石田梅岩(いしだ ばいがん)は、江戸時代の中ごろ、京都で「商人の道」を説いた人です。商いで得る利益を、武士の禄(給料)と同じ正当なものだと言い切り、その教えは門人たちによって「石門心学(せきもんしんがく)」として全国に広がりました。
その思想の中身は、別の記事でくわしく扱っています。この記事で見ていくのは、梅岩がどう生きたかです。
→ 石田梅岩とは — 石門心学と都鄙問答、商人の道を説いた思想家
梅岩の生涯には、よく知られた筋書きがあります。農家に生まれ、商家で長く奉公し、四十代で学問に目覚め、無料の講席を開いた。間違いではありません。ただ、その一行一行の中身は、思いのほか地味で、そして粘り強いものでした。
手がかりは二つあります。一つは、梅岩の主著『都鄙問答(とひもんどう)』です。問答の形をとった本なので、梅岩が自分の経歴を語る場面がところどころに出てきます。もう一つは『石田先生事蹟(いしだせんせいじせき)』。梅岩の死後、明和六年(一七六九)に門人たちがまとめた言行録で、ふだんの暮らしぶりまで細かく書き留めています。以下、この二つを軸に、後世の通説と食い違うところはそう断りながらたどります。
石田梅岩とはどんな人か ― 先に年表で
| 年 | 年齢(数え) | できごと |
|---|---|---|
| 貞享2年(1685) | 1 | 丹波国桑田郡東懸村(いまの京都府亀岡市)の農家に生まれる。名は興長、通称は勘平 |
| 宝永4年(1707) | 23 | 京都へ出て商家に奉公(通説では呉服商の黒柳家) |
| 享保元年(1716) | 32 | 父が亡くなる |
| 享保11〜12年ごろ | 42〜43 | 奉公を退く |
| 享保14年(1729) | 45 | 京都・車屋町の自宅で講席を開く。同じ年に師の小栗了雲が亡くなる |
| 元文元年(1736) | 52 | 母が亡くなる |
| 元文4年(1739) | 55 | 『都鄙問答』を刊行 |
| 延享元年(1744) | 60 | 『斉家論』を刊行。九月二十四日に自宅で亡くなる |
年齢は、ことわりのない限り『石田先生事蹟』の記述によります。
一、栗を返しに行った少年 ― 丹波の農家の次男
梅岩は貞享二年(一六八五)九月十五日、丹波の山あいの村に生まれました。事蹟は、父の名を浄心と記し、梅岩の人柄を「正道にして」と書いたうえで、父の育て方を示す逸話を一つだけ挙げています。
十歳ばかりのころ、梅岩は父の山で栗を五つ六つ拾って帰り、昼飯の席で父に見せました。どこにあったかと聞かれて、父の山とよその山の境だと答えると、父は言いました。うちの山の栗の木は、枝が境までかかっていない。よその山の栗の枝が、うちの境にかかっている。これはよその栗だ——。そして昼飯を食べ終えるのも許さず、すぐ元の場所へ返しに行かせた、と事蹟は伝えます(石田先生事蹟)。
たかが栗数個です。けれども、自分の物と他人の物の境目を、情ではなく事実で見分けるという感覚は、のちに梅岩が商人に説いた「二重の利を取らない」という戒めと、まっすぐにつながっています。
梅岩はのちに、自分の出自をこう語っています。武士の心得を問われた場面の書き出しです。
【書き下し】我農圃に生まれ、武の事委しからずといへども、書物にて見たる上を以て告ぐべし。
「農圃(のうほ)」は田畑のこと。武家の出でも学者の家の出でもない、というのが、梅岩が自分について最初に置く前提でした。
二、二度の奉公 ― 二十三歳からやり直した丁稚
