『徒然草(つれづれぐさ)』の作者は、兼好法師(けんこうほうし)です。教科書では「吉田兼好(よしだけんこう)」の名前でも習います。
その経歴も、たいていは同じ形で紹介されてきました。京都・吉田神社の神職の家に生まれ、宮廷に仕えて六位蔵人(ろくいのくろうど)から左兵衛佐(さひょうえのすけ)にまで進み、三十歳前後で出家して、『徒然草』を書いた。辞書にも、いまなおこの形で載っています。
ところが二〇一七年、国文学者の小川剛生(おがわ たけお)が『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書)で、この経歴の多くは兼好の死後に作られたものだ、と論じました。作ったのは、兼好が亡くなってから百年ほどのちに生まれた、吉田神道の吉田兼倶(よしだ かねとも)だというのです。
では、兼好について確かなことは何なのか。手がかりは二つあります。一つは、兼好が生きていたころの文書に残る記録。もう一つは、『徒然草』のなかで兼好が自分について書いた、わずかな段です。
この記事では、その二つを軸に兼好の一生をたどります。『徒然草』は自分の経歴をほとんど語らない本です。その本から、書かれていることと、書かれていないことを分けて読んでいきます。
引用は、師導が収録する『徒然草』の原文(旧字体)をそのまま切り出しています。
兼好とは ― 先に「確かなこと」と「言われてきたこと」を分ける
最初に、輪郭を二つに分けて並べておきます。
同時代の記録で確かめられること
- 鎌倉時代の後期から南北朝時代にかけて生きた歌人・随筆家。生まれは弘安六年(一二八三)ごろとされ、確かな記録で最後に姿が見えるのは文和元年(一三五二)です。亡くなった年は分かっていません。
- 俗名は卜部兼好(うらべ の かねよし)。「兼好(けんこう)」は出家後、その名を音読みにした呼び名です。
- 正和二年(一三一三)の土地の売券(売買の証文)に「兼好御房」とあり、この年にはすでに出家していました。
- 延慶元年(一三〇八)の金沢貞顕(かねさわ さだあき)の書状に名が見え、関東に下っていたことが分かります。
- 二条為世(にじょう ためよ)に和歌を学び、のちに頓阿(とんあ)・浄弁(じょうべん)・慶運(けいうん)と並んで「和歌四天王」に数えられました。
後世に言われてきたこと(確かめられないもの)
- 「吉田兼好」という名前と、吉田神社の神職の家の出身であること。
- 六位蔵人・左兵衛佐という官歴。
- 父は卜部兼顕(かねあき)、兄弟に天台の僧・慈遍(じへん)がいるという系図。
後者の三つが、小川が「兼好の没後に捏造された」とした部分です。
一、「吉田兼好」という名前は、どこから来たか
兼好の家とされる卜部氏は、京都の吉田神社に仕えた神職の家柄で、のちに「吉田」を名乗るようになります。この家から室町時代の後期に出たのが、吉田兼倶(一四三五〜一五一一)です。兼倶は「吉田神道」を打ち立て、朝廷や幕府に食い込んで、吉田家の地位を大きく押し上げた人物でした。
小川によれば、兼倶は家の権威を高めるために系図に手を入れ、名の知れた兼好を一族の人間として書き込みました。父や兄弟を与え、蔵人・左兵衛佐という官歴まで付けた、というのです。江戸時代以降に広まった「吉田兼好」という呼び名は、この系図を前提にしています。
では、兼好の実像はどうだったのか。小川は同時代の文書から、兼好は伊勢にゆかりのある卜部氏の一族で、関東の北条氏の一門・金沢(かねさわ)氏のもとに仕えていたと見ます。版元の紹介文の言葉を借りれば、「無位無官のまま、自らの才知で中世社会を渡り歩いた『都市の隠者』」です。
この説には、通説を支持する側からの異論もありえます。そのため本記事では、新説を事実として断定はしません。ただ一点、「吉田兼好」は本人が名乗った名前ではないことは、どちらの説に立っても変わりません。卜部氏が「吉田」を家名とするのは兼好より後のことで、同時代の文書に残る本人の署名は「卜部兼好」、出家後は「兼好」です。この記事でも「兼好」と呼びます。
二、八歳の問い ― 最後の段に置かれた子ども時代
『徒然草』は、兼好が自分の生い立ちをほとんど語らない本です。そのなかで、ただ一か所、子どものころの自分が出てくる段があります。二百四十三段、つまり最後の段です。
【原文】八つになりし年、父に問ひていはく、「佛はいかなるものにか候らむ。」といふ。……父、「空よりや降りけむ、土よりやわきけむ。」といひて笑ふ。「問ひつめられてえ答へずなり侍りつ。」と諸人にかたりて興じき。
八歳の兼好が父に「仏とはどういうものですか」と尋ねます。父は「人がなったものだ」と答える。「では人はどうやって仏になるのですか」「仏の教えによってだ」。問いは続き、最後に「その教えを始めた第一の仏は、どんな仏だったのですか」と聞かれた父は、「空から降ったのか、土から湧いたのか」と笑ってしまいます。
父はその後、「問い詰められて答えられなくなってしまった」と人々に話しては面白がっていた、と兼好は書いています。
この段は、徒然草の名言の記事でも最後の一句として取り上げました。生涯の記事として読むと、別のことが見えてきます。
一つは、『徒然草』で兼好の家族が出てくるのは、ほぼこの父だけだということです。系図は父の名を「卜部兼顕」と伝えますが、『徒然草』は名前を書きません。
もう一つは、この段が父が人に語った話を、息子が書き留めたものだということです。兼好が自分から「私は幼いころこういう子どもだった」と語っているのではありません。父が面白がって人に話していた、自分の姿を書いています。二百四十三もの段を書いた人が、最後に置いたのは、自分を外から見た一場面でした。
出典:徒然草 第243段
三、金沢の浦 ― 関東に下った兼好
兼好は京都の人として語られることが多いのですが、同時代の記録は、兼好が少なくとも二度、関東へ下っていたことを示しています。延慶元年(一三〇八)、六波羅探題(ろくはらたんだい:鎌倉幕府が京都に置いた出先機関)を務めていた金沢貞顕の書状に、兼好の名が見えます。
金沢氏は北条氏の一門で、武蔵国の金沢(いまの横浜市金沢区)を本拠とし、そこに称名寺と、のちに金沢文庫と呼ばれる書庫を持っていました。『徒然草』にも、その土地の名が出てきます。
【原文】甲香は、ほら貝の樣なるが、小さくて、口の程の細長にして出でたる貝の蓋なり。武藏の國金澤といふ浦にありしを、所の者は「へなたり。」と申し侍るとぞいひし。
甲香(かいこう)という貝の蓋が、武蔵の国の金沢の浦にあって、土地の者はそれを「へなたり」と呼んでいる、と言っていた。それだけの短い段です。薫物(たきもの:練り香)の材料になる貝で、兼好は香の話ではなく、形と土地の呼び名だけを書き留めています。
鎌倉の話もあります。
【原文】鎌倉の海にかつをといふ魚は、かの境には雙なきものにて、この頃もてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚おのれ等若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部も食はず、切り捨て侍りしものなり。」と申しき。
鎌倉の海でとれる鰹(かつお)は、いまでこそもてはやされているが、鎌倉の年寄りが言うには、自分たちが若いころは身分のある人の前に出すような魚ではなく、頭は下働きの者も食べずに捨てていた、という話です。兼好はこれに「世の末になれば、上の方にまで入り込むものだ」と続けます。
どちらも、土地の人から直接聞いた口ぶりで書かれています。書物の知識ではなく、その場に居合わせた人の記録です。小川は、兼好が金沢氏のもとに仕えていたと見ており、こうした段はその裏づけの一つとして読むことができます。
四、出家 ― 「兼好御房」と書かれた土地の証文
兼好がいつ出家したのかは、はっきりしません。ただ、正和二年(一三一三)九月の日付をもつ土地の売券に、買い手として「兼好御房」の名があります。都の東、山城国山科(やましな)の小野荘の田地です。兼好はこの田地からの年貢で暮らしを立てていたと考えられています。この売券は、のちに大徳寺に伝わった文書のなかに残りました。
