伊達政宗の名言として、まずこれが挙がります。

「仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎれば諂いとなる。智に過ぎれば嘘をつく。信に過ぎれば損をする」。

五常訓と呼ばれるものです。仁義礼智信という儒教の五つの徳を挙げて、そのどれもが「過ぎれば」欠点に転じると言う。徳を裏側から見ている点が新鮮で、額装され、手ぬぐいになり、講演で引かれ、ビジネス書に載ってきました。

ところが、この五常訓は政宗が書いたものではありません。

初出は明治二十七年(一八九四年)の刊行物で、伊達家に関わる史料のなかに、その根拠となるものは見つかっていません。つまり、政宗の死からおよそ二百六十年後に現れた文章です。

先に断っておくと、この記事は五常訓をけなすためのものではありません。内容は、驚くほどよくできています。 なぜよくできているのかを、東洋古典の原文にあたって説明します。

そのうえで、もう一つの問いを立てます。では、政宗が確実に残したものは何なのか。

答えは、あります。彼の漢詩です。 政宗は、戦国大名のなかでも屈指の文化人でした。漢詩、和歌、能、茶、香。膨大な作品が残っており、しかもその素養の出どころもはっきりしています。この記事では、そちらも辿ります。

伊達政宗とは、何をした人か ― 三十三年、遅れて生まれた男

先に輪郭を押さえます。

永禄十年(一五六七年)、出羽米沢に生まれました。幼名は梵天丸。幼くして疱瘡(天然痘)で右目を失い、のちに「独眼竜」と呼ばれます。

年号だけ見ても実感が湧かないので、比較してみます。

織田信長は一五三四年生まれ。政宗より三十三歳上。
豊臣秀吉は一五三七年生まれ。三十歳上。
徳川家康は一五四三年生まれ。二十四歳上。

政宗が家督を継いだ十八歳のとき、信長はすでに本能寺で死んでいます。この人は、天下取りのレースが最終盤に入ってから、ようやくスタートラインに立ちました。

それでも、東北ではめざましく勢力を広げます。二十三歳の天正十七年(一五八九年)、摺上原の戦いで蘆名氏を破り、南奥州の広い範囲を手中に収めました。

そして翌年、秀吉の小田原征伐。政宗は参陣を遅らせた末に、死装束で秀吉の前に現れたと伝えられます。演出です。この人は、演出をよく理解していました。

以後は豊臣、そして徳川のもとで、仙台六十二万石の大名として生きます。慶長十八年(一六一三年)には家臣・支倉常長をヨーロッパへ派遣しました。慶長遣欧使節です。日本の一大名が、太平洋を渡ってスペイン、ローマまで使節を送っている。

寛永十三年(一六三六年)没。享年七十。信長の生まれた年から数えれば、百年以上あとの世界まで生き延びたことになります。

「あと二十年早く生まれていれば」と語られ続ける武将ですが、この記事で見るかぎり、政宗という人の主題はむしろ「遅れて来た者は、どう振る舞うか」でした。

「五常訓」は、政宗の言葉ではない

まず、五常訓の全文を挙げます。

仁に過ぎれば弱くなる
義に過ぎれば固くなる
礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる
智に過ぎれば嘘をつく
信に過ぎれば損をする

美しい構造です。五つの徳が、五つとも同じ形で裏返される。読んだ瞬間に頭に入り、覚えやすい。

さて、出どころです。

この文章の初出は、明治二十七年(一八九四年)の『好古叢誌』第三編八の巻の漫録に載る「仙台黄門政宗卿遺訓」です。 そして、伊達氏に関連する史料のなかに、その根拠となるものは見当たりません。

政宗が没したのは寛永十三年(一六三六年)。初出との差は、約二百六十年です。

しかも、これは珍しい話ではありません。徳川家康の「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」も、同じ構図でした。 あちらは江戸後期に徳川光圀の言葉として流布していたものが、明治十一年(一八七八年)ごろ、元旗本によって家康の署名と花押つきで日光東照宮に奉納されたものです。

徳川家康の愛読書 ― 名言「人の一生は重荷を負うて」の真偽と、家康が刷った本

明治という時代に、戦国武将の「遺訓」がいくつも現れた。 これは偶然ではないと思います。近代国家をつくる過程で、日本人の徳目を体現する人物像が必要とされた。そこに、武将の名前が使われた。