後世の伝記や解説の多くは、梅岩が少年のうちに一度、京都の商家へ奉公に出て、そこが傾いたため郷里へ戻った、と書いています。奉公に出た年齢は八歳とするものと十一歳とするものがあり、戻った時期の書き方も資料によって違います。事蹟はこの最初の奉公に触れておらず、話は二十三歳の上京から始まります。
事蹟によれば、梅岩は二十三歳で京都へ出て、上京(かみぎょう)の商人の家に奉公しました。奉公先の名を事蹟は「何某(なにがし)」とだけ書いていますが、通説では呉服商の黒柳家です。ふつう十歳前後で入る丁稚の暮らしを、二十代でやり直したことになります。
この奉公時代について、事蹟は具体的な場面をいくつも残しています。
- はじめは神道に心を寄せ、聞く人がいなければ鈴を振って町々を回ってでも「人の人たる道」を勧めたい、と願っていた
- 商いで下京へ出るときも書物を懐に入れ、朝は同僚が起きる前に二階の窓辺で、夜はみなが寝静まってから本を読んだ。それでいて主人の用事を欠かすことはなかった
- 店で上の立場になってからも、冬の夜は暖かい寝場所を人に譲って自分は店の端近くで寝、夏の夜は寝相の悪い小者の布団を何度も起きて掛け直して回った
- 縮緬(ちりめん)の羽織を着ているのを主人の母にとがめられたときは、持っているのはこの一枚だけで、売って買い替えれば費えになるので、あるものを着ていると答えた。主人の母は、それなら絹の羽織と同じだ、と許した
最後の話には続きがあります。この家は本願寺の門徒で、奉公人まで寺参りをさせていましたが、梅岩はあまり参らず、主人の母にまで神道を勧めていました。古参の手代がそれを告げ口すると、主人の母は、勘平が神道を学ぶのは志が格別だからだ、放っておけ、と答えたといいます。のちにこの人は病の床で、長生きして勘平の行く末を見たかった、と言い残したと事蹟は書いています(石田先生事蹟)。
同じころ、学問の目的を同僚に問われた梅岩は、博識になりたいのではない、昔の聖賢の行いを学んで人の手本になりたいのだ、と答えています。
三、「四十余の比より此の道に志す」 ― 師を探し歩いた年月
事蹟によれば、梅岩は三十五、六歳のころまで、自分は人の本性(性)を分かっていると思っていました。ところがあるとき、その分かったはずのものに疑いが起こります。それを正そうとあちこちに師を求めましたが、師とすべき人が見つからないまま年月が過ぎました。
梅岩自身は、『都鄙問答』のなかでこの時期をこう語っています。
【書き下し】愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。
民間に生まれ、家が貧しくて学ぶ暇がなかった。四十を過ぎてからこの道を志したのだから、文章の学問にまで手が届くはずがない——。詩文が書けないことを学者に笑われた梅岩の、半ば開き直った返答です。事蹟の年齢とは数年のずれがありますが、本人の実感としては「四十を過ぎてから」だったのでしょう。
四、「卵を以て大石に当たるが如し」 ― 小栗了雲との出会い
師を探し歩いた末に出会ったのが、小栗了雲(おぐり りょううん)です。事蹟の付録によれば、もとはある大名家の重臣(大夫)で、わけあって職を辞し、京都に隠れ住んでいた人でした。性理の学(人の本性と天の理を論じる学問)を究め、仏教と老荘にも通じていたといいます。梅岩はこの出会いを、『都鄙問答』でこう語っています。
【書き下し】我何方を師家とも定めず、一年或いは半季、聞き巡るといへども、我が初心と愚昧の病より、此ぞと心定まらず、心に合へる所もなく、年月これを歎きしに、或る所に隠遁の学者あり。此の人に出会ひ、物語の上、心の沙汰に及びし所、一言の上にて、先には早速聞き取りて、汝は心を知りたりと思ふらめど、未だ知らず。学びし所雲泥の違ひあり。心を知らずして、聖人の書を見るならば、毫釐の差、千里の謬りと成るべしと云へり。
