二宮翁夜話 / 巻之五
翁又曰、天保七年、烏山侯の依頼に依て、同領内に右の方法を、施行したる大略は、一村一村に諭して、極難の者の内、力役に就くべき者と、就くべからざる者と、二つに分ち、力役に就くべからざる、老幼病身等千有余人を烏山城下なる、天性寺の禅堂講堂物置其外寺院又新に小屋廿棟を建設け、一人白米一合づゝ、前に云る方法にて、同年十二月朔日より翌年五月五日まで、救ひ遣し、飢人欝散の為に藩士の武術稽古を此処にて行はせ、縦覧を許し、折々空砲を鳴して欝気を消散せしめたり、其内病気の者は自家に帰し、又別に病室を設けて療養せしめ、五月五日解散の時は、一人に付白米三升、銭五百文づゝを渡して、帰宅せしめたり、又力役に付べき達者の者には、鍬一枚づゝ渡し遣し、荒地一反歩に付、起返し料金三分二朱、仕付料二分二朱、合て一円半、外に肥代壱分を渡し、一村限り出精にて、事に幹たるべき者を人撰し、入札にて高札の者に、其世話方を申付、荒田を起反して、植付させたり、此起返し田、一春間に五十八町九反歩植付になりたり、実に天より降が如く、地より湧くが如く、数十日の内に荒田変じて水田となり、秋に至りて其実法直に貧民食料の補ひとなりたり、其外沓草鞋繩等を、製造せし事も莫太の事にして、飢民一人もなく、安穏に相続し、領主君公の仁政を感佩して、農事を勉励せり、豈悦しからずや。
新字:翁又曰、天保七年、烏山侯の依頼に依て、同領内に右の方法を、施行したる大略は、一村一村に諭して、極難の者の内、力役に就くべき者と、就くべからざる者と、二つに分ち、力役に就くべからざる、老幼病身等千有余人を烏山城下なる、天性寺の禅堂講堂物置其外寺院又新に小屋廿棟を建設け、一人白米一合づゝ、前に云る方法にて、同年十二月朔日より翌年五月五日まで、救ひ遣し、飢人欝散の為に藩士の武術稽古を此処にて行はせ、縦覧を許し、折々空砲を鳴して欝気を消散せしめたり、其内病気の者は自家に帰し、又別に病室を設けて療養せしめ、五月五日解散の時は、一人に付白米三升、銭五百文づゝを渡して、帰宅せしめたり、又力役に付べき達者の者には、鍬一枚づゝ渡し遣し、荒地一反歩に付、起返し料金三分二朱、仕付料二分二朱、合て一円半、外に肥代壱分を渡し、一村限り出精にて、事に幹たるべき者を人撰し、入札にて高札の者に、其世話方を申付、荒田を起反して、植付させたり、此起返し田、一春間に五十八町九反歩植付になりたり、実に天より降が如く、地より湧くが如く、数十日の内に荒田変じて水田となり、秋に至りて其実法直に貧民食料の補ひとなりたり、其外沓草鞋縄等を、製造せし事も莫太の事にして、飢民一人もなく、安穏に相続し、領主君公の仁政を感佩して、農事を勉励せり、豈悦しからずや。
書き下し
翁(おきな)又(また)曰(いわ)く、天保七年、烏山侯(からすやまこう)の依頼(いらい)に依(よ)りて、同領内(どうりょうない)に右の方法を、施行(しこう)したる大略は、一村一村に諭(さと)して、極難(ごくなん)の者の内、力役(りきえき)に就(つ)くべき者と、就くべからざる者と、二つに分ち、力役に就くべからざる、老幼病身(ろうようびょうしん)等千有余人(せんゆうよにん)を烏山城下なる、天性寺(てんしょうじ)の禅堂(ぜんどう)講堂物置其の外寺院又新(あらた)に小屋廿棟(にじっむね)を建設(たてもう)け、一人白米一合づゝ、前に云へる方法にて、同年十二月朔日(ついたち)より翌年五月五日まで、救ひ遣(つか)はし、飢人(きにん)欝散(うっさん)の為に藩士(はんし)の武術稽古(ぶじゅつけいこ)を此処(ここ)にて行はせ、縦覧(じゅうらん)を許し、折々空砲(くうほう)を鳴らして欝気(うっき)を消散(しょうさん)せしめたり、其の内病気の者は自家(じか)に帰し、又別に病室を設(もう)けて療養(りょうよう)せしめ、五月五日解散(かいさん)の時は、一人に付白米三升、銭五百文(もん)づゝを渡して、帰宅せしめたり、又力役に付くべき達者(たっしゃ)の者には、鍬(くわ)一枚づゝ渡し遣はし、荒地(あれち)一反歩(いったんぶ)に付、起返(おこしかえ)し料金三分二朱(さんぶにしゅ)、仕付料(しつけりょう)二分二朱、合(あわ)せて一円半、外に肥代(こやしだい)壱分(いちぶ)を渡し、一村限り出精(しゅっせい)にて、事に幹(かん)たるべき者を人撰(じんせん)し、入札(にゅうさつ)にて高札(たかふだ)の者に、其の世話方(せわかた)を申付(もうしつ)け、荒田を起反(おこしかえ)して、植付(うえつ)けさせたり、此の起返し田、一春間(いっしゅんかん)に五十八町九反歩(ごじゅうはっちょうくたんぶ)植付けになりたり、実に天より降(ふ)るが如く、地より湧(わ)くが如く、数十日の内に荒田変じて水田となり、秋に至りて其の実法(みのり)直(ただ)ちに貧民食料の補(おぎな)ひとなりたり、其の外沓草鞋繩(くつわらじなわ)等を、製造せし事も莫太(ばくだい)の事にして、飢民一人もなく、安穏(あんのん)に相続(そうぞく)し、領主君公の仁政(じんせい)を感佩(かんぱい)して、農事を勉励(べんれい)せり、豈(あに)悦(よろこ)ばしからずや。
現代語訳
翁がまた言われた。天保七年、烏山侯の依頼によって、その領内に先の方法を施した大略はこうだ。一村ごとに諭して、極めて困窮した者のうちを、力仕事に就ける者と就けない者の二つに分け、力仕事に就けない老幼病人など千余人を、烏山城下の天性寺の禅堂・講堂・物置その他の寺院、また新たに建てた小屋二十棟に収容し、一人白米一合ずつ、前に述べた方法で、同年十二月一日から翌年五月五日まで救済した。飢えた人々の気晴らしのために藩士の武術稽古をここで行わせ、見物を許し、折々空砲を鳴らして鬱屈を晴れさせた。そのうち病気の者は自宅に帰し、また別に病室を設けて療養させた。五月五日、解散のときには、一人につき白米三升、銭五百文ずつを渡して帰宅させた。また力仕事に就ける達者な者には鍬を一枚ずつ渡し、荒地一反につき、開墾料金三分二朱、田植え料二分二朱、合わせて一円半、ほかに肥料代一分を渡した。一村ごとに、精を出して事に当たれる者を選び、入札で高値をつけた者にその世話役を申しつけ、荒れ田を開墾して植え付けさせた。この開墾田は、ひと春の間に五十八町九反歩の植え付けになった。実に天から降るように、地から湧くように、数十日のうちに荒れ田が変じて水田となり、秋になるとその実りがそのまま貧民の食料の足しとなった。そのほか沓・草鞋・縄などを製造したことも莫大なもので、飢民は一人もなく、安穏に暮らしを続け、領主のご仁政に深く感謝して農事に励んだ。何と喜ばしいことではないか。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、予(よ)が烏山(からすやま)其(そ)の他に施行(しこう)せし、飢饉(ききん)の救助方法は、先(ま)づ村々に諭(さと)して、飢渇(きかつ)に迫(せま)りし者の内を引分(ひきわ)けて、老人幼少病身等の、力役(りきえき)に付き難(がた)き者、又婦女子(ふじょし)其の日の働きの十分に出来(でき)ざる者を、残らず取調(とりしら)べさせ、寺院か又大なる家を借受(かりう)け、此処(ここ)に集めて男女