「遁世(とんせい)」と聞くと、山奥の庵で世を捨てて暮らす姿を思い浮かべるかもしれません。けれども兼好は、出家したあとも田地を買い、都に住み、歌会に出て、貴族や武家と付き合いを続けました。
では兼好は、出家をどう考えていたのか。五十八段に、自分の考えをまとまった形で書いています。
【原文】げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でむと思はむに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧る營みの勇ましからむ。心は縁にひかれて移るものなれば、靜かならでは、道は行じがたし。
「心が真剣なら、家にいて人と交わっていても後世は願える」という言い分に対して、兼好は、それは後世を知らない人の言葉だと退けます。本気で生死の迷いを出ようと思う人が、朝夕主君に仕え、家を切り盛りすることに張り合いを感じられるはずがない。心は縁に引かれて移るものだから、静かな場に身を置かなければ、道は修められない、と。
そのうえで、遁世した者が暮らしのために少し世間に頼ることを「それなら何のために捨てたのか」と責めるのは、ひどい言い方だ、と書きます。
【原文】紙の衾麻の衣、一鉢のまうけ、藜の羮、いくばくか人の費をなさむ。
紙の夜具に麻の衣、鉢一つの食事、藜(あかざ)の汁。どれほど人に負担をかけるというのか。兼好の出家は、世間と縁を切ることではなく、世間に求めるものを小さくすることでした。田地の証文も、歌会の記録も、この考え方とは矛盾しません。
小川の研究を紹介した書評は、兼好にとって遁世は、身分の枠の外で生きていくための方便でもあった、とまとめています。無位無官の人が、貴族とも武家とも同じ席に着けたのは、僧の姿だったからだ、という読み方です。
出典:徒然草 第58段
五、賀茂の競馬 ― 見物人に声をかけた日
兼好が自分の行動を書いた段は、多くありません。そのなかで、兼好自身がしゃべり、周りの人が動く場面を書いたのが四十一段です。
五月五日、賀茂の競馬(くらべうま)を見に行くと、人が多くて見えない。向かいの楝(おうち)の木に法師が登って、木の股に座って見物しているが、居眠りをしては落ちそうになって目を覚ます。それを見た人々が「大ばか者だ」とあざ笑った。そのとき兼好は、ふと思ったことを口にします。
【原文】わが心にふと思ひし儘に、「我等が生死の到來唯今にもやあらむ。これを忘れて物見て日を暮す、愚かなる事は猶まさりたるものを。」といひたれば、
自分たちの死も、いまこの瞬間に来るかもしれない。それを忘れて見物で一日を暮らしているほうが、よほど愚かではないか。すると前にいた人々が「まったくそのとおりです」と振り返り、「こちらへどうぞ」と場所を空けて兼好を呼び入れてくれた、というのです。
兼好は、この話を自慢で終わらせていません。これくらいの理屈は誰でも分かっているはずだが、思いがけない場面だったので胸に響いたのだろう、と書き、こう結びます。
【原文】人、木石にあらねば、時にとりて物に感ずる事なきにあらず。
言葉が人を動かすのは、理屈が新しいからではなく、場面に合ったからだ。兼好はそう見ていました。自分の手柄になりそうな話を、自分から引いて書く。この距離の取り方は、あとで見る「自讃」の段にも出てきます。
出典:徒然草 第41段
六、柑子の木 ― 隠者の庵を見て、興ざめした人
十一段も、兼好自身の体験です。十月ごろ、栗栖野(くるすの)を過ぎて山里を訪ね、苔の細道の奥に、ひっそりと住む庵を見つけます。筧(かけひ)の雫のほかは何の音もしない。閼伽棚(あかだな:仏に供える水や花を置く棚)に菊や紅葉が折り散らしてあるのを見て、こんなふうに住むこともできるのかと感じ入っていると――。
【原文】かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりを嚴しく圍ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覺えしか。
庭に大きな柑子(こうじ:みかんの一種)の木があり、枝もたわむほど実がなっていて、その周りを厳重に囲ってあった。それで少し興ざめして、この木がなかったらよかったのに、と思った。