どの先生にもつかず、一年、半年と講釈を聞いて回ったが心が定まらなかった。そこへ、隠遁している学者に出会った。話が心のことに及ぶと、相手はひと言で見抜いて、あなたは心を知ったつもりでまだ知らない、と言った——。梅岩は、自分の言うことが伝わっていないだけだと思って何度も議論しますが、相手はうなずきません。やがて、何のために学問をするのかと問われ、人々に五倫五常の道を教えたいからだと答えると、了雲は、心を知らない者が人を導こうというのは宿なしが人を泊めようとするようなものだ、と返します。
【書き下し】我見識を云はんとすれども、卵を以て大石に当たるが如し。言句吐くこと能はず。此に於いて茫然として疑ひを生ず。実に得たることは疑ひなき者なり。然るに疑ひの発るは、いまだ得ざると決定し、夫より他事心に入らず、明け暮れ如何如何と心を尽くし身も労し、日を過ごすこと一年半計りなり。……折節愚母病気に附き、二十日余り看病せしに、其の坐を立ち出でけるが、其の時忽然として疑ひ晴れ、煙を風の散らすよりも早し。……人は孝悌忠信、此の外子細なきことを会得して、二十年来の疑ひを解く。これ文字のする所にあらず、脩行のする所なり。
言い返そうとしても、卵を大石にぶつけるようで言葉が出ない。本当に分かっていれば疑いは起こらないはずだ、疑いが起こるのはまだ分かっていないからだ、と腹をくくり、明けても暮れても考え続けて一年半。母の看病のため郷里に戻っていたとき、座を立ったその瞬間に、疑いが煙のように晴れた、と梅岩は言います。
事蹟はこの場面を、正月上旬、梅岩四十歳ばかりのことと記しています。そして話には続きがあります。京都へ戻って了雲に報告すると、了雲は、それはまだ全体の一部を見ただけだ、お前には「自分の性は天地万物の親だ」と見ている目が残っている、その目をもう一度離れてこい、と言いました。梅岩はさらに一年余り寝食を忘れて工夫を続け、ある夜明け、裏の森で鳴く雀の声を聞いたときに、その目を離れた、と事蹟は伝えています(石田先生事蹟)。
了雲が亡くなるときの話も、事蹟に残っています。自分が注をつけた書物を譲ろうとした了雲に、梅岩は、いりません、と答えました。なぜかと問われて、私は事に当たったら新しく述べます、と。了雲はこれを大いに褒めたといいます。了雲の没年は享保十四年(一七二九)十月です。
なお、了雲との出会いを享保十二年(一七二七)とする年譜も多く見られます。事蹟の記述どおりに数えると四十歳より前になり、ここは資料によってずれがあります。
五、「席銭入り申さず候」 ― 聴衆は二、三人から
事蹟によれば、梅岩は四十二、三歳で奉公を退き、しばらく諸家の講釈を聞いて回ったのち、四十五歳の年、京都の車屋町通御池上ルの住まいで初めて講席を開きました。享保十四年、師の了雲が亡くなったのと同じ年です。
家の表の柱に出した貼り紙の文面を、事蹟はそのまま書き留めています。何月何日開講、席銭(聴講料)はいただきません、縁のない方でも望む人は遠慮なくお入りください——。紹介者も謝礼もいらない講席でした。男女の席は分け、女性の席には簾を掛けたといいます。
ところが、人は来ませんでした。事蹟には、朝も晩も聴衆はおおかた二、三人、多くて四、五人、誰もいなくて親しい友人一人と差し向かいで講釈したこともある、と書かれています。ある夜、聴衆が門人一人だけだったので、その門人が、私一人のためにお疲れになるのは申し訳ないから今夜は休んでください、と言うと、梅岩はこう答えました。講釈を始めたときは、見台(書物を載せる台)と差し向かいになるつもりでいた。一人でも聞く人がいれば満足だ——(石田先生事蹟)。
