが、少しも効き目がない。あなたにはどんな術があるのか」。私はこう答えた。「あなたにはあなたのご威光がありますから、事を為すのは実にたやすい。私はもともと無能で術もありません。けれども、ご威光でも理屈でも実現できない、茄子を実らせ大根を太らせる仕事を、確かに心得ております。ですからこの道理を手本として、ただ努めて怠らないだけです。そもそも草原も一変すれば米となり、米も一変すれば飯となる。この飯には、無心の鶏や犬でさえ走り集まり、尾を振れといえば尾を振り、廻れといえば廻り、吠えろといえば吠える。心を持たない鶏犬でさえこうです。私はただこの道理を推し広げて民に及ぼし、至誠を尽くしているだけです。別に術があるわけではありません」と答えた。これから私が長年実地に行ってきたことを語り合うこと六、七日に及んだ。県令はよく飽きずに聴いてくれた。きっと支配地のために尽くされたことだろう。