この段は、兼好の目の性格をよく表しています。美しいものを見て感動するだけでなく、その奥にある「守りたい」「取られたくない」という心まで見てしまう。隠者の暮らしにあこがれながら、隠者の欲も見逃さない。兼好は、自分が住んだ遁世の世界を、外からも内からも見ていた人でした。
出典:徒然草 第11段
七、自讃七箇条 ― 自慢話を七つ書いた隠者
『徒然草』の終わり近く、二百三十八段で、兼好はめずらしく自分の手柄話を並べます。御随身(みずいじん:貴人の警護役)の近友(ちかとも)が自讃(自慢)を七箇条書き留めていたのにならって、自分にも自慢が七つある、というのです。
そのうちの一つは、宮中での出来事です。いまの帝がまだ皇太子だったころ(後醍醐天皇とされます)、兼好が堀川大納言のもとへ用事で参上すると、大納言が『論語』の四・五・六巻を広げて何かを探している。「紫の朱を奪うことを悪む」という一文を、東宮がご覧になりたいとおっしゃっているが見つからない、と言うのです。
【原文】「九の卷のそこそこの程に侍る。」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。
「それは九巻のどこそこにございます」と答えると、大納言は「ああうれしい」と言って、東宮のもとへ持って行った。
この段は、兼好が堀川家に出入りしていた証拠として、通説の「堀川家に仕えた」という経歴の根拠の一つにもなってきました。ただし兼好は、この話を得意げには書いていません。すぐあとに、こう続けます。
【原文】かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。
この程度のことは子どもでも普通に知っていることだが、昔の人はちょっとしたことでも大げさに自讃したものだ。そう言って、藤原定家が後鳥羽院の問いに答えられたことを「道の冥加なり、高運なり」(冥加=みょうが、神仏の加護)と大げさに書き残した例を挙げます。
自慢を七つ並べながら、自慢すること自体を少し笑っている。七つのうちには、鐘の銘の誤りを見抜いた話、古い額の筆者を裏書きの有無で言い当てた話もあれば、最後には、夜の法会で美しい女にすり寄られて席を立ったら、あとで「色気のない人だ」と噂されていた、という話まで入っています。しかもそれは、ある高貴な方が兼好をためそうと女房を差し向けた仕掛けだった、というオチつきです。
自分の出自も官歴も書かなかった人が、自慢話だけは七つ書き、しかもその一つを自分が笑われる話にしている。兼好という人の照れと可笑しみが、いちばんよく出ている段です。
出典:徒然草 第238段
八、歌人・兼好 ― 和歌四天王と、頓阿
兼好は、生前には随筆家としてではなく、歌人として知られていました。二条為世の門下で、元亨四年(一三二四)に兼好が書写した『古今和歌集』の奥書には、為世から家の説を伝えられたことが記されています。勅撰和歌集にも歌が採られ、自分で編んだ家集(『兼好法師家集』)も残っています。
のちに室町時代の歌人・正徹(しょうてつ)は、為世門下の頓阿・慶運・浄弁・兼好の四人を、和歌の「四天王」と呼びました。この四人のうちの頓阿が、『徒然草』に登場します。
【原文】「羅の表紙は、疾く損ずるが侘しき。」と人のいひしに、頓阿が、「羅は上下はづれ、螺鈿の軸は、貝落ちて後こそいみじけれ。」と申し侍りしこそ、心勝りて覺えしか。
薄絹(羅:うすもの)の表紙はすぐに傷むのが困る、と誰かが言ったのに対して、頓阿が「薄絹は上下の端がほつれ、螺鈿(らでん)の軸は貝が落ちてからこそ味わいがある」と言った。兼好はそれを「さすがだ」と感じた、と書いています。
この段は、「總て何も皆事整ほりたるはあしき事なり」(何もかも整っているのはよくない)と続き、徒然草の名言の記事で取り上げた「花は盛りに」の段と同じ美意識につながっていきます。歌の仲間との会話から、兼好の物の見方が育っていったことが分かる段です。
出典:徒然草 第82段
九、同時代の事件を、どう書いたか