講席はやがて朝と隔夜の定例になり、月に三度は門人に問いを出して答えを書かせる会も開かれました。大坂や河内にも出向いて講釈しています。元文二年(一七三七)春には、手狭になった家を堺町通六角下ルへ移しました。
六、「異端」と呼ばれて ― 『都鄙問答』の書き出し
講席を開いた町人学者に、学者の世界は冷ややかでした。『都鄙問答』は、その冷ややかさを隠さずに書き出されます。巻頭の問答は、故郷の知人が京都で聞いてきた噂を伝えに来る場面です。
【書き下し】彼の学者申されけるは、彼は異端の流れにて、儒者にては無しといへり。依りて其の異端と云ふは、如何なる義ぞと問ひければ、異端と云ふは、聖人の道にあらず、其の者が別に私意を以て教へを立て、世上の愚かなる者を誣ひくらませて、性を知るの心を知るのと、向上の論義を為し人を惑はすことなり。性を知ると云ふは、古の聖人賢人のことにて、後世の人、及ぶべき所に非ずといへり。我此を聞きしより、思へば人を惑はすことは、山賊強盗を為すよりは、其の罪は甚だしからん。余りに笑止に思はれ、此の如く云ふなり。汝故郷へ帰り居らるるとも、只口を養ふは、心易きことなり。口一つ養はんとて、人を迷はすは哀しきことなり。
あの男は異端で、儒者ではない。故郷に帰れば口一つ養うくらいはできるのだから、人を迷わせるのはやめてはどうか——。知人はさらに、儒者から浴びせられた言葉を伝えます。
【書き下し】汝が如き四書の素読もせざる者に、聖人の道、何を云ひ聞かせんや。
四書(論語・大学・中庸・孟子)の素読(意味を問わず声に出して読む初歩の稽古)もしていない者に、聖人の道の何を言い聞かせられるか。これに梅岩は、論語の子夏の言葉を引いて答えます。
【書き下し】只心を尽くして、五倫の道を能くすれば、一字不学といふとも、是を実の学者と云ふ。
本を書いた当人が、自分を「不学」と呼ばれた場面から書き始めている。この書き出しそのものが、梅岩という人の立ち位置をよく表しています。
学者の批判だけではありません。事蹟には、大坂で講釈していたとき、ある神道家が、日本人を唐の魂にする講釈だ、神敵だと言い立て、門人を連れて乗り込んできた話があります。梅岩は、儒仏を助けとして日本の神道の正直を説いているのに二心はない、どんな誓いでも立てよう、ここにいる門人にも立てさせる、あなたも門人も誓いを立ててほしい、そのうえでゆっくり話そう、と応じました。相手は、そこまで言うなら誓いには及ばない、と引き下がったといいます(石田先生事蹟)。
七、「倹約と云ふを、世に誤りて」 ― 講席の主の暮らし
梅岩が講席で説いた倹約は、まず自分の暮らしで実行されていました。事蹟の描写は、ほとんど執拗なほど細かいものです。
米のとぎ汁は器にためて鼠の餌にし、釜に残った飯粒は湯に溶かして飲む。汁椀は食べ終わったら茶を注いで洗って飲む。薪は細かく割って燃えやすくし、庭に落ちた一寸ほどの木屑も洗って竈に入れる。元結(髪を結ぶ紙紐)は洗って何度も使う。封をした紙は封じ目を水で湿らせてから開き、破らないようにする。紙屑を売るときは、貧しそうな屑屋を選び、値は相手の言うままにした——(石田先生事蹟)。
これだけ並べると、ただのけちに見えるかもしれません。けれども同じ事蹟は、茶店で休むときはわざとみすぼらしい貧しそうな店を選び、茶代を多めに置いたこと、夏は日陰を人に譲って自分は日なたを歩き、冬は日なたを人に譲って日陰を歩いたことも書いています。切り詰めた分は、自分のためではなく人のほうへ回っていました。梅岩自身、倹約をこう定義しています。
【書き下し】倹約と云ふを、世に誤りて、吝きことゝ思ふは非なり。