では、五常訓の値打ちは下がるのでしょうか。下がらない、というのがこの記事の立場です。

理由は単純で、書かれている内容そのものが正しいからです。誰が書いたかとは別に、この五行は東洋の徳論の急所を突いています。次の章で、その根拠を原典に見ます。

ただし、引用するときは「政宗の作と伝えられる」と添えるべきです。そして、もし政宗という人物について知りたいのであれば、この五行を読んでも何も分かりません。ここに書かれているのは、明治の人が思い描いた政宗像です。

それでも五常訓が鋭い理由 ― 「賢者は之に過ぎる」

【白文】子曰:「道之不行也,我知之矣:知者過之,愚者不及也。道之不明也,我知之矣:賢者過之,不肖者不及也。人莫不飲食也,鮮能知味也。」
【書き下し】子曰く、「道の行われざるや、我之を知れり。知者は之に過ぎ、愚者は及ばざるなり。道の明らかならざるや、我之を知れり。賢者は之に過ぎ、不肖者は及ばざるなり。人飲食せざるは莫きも、能く味を知ること鮮(すく)なし」と。

道が行われないわけを、私は知っている。知者は行き過ぎ、愚者は足りない。 道が明らかにならないわけを、私は知っている。賢者は行き過ぎ、不肖者は足りない。 人は誰でも飲み食いしているが、その味が分かる者は少ない——。

『中庸』の一段です。五常訓の構造は、まさにここから来ています。

孔子は、道が実現しない理由を二つに分けました。足りない側と、行き過ぎる側。

そして重要なのは、行き過ぎる側にいるのが「知者」と「賢者」だと名指ししている点です。愚か者が足りないのは当然として、優れた人は過剰によって道を外す、と言っている。

五常訓が鋭いのは、この一点を五つに展開しているからです。

仁に過ぎれば弱くなる。 思いやりが深い人ほど、切るべきときに切れない。
義に過ぎれば固くなる。 筋を通す人ほど、融通が利かなくなる。
礼に過ぎれば諂いとなる。 礼儀正しい人ほど、いつのまにか媚びに見える。
智に過ぎれば嘘をつく。 頭の回る人ほど、辻褄を合わせられてしまう。
信に過ぎれば損をする。 人を信じる人ほど、裏切られる。

五つとも、欠点ではなく美点の暴走です。 そして五つとも、その人が優れているからこそ起きる。

『中庸』の最後の一句も見逃せません。「人飲食せざるは莫きも、能く味を知るは鮮なし」——誰でも毎日飲み食いしているが、味が分かる者は少ない。

徳も同じだ、と言っています。誰でも仁や義を口にするが、その適量が分かる者は少ない。 五常訓が測っているのは、まさにその適量です。

実務で言えば、これは優秀な人の管理の話になります。仕事のできない人の問題は見えやすく、対処法もはっきりしています。難しいのは、優秀な人が良かれと思ってやりすぎているとき。品質を上げすぎる、責任を負いすぎる、公平にこだわりすぎる。どれも正しさの形をしているので、止めにくい。

出典:中庸

五常とは何か ― 孟子の「四端」から

【白文】孟子曰、人皆有不忍人之心。……所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。
【書き下し】孟子曰く、「人皆人に忍びざるの心有り。……人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(たちまち)ち孺子の將に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隱の心有り。

五常訓を読むには、そもそも五常が何かを知っている必要があります。ここで一度、大元にさかのぼります。

孟子は、「人皆、人に忍びざるの心有り」——人には誰でも、他人の苦しみを見過ごせない心がある、と言いました。

そして、その証拠として有名な例を出します。幼い子どもが、いままさに井戸に落ちようとしている場面を見たとする。 そのとき人は、誰でも「はっとして、いたたまれない気持ち(怵惕惻隠の心)」を起こす。

孟子はここで、念を押しています。その気持ちは、子どもの親と親しくなりたいからでも、近所や友人に褒められたいからでも、助けなかったという評判を嫌ったからでもない。 何の計算もなく、反射的に湧く。だから、それが人間に生まれつき備わっている証拠なのだ、と。

この「惻隠の心」を含む四つの芽が、四端(したん)です。

惻隠の心は、仁の端。 見過ごせない気持ち。
羞悪の心は、義の端。 恥じ、憎む気持ち。
辞譲の心は、礼の端。 譲る気持ち。
是非の心は、智の端。 善悪を判断する気持ち。