を分ち、三十人四十人づゝ一組となし、一所(ひとところ)に世話人(せわにん)一二名を置き、一人に付、一日に白米一合づゝと定め、四十人なれば、一度に一升の白米に水を多く入れて、粥(かゆ)に炊(かし)ぎ塩を入れて、之を四十椀(わん)に甲乙(こうおつ)なく平等に盛りて、一椀づゝ与(あた)へ、又一度は同様なれど、菜(な)を少しく交(ま)ぜ味噌(みそ)を入れて、薄き雑炊(ぞうすい)とし、前同様に盛りて、一椀づゝ、代(かわ)る代る、朝より夕まで一日四度づゝと定めて、与ふるなり、されば一度に二勺五才(にしゃくごさい)の米を粥の湯に為(な)したる物なり、之を与ふる時懇(ねんご)ろに諭さしめて曰く、汝等(なんじら)の飢渇深く察す、実に愍然(びんぜん)の事なり、今与ふる処の一椀の粥湯(かゆ)、一日に四度に限れば、実に空腹に堪(たえ)難かるべし、然(しか)といへども、大勢の飢人(きにん)に十分に与ふべき米麦は天下になし、此の些少(さしょう)の粥湯、飢(うえ)を凌(しの)ぐに足らざるべく、実に忍(しの)び難かるべけれど、今日は国中に、米穀の売物(うりもの)なし、金銀有りて米を買ふ事の出来ざる世の中なり、然るに領主君公莫太(ばくだい)の御仁恵(ごじんけい)を以て、倉(くら)を開かせられ、御救(すく)ひ下さるゝ処の米の粥なり、一椀なりといへども、容易ならず、厚く有難く心得て、夢々(ゆめゆめ)不足に思ふ事勿(なか)れ、又世間には、草根木皮(そうこんぼくひ)等を食せしむる事も有れど、是は甚(はなは)だ宜(よろ)しからず、病を生じて、救ふべからず、死する者多し、甚だ危(あやう)き事なり、恐るべき事なり、世話人に隠して、決して草根木皮などは、少しにても食ふ事勿れ、此の一椀づゝの粥の湯は、一日に四度づゝ時を定めて、急度(きっと)与ふるなり、左(さ)すれば、仮令(たとい)身体は痩(や)するとも決して、餓死(がし)するの患(うれい)なし、又白米の粥なれば、病の生ずる恐れも必ずなし、新麦の熟するまでの間の事なれば、如何にも能く空腹を堪へ、起臥(きが)も運動も徐(しずか)にして、成る丈(た)け腹の減(へ)らぬ様にし、命さへ続けば、夫(それ)を有難しと覚悟(かくご)して、能く空腹を堪へて、新麦の豊熟(ほうじゅく)を、天地に祈りて、寝たければ寝るがよし、起きたければ起きるがよし、日々何も為(す)るに及ばず、只腹のへらぬ様に運動し、空腹を堪(こら)ゆるを以て、夫を仕事と心得て、日を送るべし、新麦さへ実(みの)法(の)れば、十分に与ふべし、夫迄(それまで)の間は死さへせざれば、有難しと能々(よくよく)覚悟し、返す返すも草木の皮葉等を食ふ事勿れ、草木の皮葉は、毒なき物といへども腹に馴(な)れざるが故に、多く食し日々食すれば、自然(しぜん)毒なき物も毒と成りて、夫が為に病を生じ、大切の命を失ふ事あり、必ず食する事なかれと、懇ろに諭して空腹に馴れしめ、無病ならしむるこそ、救窮(きゅうきゅう)の上策なるべけれ、必ず此の方に随(したが)ひ、一日一合の米粥を与へ、草木の皮葉などは、食せよと云はず、又食せしめざるなり、是其の方法の大略(たいりゃく)なり、又身体強壮(きょうそう)の男女は別に方法を立て、能々説き諭して、平常五厘の繩(なわ)一房(ひとふさ)を七厘に、一銭の草鞋(わらじ)を一銭五厘に、三十銭の木綿布(もめんぬの)を四十銭に買上げ、平日十五銭の日雇賃銭(ひやといちんせん)は、二十五銭づゝ払ふべきに依り、村中一同憤発(ふんぱつ)勉強し、勤(つと)めて銭を取りて自ら生活を立つべし、繩草鞋、木綿布等は、何程(なにほど)にても買取