兼好が生きたのは、鎌倉幕府が倒れ、南北朝の争いが始まる激動の時代です。けれども『徒然草』には、政治の大事件はほとんど書かれていません。わずかに、その影が見える段があります。
【原文】爲兼大納言入道めしとられて、武士ども打ち圍みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一條わたりにてこれを見て、「あな羨し。世にあらむおもひで、かくこそ有らまほしけれ。」とぞいはれける。
歌人の京極為兼(きょうごく ためかね)が捕らえられ、武士に囲まれて六波羅へ連れて行かれるのを見て、日野資朝(ひの すけとも)が「ああ、うらやましい。この世に生きた思い出としては、こうありたいものだ」と言った、という短い段です。為兼が捕らえられたのは正和四年(一三一五)の暮れのことでした。
その資朝自身が、のちに後醍醐天皇の倒幕計画に関わったとして捕らえられ(正中の変、一三二四年)、佐渡に流され、元弘二年(一三三二)にその地で斬られます。兼好は、資朝の最期を書いていません。書いたのは、資朝が他人の捕縛を「うらやましい」と言ったこと、そして次の段で、曲がった植木を好んでいたのを、あるとき急につまらなく感じてすべて掘り捨てた、という逸話だけです。
事件そのものではなく、事件のそばにいた人がどんな言葉を吐き、どう振る舞ったか。兼好はそこだけを書き留めました。読む人が資朝のその後を知っていれば、この短い段はまったく違う重さで読めます。
十、恋文の代筆 ― 『太平記』が書いた晩年
兼好の晩年でいちばん有名な話は、『徒然草』ではなく、軍記物語の『太平記』に出てきます。巻二十一、足利尊氏の執事・高師直(こうの もろなお)が、塩冶判官(えんやはんがん)高貞の妻に横恋慕する場面です。
師直は、「兼好と云ける能書の遁世者」(兼好という字のうまい遁世者)を呼んで恋文を書かせます。ところが使いが戻って言うには、相手は手紙を手に取ったものの開けもせず、庭に捨ててしまった。師直は大いに機嫌を損ね、「いや/\、物の用に立ぬ物は手書也けり。今日より其兼好法師、是へよすべからず」――役に立たないのは字のうまい奴だ、今日からあの兼好法師をここへ寄せつけるな、と言い放ちます。
この話は江戸時代の芝居や読み物の素材になり、兼好に「粋な法師」という印象を与えました。ただし、『太平記』は脚色の多い物語で、この場面をそのまま史実とみることはできません。
一方で、兼好が晩年、足利方の武家と近かったことは、別の記録からも確かめられます。康永三年(一三四四)には高野山金剛三昧院に奉納された和歌の作者に名を連ね、貞和四年(一三四八)ごろには師直の周辺にいたことが分かっています。確かな記録で最後に兼好の名が見えるのは、文和元年(一三五二)八月です。『太平記』の話は、そうした実際の関係を下敷きにした、面白い作り話と考えるのが穏当でしょう。
十一、「唯一人あるのみこそよけれ」 ― 退屈を選んだ人
兼好が何を望んで生きていたのかを、いちばん率直に書いたのは七十五段かもしれません。
【原文】つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。
することがなく退屈だと嘆く人は、どういう心なのだろう。何にも気を紛らわされず、ただ一人でいることこそよいのに。世間に合わせれば心は外の塵に奪われて惑い、人と交われば言葉は相手の耳に合わせることになって、本心ではなくなる。
序段の「つれづれなるまゝに」は、この「つれづれ」です。退屈は、兼好にとって嘆くものではなく、手に入れたいものでした。
とはいえ、兼好は一人きりで暮らしていたわけではありません。歌会に出て、貴族の家に出入りし、武家に頼まれて筆を執った。その合間に手に入る「つれづれ」を大事にした人です。人づきあいのただなかにいたからこそ、一人の時間の値打ちが分かったのかもしれません。
出典:徒然草 第75段
十二、百年読まれなかった本
『徒然草』がいつ書かれたかも、はっきりしていません。国文学者の橘純一は、元徳二年(一三三〇)から元弘元年(一三三一)ごろにまとめられたと推定し、長く通説とされてきました。一方で近年は、長年書きためた文章を貞和五年(一三四九)ごろにまとめたとする説も有力です。