「端」とは、芽です。完成品ではなく、育てるべき出発点として書かれている。

のちに漢代の董仲舒がこれに「信」を加え、仁義礼智信=五常という枠が定まりました。五常訓が裏返しているのは、この五つです。

ここで面白いことに気づきます。孟子は四端を「芽」と呼びました。芽は、育てるものです。 ところが五常訓は、育ちすぎた場合の話をしている。

孟子が「足りない側」を心配し、五常訓が「過ぎる側」を心配している。二千年の隔たりのあいだに、問題の所在が移動したのだと読むこともできます。

五常そのものについては、一つずつ丁寧に解説した記事があります。

仁義礼智信(五常)とは何かを完全解説。

出典:孟子 公孫丑章句上

徳は、実物に引き戻せる

【白文】孟子曰、仁之實、事親是也。義之實、從兄是也。智之實、知斯二者弗去是也。禮之實、節文斯二者是也。樂之實、樂斯二者。
【書き下し】孟子曰く、「仁の實は、親に事うること是れなり。義の實は、兄に從うこと是れなり。智の實は、斯の二者を知りて去らざること是れなり。禮の實は、斯の二者を節文すること是れなり。樂の實は、斯の二者を樂しむ。

もう一つ、孟子から引きます。こちらは五常訓とは逆の方向を向いた一段です。

仁の実(じつ)は、親に仕えること。
義の実は、兄に従うこと。
智の実は、この二つを知って手放さないこと。
礼の実は、この二つに形と節度を与えること。
楽の実は、この二つを楽しむこと。

「実」とは、中身、実質のことです。

孟子はここで、抽象的な徳目を、具体的な行動に引き戻しています。 仁とは何かを哲学的に定義するのではなく、「親に仕えること」だと言い切る。義とは「兄に従うこと」だ、と。

言い方が乱暴に見えるかもしれません。ですが、この乱暴さには意味があります。

徳は、定義を精密にするほど実行から遠ざかるからです。

「仁とは、他者への根源的な共感であり……」と定義を積み上げていくと、話は美しくなりますが、明日から何をすればいいのかは分からなくなる。孟子は逆をやりました。まず手の届く行為を一つ指定して、そこから広げていく。

そして五常訓と並べると、対称になっているのが分かります。

孟子は「徳を実物に引き戻せ」と言った。
五常訓は「その実物が、過ぎたらどうなるか」を言った。

どちらも、徳を頭の中の話にしないための工夫です。抽象的なままなら、過剰も不足も測れません。測れるところまで下ろして初めて、「過ぎている」と言えるようになる。

実務でも同じです。「顧客第一」は、そのままでは点検できません。「電話は三コール以内に取る」まで下ろせば点検できるし、下ろして初めて「三コール以内にこだわりすぎて中身が雑になっている」という過剰も見えるようになります。

出典:孟子 離婁章句上

「需は須つなり」 ― 遅れて来た者の時間

【白文】“需”,須也。險在前也,剛健而不陷,其義不困窮矣。“需,有孚,光亨,貞吉”,位乎天位,以正中也。“利涉大川”,往有功也。
【書き下し】「需」は、須つなり。険前に在るなり。剛健にして陥らず、其の義困窮せず。「需は孚有り、光いに亨り、貞にして吉」とは、天位に位して、正中を以てなり。「大川を渉るに利ろし」とは、往きて功有ればなり。

ここから、政宗という人物のほうへ話を戻します。

『易経』に「需(じゅ)」という卦(か)があります。「需は須(ま)つなり」——需とは、待つことである。

そして、待つ理由が書かれています。「険、前に在るなり」——危険が前方にあるから。

大事なのは、その次です。「剛健にして陥らず、其の義困窮せず」。 待っている者は、剛健でありながら落とし穴にはまらない。だから行き詰まらない。

つまりここで言う「待つ」は、あきらめでも停滞でもありません。 剛健、つまり力を保ったままの待機です。前に危険があると分かっているから、いま進まないだけ。そして最後にはこうあります。「大川を渉るに利あり。往きて功有るなり」——いずれ大河を渡り、功を立てる。

待つことの中身は、渡る準備です。

政宗の生涯を、この卦で読むとどうなるか。

十八歳で家督を継いだとき、天下はすでに秀吉のものになりつつありました。東北で勢力を広げても、中央には届かない。小田原に遅れて参陣し、死装束で許しを乞い、以後は豊臣、次いで徳川の下で生きます。

この人は、五十年近く「待つ」立場にいました。

そのあいだ、何をしていたか。仙台の城下町を設計し、北上川を改修して新田を開き、塩釜から江戸への廻米ルートを作り、そして家臣をヨーロッパまで送っています。待っているだけの人の動きではありません。

野心があったかどうかは、諸説あるところです。ですが、少なくともこの人は「剛健にして陥らず」を五十年やり切りました。 徳川の世で取り潰された大名は数多くありますが、伊達家は幕末まで残っています。