梅岩は生涯独り身でした。紀州の神職・行藤氏になぜ妻子を持たないのかと問われたときは、道を広める志があるので、妻子に引かれて大道を失うのを恐れる、と答えています。門人が気づかって下男を雇わせても、役に立たない下男を一言も責めずに使い続けたので、結局は門人のほうが下男を帰し、梅岩は生涯自炊で通しました(石田先生事蹟)。
八、「実の商人は、先も立ち、我も立つ」 ― 商人の道
こうした日々の講席から生まれたのが、『都鄙問答』巻之二の「或学者、商人の学問を譏るの段」です。商人が利を取るのは欲だと責める学者に、梅岩は正面から答えました。
【書き下し】商人の買利は、士の禄に同じ。買利なくば、士の禄無くして事ふるが如し。
【書き下し】実の商人は、先も立ち、我も立つことを思ふなり。
売買の利は武士の禄と同じく、職分を果たして受け取る正当な報酬だ。ただし本当の商人は、相手も成り立ち、自分も成り立つことを考える。二十年あまり商家の内側にいた人の言葉です。この段の思想としての中身は、冒頭で紹介した記事で扱っています。
九、握り飯と施し ― 講席の外の梅岩
事蹟には、講席の外での梅岩の動き方も書かれています。
ある冬の夜、京都の下岡崎村で大火事があったとき、梅岩は、寒中の夜中に食べる物がなくては耐えがたいだろうと、夜半に門人を集めて飯を炊かせ、握り飯にして現場へ運び、困っている人たちに配りました。
元文五年(一七四〇)の冬、京都の町々に困窮する人が多く出たのに、噂ばかりで施しをする人がいませんでした。梅岩は門人を手分けして町に出して様子を探らせ、思った以上にひどいと分かると、門人を三、四人ずつ組にして、十二月二十八日から日ごとに場所を変えて銭を配って回りました。年が明けて正月二日からは、あちこちで施しをする人がたくさん出てきた、と事蹟は結んでいます(石田先生事蹟)。
河内の門人の家へ講釈に招かれたときには、講釈の後に差し出された白銀一封を、旅費も滞在の費用も出してもらっているのに、さらに祝儀まで受け取るわけにはいかない、と受け取りませんでした。宿から講席へ向かう途中、田に生えた草を見つけると、麻の裃のまま泥田に手を入れて抜き、この草は肥やしを奪う悪い草だ、と門人に示したといいます。その土地の人々は、梅岩の講釈を聞いてから家業に励むようになった、と事蹟は書いています。
十、梅の黒焼きのように ― 六十歳の自己評価
事蹟には、梅岩が自分の気質の変化を振り返った言葉も残っています。
自分は生まれつき理屈っぽく、幼いころから意地が悪くて友だちにも嫌われた。十四、五歳のころにふと気づいて悲しく思い、三十歳のころにはだいぶ直ったと思ったが、まだ言葉の端に出た。四十歳のころは梅の黒焼きのようで、まだ少し酸味が残っていた。五十歳になって、ようやく意地の悪さはおおかた無くなったと思う——。門人の目にも、五十過ぎの梅岩は、気に入らないことがあっても顔色に出さなくなった、と映っていました。そして六十歳のころ、梅岩は「我今は楽になりたり」と言ったといいます(石田先生事蹟)。
「性」を知ったと感じた四十歳から、人柄として角が取れるまでに、さらに十年以上かかっている。悟りの話だけを切り出すと見えなくなる、梅岩の生涯のもう一つの筋です。
十一、晩年 ― 二冊の本と、残された物
元文三年(一七三八)の夏、梅岩は門人数人と但馬の温泉へ出かけましたが、滞在中も昼夜『都鄙問答』の校合(原稿の照らし合わせ)をしていた、と事蹟は書いています。沖で急な風に門人たちがおびえるなか、梅岩は落ち着いていて、風が収まると、果てのない海を指さして、人の身の小ささを示したといいます。
