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二宮翁夜話 / 巻之二

小田原藩にて報徳仕法の儀は、良法には相違無しといへども、故障の次第有て、今般畳置くと云布達出づ、領民の内、是を憂ひて、翁の許に来り歎く者あり、手作の芋を持来て呈せり、翁諭して曰、夫此芋の如きは、口腹を養ひ、必用の美菜なれば、是を弘く植て、其実法りを施さんと願ふは尤なれども、天運冬に向ひ、雪霜降り、地の氷るを如何せん、強て植なば凍に損じ霜に痛み、種をも失ふに至るべし、是非もなき事なり、是人の口腹を養ふ徳ある美物なるが故に、寒気雪霜を凌ぐ力なし、食料にもならざる麁物は、却て寒気雪霜にも、痛まぬ物なり、是自然の勢、如何とも仕方なし、今日は寒気雪中なり、早く芋種は土中に埋め、藁にて囲ひ、深く納めて、来陽雪霜の消るを待べし、山谷原野一円、雪降り水氷り寒威烈しき時は、最早是切り暖には成らぬかと思ふ様なれども、雪消え氷解けて、草木の芽ばる時も又必あるべし、其時に至て囲ひ置し芋種を取出し、植る時は忽其種田甫に満て、繁茂する疑ひなし、かゝる春陽に逢ふとも種を納め囲はざれば、植殖す事あたはず、夫農事は春陽立帰り、草木芽立んとするを見て種を植ゑ、秋風吹すさみ草木枯落する時は、未雪霜の降らざるに、芋種は土中に埋めて、此処に埋ると云、心覚えをし、深く隠して来陽を待べし、道の行るる行れざるは天なり、人力を以て如何とも為し難し、此時に至ては、才智も益なし、弁舌も益なし、勇あるも又益なし、芋種を土中に埋るにしかず、夫小田原の仕法は、先君の命に依て開き、当君の命に依て畳む、皆是までなり、凡天地間の万物の生滅する、皆天地の令命による、私に生滅するにはあらず、春風に万物生じ、秋風に枯落する、皆天地の命令なり、豈私ならんや、曾子死に臨んで、予が手を開け、予が足を開け云々、と云り、予も又然り、予が日記を見よ、予が書翰留を見よ、戦々競々深淵に臨むが如く、薄氷を蹈が如し、畳置に成て予免るゝ事を知る哉と云べし、汝等早く帰りて芋種を囲ひ置、来陽春暖を待て又植弘むべし、決して心得違ひする事なかれ、慎めや慎めや

新字:小田原藩にて報徳仕法の儀は、良法には相違無しといへども、故障の次第有て、今般畳置くと云布達出づ、領民の内、是を憂ひて、翁の許に来り歎く者あり、手作の芋を持来て呈せり、翁諭して曰、夫此芋の如きは、口腹を養ひ、必用の美菜なれば、是を弘く植て、其実法りを施さんと願ふは尤なれども、天運冬に向ひ、雪霜降り、地の氷るを如何せん、強て植なば凍に損じ霜に痛み、種をも失ふに至るべし、是非もなき事なり、是人の口腹を養ふ徳ある美物なるが故に、寒気雪霜を凌ぐ力なし、食料にもならざる麁物は、却て寒気雪霜にも、痛まぬ物なり、是自然の勢、如何とも仕方なし、今日は寒気雪中なり、早く芋種は土中に埋め、藁にて囲ひ、深く納めて、来陽雪霜の消るを待べし、山谷原野一円、雪降り水氷り寒威烈しき時は、最早是切り暖には成らぬかと思ふ様なれども、雪消え氷解けて、草木の芽ばる時も又必あるべし、其時に至て囲ひ置し芋種を取出し、植る時は忽其種田甫に満て、繁茂する疑ひなし、かゝる春陽に逢ふとも種を納め囲はざれば、植殖す事あたはず、夫農事は春陽立帰り、草木芽立んとするを見て種を植ゑ、秋風吹すさみ草木枯落する時は、未雪霜の降らざるに、芋種は土中に埋めて、此処に埋ると云、心覚えをし、深く隠して来陽を待べし、道の行るる行れざるは天なり、人力を以て如何とも為し難し、此時に至ては、才智も益なし、弁舌も益なし、勇あるも又益なし、芋種を土中に埋るにしかず、夫小田原の仕法は、先君の命に依て開き、当君の命に依て畳む、皆是までなり、凡天地間の万物の生滅する、皆天地の令命による、私に生滅するにはあらず、春風に万物生じ、秋風に枯落する、皆天地の命令なり、豈私ならんや、曽子死に臨んで、予が手を開け、予が足を開け云々、と云り、予も又然り、予が日記を見よ、予が書翰留を見よ、戦々競々深淵に臨むが如く、薄氷を蹈が如し、畳置に成て予免るゝ事を知る哉と云べし、汝等早く帰りて芋種を囲ひ置、来陽春暖を待て又植弘むべし、決して心得違ひする事なかれ、慎めや慎めや