実務に置き換えるなら、待機の質の話になります。動けない時期は必ず来ます。 資金がない、市場がまだない、上が変わらない。そのとき「待つ」と「止まる」は、外から見ると同じです。

違いは一つだけです。その期間に、渡る準備が積み上がっているかどうか。

出典:易経 彖伝

「進道は退くが若し」 ― 大器晩成という言葉の、本当の意味

【白文】上士聞道,勤而行之;中士聞道,若存若亡;下士聞道,大笑之。不笑不足以為道。故建言有之:明道若昧;進道若退;夷道若纇;上德若谷;大白若辱;廣德若不足……
【書き下し】上士は道を聞けば、勤めて之を行う。中士は道を聞けば、存するが若く亡きが若し。下士は道を聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば以て道と為すに足らず。故に建言に之れ有り。明道は昧きが若く、進道は退くが若く、夷道は纇なるが若し。上徳は谷の若く、大白は辱の若く、広徳は足らざるが若く……

『老子』第四十一章です。「大器晩成」という言葉が出てくる章としても知られています。

前半が面白い。道を聞いたときの反応が、三段階で書かれています。優れた者は実行し、中くらいの者は半信半疑、劣った者は大笑いする。 そして一言。「笑わざれば以て道と為すに足らず」——笑われないようなら、それは道と呼ぶに値しない。

後半に並ぶのは、逆説の列です。

明道は昧きが若く。 本当に明るい道は、暗く見える。
進道は退くが若く。 本当に前進する道は、退いているように見える。
夷道は纇なるが若く。 平坦な道は、でこぼこに見える。
上徳は谷の若く。 最高の徳は、谷のように低く見える。
広徳は足らざるが若し。 広い徳は、足りないように見える。

一貫しているのは、本物は、外から見ると逆に見えるということです。

そして、この列のなかに「大器晩成」が置かれています。大きな器は、遅れて完成する。

ここで一つ注意しておきたいことがあります。「大器晩成」は現代では慰めの言葉として使われがちです。まだ結果が出ていない人に「君は大器晩成型だから」と言う、あの用法です。

ですが、老子の文脈で読むと、意味は違います。これは慰めではなく、観察です。 大きなものは、時間がかかる。だから途中では、できていないように見える。外から見て「遅い」ことと、中身が大きいことは、両立する。

政宗は、生涯このズレのなかにいた人でした。二十代で東北を制しても、中央から見れば「遅れて来た地方大名」です。仙台の城下町も、北上川の改修も、遣欧使節も、同時代の中央からは、辺境の変わった大名の道楽に見えたかもしれません。

けれども仙台という都市は残り、伊達家は幕末まで残りました。

「進道は退くが若し」——前に進んでいるとき、外からは退いて見えることがある。そして本人にも、そう見えることがあります。

出典:老子 第41章

「平常心是れ道」 ― 政宗の教養は、どこから来たのか

【白文】南泉因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道。州云。還可趣向否。泉云。擬向即乖。州云。不擬爭知是道。泉云。道不屬知。不屬不知。知是妄覺。不知是無記。
【書き下し】南泉、趙州問ふに因る、「如何なるか是れ道」。泉云く、「平常心是れ道」。州云く、「還って趣向す可きや否や」。泉云く、「向かはんと擬(ぎ)すれば即ち乖(そむ)く」。州云く、「擬せずんば爭(いか)でか是れ道なるを知らん」。泉云く、「道は知に屬せず、不知に屬せず。知は是れ妄覺、不知は是れ無記。

政宗の教養が、どこから来たのかという話をします。

政宗の師は、臨済宗妙心寺派の高僧・虎哉宗乙(こさいそうい)でした。政宗が幼いころから師事し、生涯にわたって影響を受けています。つまり政宗の学問の土台は、禅です。

戦国大名にとって、これは珍しいことではありません。信玄も謙信も禅僧に学びました。ただ政宗の場合、その素養が漢詩・和歌・能・茶・香という形で、はっきり作品として残っています。

禅の代表的な公案集『無門関』の第十九則を挙げます。日本でもよく知られた問答です。

趙州が南泉に問います。「如何なるか是れ道」——道とは何ですか。
南泉が答えます。「平常心是れ道」——ふだんの心が、そのまま道である。

趙州が食い下がります。「では、それに向かって進めばよいのですか」。
南泉。「向かおうとした時点で、外れる」。

趙州。「向かおうとしなければ、どうしてそれが道だと分かるのですか」。
南泉。「道は、知ることにも、知らないことにも属さない。知は妄覚であり、知らないことは無記(何もないこと)だ」。