り、仕事は協議工夫を以て、何程にても、人夫(にんぷ)を遣(つか)ふべければ、老幼男女を論ぜず、身体壮健(そうけん)の者は、昼は出て日雇賃を取り、夜は入りて繩を索(な)ひ、沓(くつ)草鞋を作るべし、と懇々説諭(せつゆ)して、勉強せしむべし、偖(さて)其の仕事は、道橋を修理し、用水悪水の堀を浚(さら)ひ、溜池(ためいけ)を掘り、川除(かわよ)け堤(つつみ)を修理し、沃土(よくど)を掘出し、下田下畑(げでんげはた)に入れ、畔(あぜ)の曲れるを真直(まっすぐ)に直し、狭き田を合せて、大にするなど、其の土地土地に就(つ)きて、能く工夫せば、其の仕事は何程もあるべし、是我が手に十円の金を損して、彼に五十円六十円の金を得(え)さしめ、是に百円の金を損して、彼に四百円五百円の益を得さしめ、且其の村里に永世(えいせい)の幸福を貽(のこ)し、其の上美名をも遺(のこ)す道なり、只恵(めぐ)んで費(つい)えざるのみにあらず、少く恵んで、大利益を生ずるの良法なり、窮(きゅう)の甚(はなはだ)しきを救ふ方法は、是より好(よ)きはあらじ、是予が実地に施行せし、大略なり。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、天保七年の十二月、桜町支配下四千石の村に諭(さと)し、毎家所持の米麦雑穀(ざっこく)の俵数(ひょうすう)を取調(とりしら)べさせ、米は勿論大小麦、大小豆、何にても一人に付き、俵数五俵づゝの割り合を以て、銘々(めいめい)貯(たくわ)へ置き、其の余所持の俵数は勝手次第に売出すべし、此の節程穀価(こくか)の高き事は、二度とあるまじ、誠に売るべき時は此の時なり、速(すみやか)に売りて金となすべし、金不用ならば、相当の利足(りそく)にて預(あず)り遣(つか)はすべし、且(かつ)当節売出すは、平年施(ほどこ)すよりも功徳多し、何方(いずかた)へなり共売出すべし、一人五俵の割に、不足の者、又貯(たくわえ)なき者の分は、当方にて慥(たしか)に備(そな)へ置くべき間、安心すべし、決して隠し置くに及ばず、詳細に取調べて届け出づべしと言ひて四千石村々の、毎戸の余分は売出させ、毎戸の不足の分は、郷蔵(ごうぐら)に積囲(つみかこ)ひ、其の余は漸次(ぜんじ)倉を開きて、烏山(からすやま)領を始め、皆他領他村へ出して救助したり、他の窮(きゅう)を救ふには先(ま)づ自分支配の村々の安心する様に方法を立て、而(しか)して後に他に及ぼすべし。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、予(よ)不幸にして、十四歳の時父に別れ、十六歳の折(おり)母に別れ、所有の田地は、洪水の為に残らず流失し、幼年の困窮(こんきゅう)艱難(かんなん)実に心魂(しんこん)に徹(てっ)し、骨髄(こつずい)に染(し)み、今日猶(なお)忘るゝ事能(あた)はず、何卒(なにとぞ)して世を救ひ国を富(とま)し、憂(う)き瀬(せ)に沈む者を助けたく思ひて、勉強せしに、斗(はか)らずも又天保両度の飢饉に遭遇(そうぐう)せり、是に於て心魂を砕(くだ)き、身体を粉(こ)にして、弘(ひろ)く此の飢饉を救はんと勤めたり、其の方法は本年は季候悪(あ)し、凶歳ならんと、思ひ定めたる日より、一同申合せ、非常に勤倹(きんけん)を行ひ、堅く飲酒を禁じ、断然(だんぜん)百事を抛(なげう)ちて、其の用意をなしたり、其の順序は先(ま)づ申合せて、明地(あきち)空地を開き、木綿畑を潰(つぶ)して瓜哇薯(じゃがたらいも)蕎麦(そば)菜種(なたね)大根蕪菜(かぶな