書き下し

小田原藩にて報徳仕法の儀は、良法には相違無しといへども、故障(こしょう)の次第有て、今般畳置(たたみお)くと云布達(ふたつ)出づ、領民の内、是を憂(うれ)ひて、翁(おきな)の許(もと)に来り歎(なげ)く者あり、手作の芋(いも)を持来て呈せり、翁諭(さと)して曰く、夫(それ)此芋の如きは、口腹を養ひ、必用の美菜なれば、是を弘(ひろ)く植(うえ)て、其実法(みの)りを施(ほどこ)さんと願ふは尤(もっとも)なれども、天運冬に向ひ、雪霜降り、地の氷るを如何せん、強(し)て植なば凍(いて)に損じ霜に痛み、種をも失ふに至るべし、是非もなき事なり、是人の口腹を養ふ徳ある美物なるが故に、寒気雪霜を凌(しの)ぐ力なし、食料にもならざる麁物(そぶつ)は、却(かえ)て寒気雪霜にも、痛(いた)まぬ物なり、是自然の勢(いきおい)、如何とも仕方なし、今日は寒気雪中なり、早く芋種(いもたね)は土中に埋め、藁(わら)にて囲(かこ)ひ、深く納めて、来陽(らいよう)雪霜の消(きゆ)るを待べし、山谷原野一円、雪降り水氷り寒威(かんい)烈(はげ)しき時は、最早(もはや)是切り暖(あたたか)には成らぬかと思ふ様なれども、雪消え氷解けて、草木の芽(め)ばる時も又必あるべし、其時に至て囲ひ置し芋種を取出し、植る時は忽(たちま)ち其種田甫(でんぽ)に満て、繁茂(はんも)する疑(うたが)ひなし、かゝる春陽に逢(あ)ふとも種を納め囲はざれば、植殖(うえふや)す事あたはず、夫農事は春陽立帰(たちかえ)り、草木芽立(めだ)たんとするを見て種を植ゑ、秋風吹(ふき)すさみ草木枯落(こらく)する時は、未(いま)だ雪霜の降らざるに、芋種は土中に埋めて、此処に埋ると云、心覚(こころおぼ)えをし、深く隠(かく)して来陽を待べし、道の行るる行れざるは天なり、人力を以て如何とも為し難し、此時に至ては、才智も益(えき)なし、弁舌も益なし、勇あるも又益なし、芋種を土中に埋るにしかず、夫小田原の仕法は、先君の命に依て開き、当君の命に依て畳(たた)む、皆是までなり、凡(およ)そ天地間の万物の生滅する、皆天地の令命による、私(わたくし)に生滅するにはあらず、春風に万物生じ、秋風に枯落する、皆天地の命令なり、豈(あに)私ならんや、曾子死に臨(のぞ)んで、予が手を開け、予が足を開け云々、と云り、予も又然り、予が日記を見よ、予が書翰留(しょかんどめ)を見よ、戦々競々(せんせんきょうきょう)深淵(しんえん)に臨むが如く、薄氷を蹈(ふ)むが如し、畳置に成て予免(まぬか)るゝ事を知る哉(かな)と云べし、汝等早く帰りて芋種を囲ひ置き、来陽春暖を待て又植弘(うえひろ)むべし、決して心得違ひする事なかれ、慎(つつし)めや慎めや