『都鄙問答』が刊行されたのは翌元文四年(一七三九)の七月です。事蹟は、ふだん人の問いに答えた言葉の草稿を集めたもの、と説明しています。晩年には、門人たちが倹約を実行し始めたのを批判した人との論争をまとめた『斉家論』が、延享元年(一七四四)五月に刊行されました。
その年の九月二十三日の夜に発病し、翌二十四日の昼、梅岩は自宅で亡くなりました。六十歳。京都東山の鳥辺山に葬られています。事蹟は、没後に家に残された物を一つずつ数えています。書物が三櫃、人の問いに答えた言葉の草稿、見台、机、硯、衣類、日用の器物。それだけだった、と(石田先生事蹟)。
十二、その後 ― 門人が名づけ、門人が書き残した
梅岩の教えを「心学」として広げたのは、門人の手島堵庵(てじま とあん)らです。講舎は全国に広がり、その流れは近代の実業家たちにも受け継がれていきました。その広がりと思想の中身は、冒頭の記事で扱っています。
この記事で頼りにした『石田先生事蹟』も、門人たちの仕事です。事蹟の巻末には、明和六年の秋に門人が編集して秘蔵していたところ、三十年あまり後に何者かが無断で書き写し、誤りだらけの「行状記」として出版してしまった、そこで元の本と照らして一字の違いもないよう校正し直して刊行する、という文化二年(一八〇五)の記事が付いています。梅岩の暮らしぶりが細部まで伝わっているのは、師の言行を正確に残そうとした門人たちの意地によるところが大きいのです。
梅岩の説いた道は一つです。『都鄙問答』巻之二の結びで、梅岩はこう言い切りました。
【書き下し】士農工商、ともに天の一物なり。天に二つの道有らんや。
結び ― 見台と差し向かいで始めた人
梅岩の生涯を並べてみると、目立つ転機は少なく、長い準備と地道な継続ばかりが続きます。二十三歳から二十年近い奉公。師を探し歩いた数年。了雲のもとでの足かけ数年の工夫。聴衆二、三人から始めた講席。そして、六十歳でようやく「楽になった」と言えるまでの気質の手直し。
講席を開くとき、梅岩が想定していた聴衆は、見台一つでした。誰も来なくても続けるつもりで始めたから、一人でも来れば満足だと言えた。無料の講席も、切り詰めた暮らしも、施しも、その同じ姿勢から出ています。四十を過ぎて始めることに遅すぎはない、というよりも、四十を過ぎるまでの奉公の年月がそのまま講席の中身になった、というほうが、梅岩の生涯には合っているように思えます。
この記事の出典について
『都鄙問答』の引用は、師導が収録する『日本教育文庫 心学篇』(同文館、一九一一)所収本の読み下し文から、そのまま切り出しています。『石田先生事蹟』は同じ本の付録に収められた本文(明和六年門人記、文化二年刊)に拠り、師導には章句として収録していないため、要旨で紹介しました。事蹟は門人による記録で、師への敬意から書かれている点に留意してください。
年譜のうち、少年期の最初の奉公(八歳説・十一歳説)、奉公先を黒柳家とすること、了雲との出会いを享保十二年とすることは、事蹟に記載がないか事蹟と食い違う通説で、本文ではその旨を断っています。
梅岩の思想そのもの、石門心学の広がり、渋沢栄一へのつながりは、次の記事で扱っています。
→ 石田梅岩とは — 石門心学と都鄙問答、商人の道を説いた思想家
→ 渋沢栄一の名言と愛読書 ― 『論語と算盤』の原文と、「夢七訓」の真偽
同じく、自分の生き方を書き残した江戸の実践者たちの生涯です。
→ 二宮尊徳の生涯 ― 桜町の復興、天保の飢饉、日光まで。金次郎像はいつ生まれたか
→ 佐藤一斎の生涯 ― 陽朱陰王と呼ばれた昌平黌の儒官が、四十年かけて書いた『言志四録』
『都鄙問答』は全四巻十六段を、原文・読み下し文・現代語訳・解説つきで収めています。