)等の食料になるべき物を、蒔付(まきつ)くる手配を尽し、土用明け迄は隠元(いんげん)豆も遅からねば、奥の種を求めて多く蒔(ま)かせ、夫(それ)より早稲(わせ)を刈取り、干田は耕(たがや)して麦を蒔き、金銭を惜(お)しまず、元肥(もとごえ)を入れて培養(ばいよう)し、夫より畑の菜種の苗を抜きて田に移し植ゑて、食料の助(たすけ)とせり、此の如く其の土地土地に於て油断なく勉強せば、意外に食料を得べし、凶荒(きょうこう)の兆(きざし)あらば油断なく食料を求むる工夫を尽すべし。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、予(よ)此の時駿州御厨(みくりや)郷、飢民の撫育(ぶいく)を扱(あつか)ふ、既に米金尽き術計(じゅっけい)なし、仍(よっ)て郷中に諭(さと)して曰く、昨年の不熟(ふじゅく)六十年に稀(まれ)なり、然(しか)りといへども、平年農業を出精して米麦を余し、心掛宜敷(よろしき)ものは差閊(さしつかえ)有るまじ、今飢(う)ゑる者は平年惰農(だのう)にして、米麦を取る事少く、遊楽を好み博奕(ばくえき)を好み飲酒に耽(ふけ)り、放蕩(ほうとう)無頼(ぶらい)心掛宜しからざる者なれば、飢ゑるは天罰と云ひて可なり、然らば救はず共可なるが如しといへ共、乞食(こじき)となるものを見よ、無頼悪行、是より甚しく、終(つい)に処を離れて、乞食する者なれば、悪(にく)むべきの極なり、されども、是をさへ憐(あわ)れんで、或は一銭を施し、或は一握(にぎり)の米麦を施すは、世間の通法なり、今日の飢民は、是と異(こと)なり、元一村同所に生れ同水をのみ同風に吹かれ、吉凶葬祭相共に、助け来れる因縁(いんねん)浅からねば、何ぞ見捨てて救はざるの理あらんや、今予飢民の為に、無利足(むりそく)十ケ年賦の金を貸与へて是を救はんとす、然りといへども飢ゑに望む程のものは、困究(こんきゅう)甚しければ、返納は必ず出来ざるべし、仍て来年より、差支なく救を受けざる者といへども、日々乞食に施すと思ひ、銭十文又廿(にじゅう)文を出すべし、其の以下中下のものは、銭七文又五文を出すべし、来年豊年ならば、天下豊かならん、御厨郷のみ、乞食に施さゞるも、国中の乞食、飢ゑる事あらじ、乞食に施す米銭を以て、彼が返納を補(おぎな)はゞ、自(みずか)ら損せずして、飢民を救ふべし、是(これ)両全(りょうぜん)の道にあらずや、と諭せしに郡中の者一同、感戴(かんたい)して承諾せり、仍て役所より、無利子金を十ケ年賦に貸渡して、大に救助する事を得たり、是上に一銭の損なくして、下に一人の飢民なく、安穏(あんのん)に飢饉を免(まぬが)れたり、此の時小田原領のみにして、救助せし人員を、村々より書上げたる処、四万三百九十余人なりき。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、天保四年同七年、両度の凶歳七年尤(もっと)も甚(はなは)だし、早春より引続き、季候不順にして梅雨(さみだれ)より土用に降り続き、季候寒冷(かんれい)にして、陰雨(いんう)曇天のみ、晴日稀(まれ)なり、晴ると思へば曇り、曇ると思へば雨降る、予(よ)土用前より、之を憂(うれ)ひ心を用ひしに、土用に差掛り空の気色(けしき)何となく秋めき、草木に触るゝ風も、何となく秋風めきたり、折節(おりふし)他より、新茄子(なすび)到来せるを、糠味噌(ぬかみそ)に付けて食せしに、自然秋茄子(なす)の味(あじ)あり、是に依て意を決(けっ)し、其の夕より、凶歳の用意に心を配(くば)り