現代語訳

小田原藩で報徳仕法について、良法には違いないが差し障る事情があって、このたび中止するというお達しが出た。領民の中にこれを憂えて翁のもとに来て嘆く者がいた。自作の芋を持って来て差し出した。翁が諭して言われた。この芋のようなものは人の腹を養う大切な美味な菜だから、これを広く植えてその実りを施したいと願うのはもっともだ。しかし天運は冬に向かい、雪霜が降り、地が凍るのをどうしようもない。無理に植えれば凍って傷み霜に痛んで、種まで失うことになろう。やむを得ないことだ。これは人の腹を養う徳のある美味なものだからこそ、寒気や雪霜を凌ぐ力がない。食料にもならない粗末なものは、かえって寒気や雪霜にも傷まないものだ。これは自然の勢いで、どうしようもない。今日は寒気の雪中である。早く芋の種は土中に埋め、藁で囲い、深く納めて、来春の雪霜が消えるのを待つがよい。山も谷も野原も一面、雪が降り水が凍り寒さが激しいときは、もうこれきり暖かくはならないかと思うようだが、雪が消え氷が解けて草木が芽ぐむ時も必ずある。その時になって囲っておいた芋の種を取り出して植えれば、たちまちその種は田畑に満ちて繁茂すること疑いない。こうした春の陽気に逢っても、種を納め囲っておかなければ植え殖やすことはできない。そもそも農事は、春の陽気が立ち帰り草木が芽立とうとするのを見て種を植え、秋風が吹きすさび草木が枯れ落ちる時は、まだ雪霜が降らぬうちに芋の種を土中に埋めて「ここに埋めた」と覚え書きし、深く隠して来春を待つものだ。道が行われるか行われないかは天による。人力ではどうにもしがたい。この時に至っては、才智も役に立たず、弁舌も役に立たず、勇気もまた役に立たない。芋の種を土中に埋めるに越したことはない。そもそも小田原の仕法は、先君の命によって開き、今の君の命によって畳む。皆これまでだ。およそ天地間の万物が生じ滅するのは、皆天地の命令による。勝手に生滅するのではない。春風に万物が生じ、秋風に枯れ落ちるのは、皆天地の命令である。どうして勝手であろうか。曾子は死に臨んで「私の手を開け、私の足を開け」と言った。私もまた同じだ。私の日記を見よ、私の書簡の控えを見よ。戦々恐々として深い淵に臨むよう、薄氷を踏むようであった。仕法が中止になって、私はやっと免れることを知ったと言うべきだ。お前たちは早く帰って芋の種を囲っておき、来春の暖かさを待ってまた植え広めるがよい。決して心得違いをしてはならない。慎め、慎め。

解説

報徳仕法の中止令に嘆く領民を、尊徳は芋の種の寓話で諭します。人を養う徳ある芋ほど寒さに弱く、冬に無理に植えれば種まで失う。だから今は土中に埋め藁で囲い、春を待てというのです。道が行われるか否かは天の時によるもので、逆境には才智も弁舌も勇気も役に立たず、ただ来春に備えて種を守ることが肝要だと説きます。天地の万物が春に生じ秋に枯れるのが天命であるように、仕法の開始も中止も天の命であり私意ではない――尊徳自身、常に薄氷を踏む思いで務めてきたと明かします。逆境をあがいて損なうのでなく、時を待って力を蓄える。この「時中」の知恵と、必ず来る春を信じて種を守る積小為大の姿勢は、うまくいかない時期をどう過ごすかに悩む現代人に、静かな励ましを与えてくれます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳天命時を待つ積小為大分度

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