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二宮翁夜話 / 巻之一

翁曰く、親の子における、農の田畑に於る、我道に同じ。親の子を育る無頼となるといへども、養育料を如何せん。農の田を作る、凶歳なれば、肥代も仕付料も皆損なり。夫れ此道を行はんと欲する者は此理を弁ふべし。吾始て、小田原より下野の物井の陣屋に至る。己が家を潰して、四千石の興復一途に身を委ねたり。是則ち此道理に基けるなり。夫れ釈氏は、生者必滅の理を悟り、此理を拡充して自ら家を捨、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり。只此一理を悟るのみ。夫れ人、生れ出でたる以上は死する事のあるは必定なり。長生といへども、百年を越るは稀なり。限りのしれたる事なり。夭と云ふも寿と云ふも、実は毛弗の論なり。譬ば蝋燭に大中小あるに同じ。大蝋といへども、火の付たる以上は四時間か五時間なるべし。然れば人と生れ出でたるうへは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活れば則ち一日の儲、一年活れば一年の益なり。故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり。予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」。夫れ此世は、我人ともに僅の間の仮の世なれば、此身は、かりの身なる事明らかなり。元のあるじとは天を云ふ。このかりの身を我身と思はず、生涯一途に世のため人のためのみを思ひ、国のため天下の為に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道橋整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫れのみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我此身である、といふ心にてよめるなり。是我畢生の覚悟なり。我道を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず。

書き下し

翁(おきな)曰(いわ)く、親の子における、農の田畑に於(お)ける、我道(わがみち)に同じ。親の子を育(そだ)つる、無頼(ぶらい)となるといへども、養育料を如何(いかん)せん。農の田を作る、凶歳(きょうさい)なれば、肥代(こやしだい)も仕付料(しつけりょう)も皆損なり。夫(そ)れ此道を行はんと欲する者は此理を弁(わきま)ふべし。吾(われ)始めて、小田原より下野(しもつけ)の物井(ものい)の陣屋に至る。己(おのれ)が家を潰して、四千石の興復(こうふく)一途(いちず)に身を委(ゆだ)ねたり。是(これ)則(すなわ)ち此道理に基けるなり。夫れ釈氏(しゃくし)は、生者必滅(しょうじゃひつめつ)の理を悟り、此理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日の如き道を弘(ひろ)めたり。只此一理を悟るのみ。夫れ人、生れ出でたる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり。長生といへども、百年を越(こ)ゆるは稀なり。限りのしれたる事なり。夭(わかじに)と云ふも寿(ながいき)と云ふも、実は毛弗(もうふつ)の論なり。譬(たと)へば蝋燭(ろうそく)に大中小あるに同じ。大蝋(たいろう)といへども、火の付きたる以上は四時間か五時間なるべし。然れば人と生れ出でたるうへは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活(い)くれば則ち一日の儲(もうけ)、一年活くれば一年の益なり。故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり。予(わ)が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」。夫れ此世は、我人(われひと)ともに僅(わず)かの間の仮の世なれば、此身は、かりの身なる事明らかなり。元のあるじとは天を云ふ。このかりの身を我身と思はず、生涯一途に世のため人のためのみを思ひ、国のため天下の為に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免(まぬか)れ富有になり、土地開け道橋(みちはし)整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫れのみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我此身である、といふ心にてよめるなり。是我畢生(ひっせい)の覚悟なり。我道を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず。

現代語訳

翁が言われた。親が子に対するのも、農民が田畑に対するのも、私の道と同じである。親が子を育てても、その子が無頼になってしまえば、かけた養育の費用はどうにもならない。農民が田を作っても、凶作の年なら肥料代も植え付けの費用もみな損になる。この道を行おうとする者は、この道理をわきまえるべきだ。私は初めて小田原から下野の物井の陣屋に赴任したとき、自分の家を潰して、四千石の復興にひたすら身を捧げた。これもこの道理に基づいてのことである。そもそも釈迦は「生ある者は必ず滅する」という理を悟り、それを推し広げて自ら家を捨て妻子を捨て、今日のような仏道を広めた。ただこの一理を悟っただけである。そもそも人は、生まれた以上は必ず死ぬに決まっている。長生きといっても百年を越えるのは稀で、限りは知れている。若死にといい長寿といっても、実はごくわずかな差の議論にすぎない。たとえば蝋燭に大中小があるのと同じだ。大きな蝋燭でも、火がついた以上は四、五時間で燃え尽きる。とすれば、人と生まれた以上は必ず死ぬものと覚悟すれば、一日生きれば一日の儲け、一年生きれば一年の益である。だから本来この身もない、この家もないものと覚悟すれば、あとはあらゆることがみな儲けだ。私は歌に「かりの身を元の主に貸し渡し、民が安らかであれと願うこの身よ」と詠んだ。そもそもこの世は、自分も他人もともにわずかな間の仮の世だから、この身が仮の身であることは明らかだ。「元の主」とは天のことである。この仮の身を自分のものと思わず、生涯ひたすら世のため人のためだけを思い、国のため天下のために益あることだけに努め、一人でも一家でも一村でも、困窮を免れて豊かになり、土地が開け道や橋が整い、安らかに暮らしていけるように――そのことだけを日々の務めとし、朝夕願い祈って怠らないこの身である、という心で詠んだのである。これが私の生涯の覚悟だ。私の道を行おうと思う者は、知らずにいてはならない。

解説

尊徳の生涯の覚悟を語る、報徳思想の精神的な核が凝縮された一条です。親が子を育てても無頼になれば養育費は戻らず、農が田を作っても凶作なら費用は損になる――そう覚悟したうえで、なお道に身を委ねよと説きます。尊徳自身、小田原から下野の物井へ赴任した際、自分の家を潰して四千石復興に身を捧げました。人は生まれた以上必ず死に、寿命の長短はわずかな差にすぎない。ならば「この身も家も本来ないもの」と覚悟すれば、生きる一日一日がすべて儲けだと言うのです。有名な歌「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」に示されるとおり、この身は天からの借り物であり、それを世のため人のために使い切る――ここに尊徳の無私の献身がうかがえます。死を見据えることで今を最大限に生かすという逆説は、現代の生き方にも深い示唆を与えます。

この章句が説くこと

二宮翁夜話報徳かりの身無私至誠積小為大

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