、人々を諭(さと)して、其の用意を為さしめ、其の夜終夜書状を作りて諸方に使を発して、凶歳の用意一途に尽力したり、其の方法は明き地空地は勿論、木綿(もめん)の生立ちたる畑を潰(つぶ)し、荒地廃地を起して、蕎麦(そば)大根蕪菁菜(かぶらな)胡蘿葡(にんじん)等を、十分に蒔付させ、粟(あわ)稗(ひえ)大豆等惣(すべ)て食料になるべき物の耕作培養(ばいよう)精細を尽させ、又穀物の売物ある時は、何品に限らず、皆之を買入れ、既に借入れの抵当(ていとう)なく貸金の証文を抵当に入れて、金を借用したり、此の飢饉の用意を、諸方に通知したる内、厚く信じて能(よ)く取り行ひたるは、谷田部茂木(もてぎ)領邑(りょうゆう)なり、此の通知を得るや、其の使と同道にて、郡奉行自(みずか)ら馬に鞭(むち)打ちて来りて、其の方法を問ひ、急ぎ帰りて郡奉行代官役等、属官(ぞっかん)を率(ひき)ゐて、村里に臨(のぞ)み懇々(こんこん)説諭(せつゆ)して、先(ま)づ木綿畑を潰し、荒地を起し廃地を挙げて食料になるべき蕎麦大根の類を蒔付けたる事夥(おびただ)しく、堂寺の庭迄も説諭して蕎麦大根を蒔かせたりと云へり、下野国真岡(もおか)近郷は、真岡木綿の出る土地なれば、木綿畑尤も多し、其の木綿畑を潰して、蕎麦を蒔替(まきか)ふるを愚民殊(こと)の外歎(なげ)く者あり、又苦情を鳴(なら)す者あり、仍(よっ)て愚民明らめのため、所々に一畝づゝ、尤も出来方の宜敷(よろしき)木綿畑を残し置きたるに、綿実(わたのみ)一つも結ばず、秋に至りて初めて予が説を信じたりと聞けり、愚民の諭し難きには殆(ほとん)ど困却(こんきゃく)せり、又秋田を刈取りたる干田に、大麦を手の廻る丈け多く蒔かせ、夫(それ)より畑に蒔きたる菜種の苗を、田に移し植ゑて、食料の助(たすけ)にせり、凶歳の時は油断なく、手配(てくば)りして食物を多く作り出すべし、是(これ)予が飢饉を救ひし方法の大略なり。
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二宮翁夜話・巻之五駿州(すんしゅう)駿東郡は、富士山の麓(ふもと)にて、雪水掛(かか)りの土地なる故、天保七年の凶荒(きょうこう)、殊(こと)に甚(はなは)し、領主小田原侯(おだわらこう)、此の救助法を東京にて翁に命ぜられ、米金の出方は、家老大久保某(ぼう)に申付けたり、小田原に往(ゆ)きて受取るべし、と命ぜらる、翁即刻出発夜行して、小田原に至られ、米金を請求せられしに、家老年寄の評議(ひょうぎ)未(いま)だ決せず、翁之を待つ事久し、日午(ひる)に到る、衆皆弁当を食して、後(のち)に議せんと也(なり)、翁曰(いわ)く、飢民(きみん)今死に迫(せま)れり、之を救ふべきの議、未だ決せず、然るに弁当を先にして、此の至急の議を後にするは、公議を後にして、私を先にするなり、今日の事は、平常の事と違(ちが)ひ、数万の民命に関する重大の件なり、先(ま)づ此の議を決して後に弁当は食すべし、此の議決せずんば、縦令(たとい)夜に入るとも、弁当は用ふる事勿(なか)れ、謹(つつし)んで此の議を乞ふと述べられたれば、尤(もっと)もなりとて、列座弁当を食する事を止めて此の議に及べり、速(すみやか)に用米の蔵を開くべしと定まりて、此の趣(おもむき)を倉奉行に達す、倉奉行又開倉の定日は、月に六回なり、定日の外(ほか)漫(みだり)に開倉する例(れい)なし、と云ひて開かず、又大に議論あり、倉奉行、家老の列座にて、弁当云々の論ありし事を聞きて、速に倉を開けりとぞ、是(これ)皆翁の至誠による物なり。