確かなのは、この本が書かれてからおよそ百年、ほとんど読まれた形跡がないことです。同時代の記録に『徒然草』への言及は見当たりません。
いま残るいちばん古い写本は、先に和歌四天王の名づけ親として登場した正徹が、永享三年(一四三一)に書き写したものです(正徹本)。正徹はこの本に目をとめ、写本に作者を兼好法師と記しました。応仁の乱のころには、無常を語る文学として読まれるようになります。
そして江戸時代、慶長十八年(一六一三)に烏丸光広(からすまる みつひろ)の校訂による版本が出ると、『徒然草』は『伊勢物語』と並んで、もっとも多く刷られた古典の一つになりました。注釈書も次々に書かれ、教訓の書として町人にまで読まれます。いま私たちが活字で読む『徒然草』の本文も、多くはこの烏丸本の流れを汲んでいます。
皮肉なことに、本が有名になると、作者の経歴も求められるようになります。江戸時代には、兼好を南朝の忠臣とする説や、晩年を伊賀国で過ごしたとする説、兼好の日記とされる偽の文書まで出回りました。こうした後世の兼好像は、川平敏文『兼好法師の虚像』(二〇〇六年)が詳しく追っています。吉田兼倶の系図も、その流れの最初の一つだったといえます。
結び ― 自分のことを書かなかった人
『徒然草』には、兼好の生年も、家柄も、官歴も、出家の理由も書かれていません。書かれているのは、兼好が見たこと、聞いたこと、考えたことだけです。金沢の浦の貝の呼び名、鎌倉の鰹の話、賀茂の競馬で居眠りする法師、山里の柑子の木、頓阿の一言、資朝のつぶやき。
自分のことを書かなかったから、後世の人がそこを埋めました。吉田家の系図が官歴を与え、『太平記』が恋文の代筆をさせ、江戸の人々が南朝の忠臣にしました。「吉田兼好」という、本人が一度も名乗らなかった名前は、その埋め合わせの跡です。
それでも、兼好が自分について書いた数少ない段を並べると、一つの姿が浮かびます。場面に合った一言が人を動かすことを知っていた人。美しい庵の奥にある欲まで見てしまう人。自慢を七つ書きながら、自慢することを笑える人。そして最後の段に、自分が語った話ではなく、父が自分のことを語って面白がった話を置いた人です。
経歴は、あとからいくらでも書き換えられます。けれども、その人が何をどう見たかは、書いたものの中にしか残りません。兼好の生涯でいちばん確かなのは、七百年近く前のその目が、いまも『徒然草』の中で動いていることです。
この記事の出典について
『徒然草』の原文は、師導が収録する本文(旧字体)をそのまま切り出しました。各節末のリンクから、その段の全文・現代語訳・解説をご覧いただけます。師導の『徒然草』は、通行本の序段と第一段を一つの段としてまとめて収録しています。
兼好の経歴のうち、「吉田兼倶による系図の捏造」と「金沢氏のもとに仕えた」とする見方は、小川剛生『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、二〇一七年)と、その内容紹介・書評に拠りました。本記事は新説を断定するものではなく、通説との違いを示すにとどめています。正和二年の売券、延慶元年の金沢貞顕の書状、元亨四年の『古今和歌集』奥書、康永三年・貞和四年・文和元年の記録は、辞典類と研究の整理に拠っています。
『太平記』巻二十一の引用は、同書の本文によりました(師導には未収録のため、章句へのリンクはありません)。京極為兼の捕縛(正和四年)と日野資朝の配流・処刑の年は、一般的な歴史事典の記述に拠っています。『徒然草』の成立年代には複数の説があり、本記事では代表的な二説を示しました。
→ 徒然草の名言12選 — 原文・現代語訳と、兼好が見た「失敗はどこで起きるか」
→ 徒然草の章句一覧
自分の書に自分の人生を書き残した、ほかの著者たちの記事もあります。
→ 二宮尊徳の生涯 ― 桜町の復興、天保の飢饉、日光まで。金次郎像はいつ生まれたか
→ 世阿弥の生涯 ― 『風姿花伝』年来稽古条々で読む、将軍の寵愛から佐渡配流まで