この問答が厄介なのは、「平常心でいよう」と思った瞬間に、それは平常心でなくなるという構造を突いているところです。目指せば外れる。目指さなければ分からない。

けれども、実務的な含みは取り出せます。特別な状態を作ろうとしないこと。

危機のときだけ集中する人は、危機のたびに消耗します。大舞台でだけ本気を出す人は、大舞台以外が雑になる。ふだんと同じでいられるかどうかが、実力の中身だという読み方ができます。

政宗の伝えられる振る舞いには、この気配があります。死装束で秀吉の前に出た演出も、遣欧使節という途方もない企ても、当人にとっては「ふだんの延長」だったのではないかと思わせるところがある。

出典:無門関 第十九則 平常是道

「馬上少年過ぐ」 ― 政宗が確実に残したもの

【白文】道流!切要求取真正見解,向天下橫行……無事是貴人,但莫造作,秖是平常。
【書き下し】道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し……無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。

最後に、政宗が確実に残したもの——自作の漢詩を見ます。

いちばん知られているのが、この一首です。晩年の作で、「酔余口号(すいよこうごう)」——酔ったついでに口ずさんだ、という題が付いています。

馬上少年過 馬上に少年過ぐ
世平白髪多 世平らかにして白髪多し
残躯天所赦 残躯天の赦す所
不楽是如何 楽しまずんば是れ如何せん

馬に乗っているうちに、若い日は過ぎてしまった。世が平らかになってみれば、白髪ばかりが増えている。この老いた体は、天が赦してくれたものだ。楽しまずに、どうしようというのか。

短いのに、一句ごとに向きが変わります。前半二句は嘆きです。戦うだけで青春が終わり、平和になったころには老いていた。三句目で視点が変わり、生き延びたこと自体を「天の赦し」として受け取り直す。 そして最後、開き直りとも達観ともつかない一行。

この詩の底にあるものを、禅の言葉で名指しすると、たぶんこれになります。

「無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ」。

『臨済録』の一節です。「無事」とは、何も起きていないという意味ではありません。求めて外へ走り回るのをやめた状態を指します。臨済は続けます。造作するな、ただ平常であれ、と。

そして臨済録の別の箇所では、こうも言っています。仏法に努力する場所などない。ふだんのまま、無事でいることだ。糞をし、小便をし、服を着て、飯を食い、疲れたら寝る。愚かな者は私を笑うが、賢い者には分かる——。

「不楽是如何」——楽しまずに、どうしようというのか。

これは享楽の勧めではないと思います。戦うことに費やした前半生の外側にも、生活があると気づいた人の言葉です。実際、政宗の晩年は料理、茶、能、詩歌に彩られています。自ら包丁を取ったという話も残る。

若い日を馬上で過ごした男が、最後に見つけたのが「平常」だった。 師の虎哉宗乙から受け取ったものが、いちばん効いたのはここだったのかもしれません。

そして辞世は、こう伝わります。

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

曇りのない心の月を先に立てて、この世の闇を照らしながら行く——。

五常訓の出どころは不確かでも、この詩と歌は残っています。 政宗という人を知りたければ、こちらを読むほうが近い。

出典:臨済録 示衆

まとめ ― 遅れて来た者が、何を残したか

整理します。

「仁に過ぎれば弱くなる」で始まる五常訓は、政宗の言葉ではありません。 初出は明治二十七年(一八九四年)の刊行物で、伊達家の史料に根拠は見つかっていません。家康の「人の一生は重荷を負うて」と、同じ構図です。

それでも五常訓は、内容として正しい。 『中庸』が「知者は之に過ぎ、賢者は之に過ぎる」と書いたとおり、優れた人ほど過剰によって道を外します。五常訓は、その一点を五つに展開したものです。

五常のもとは、孟子の四端でした。 惻隠・羞悪・辞譲・是非——四つの「芽」。孟子は育てよと言い、五常訓は育ちすぎに注意せよと言う。二千年の隔たりが、そのまま問題の移動を示しています。

そして孟子は、徳を実物に引き戻しました。 仁の実は親に仕えること。定義を精密にするより、手の届く行為を一つ指定するほうが効く。

政宗自身の時間は、「需」の時間でした。 険が前にあるから、剛健を保ったまま待つ。五十年待って、伊達家は幕末まで残りました。

「進道は退くが若し」。 前に進んでいるとき、外からは退いて見える。大器晩成とは、慰めではなく観察です。

教養の土台は、虎哉宗乙に学んだ禅でした。 「平常心是れ道」。目指せば外れ、目指さなければ分からない。

そして残ったのが、「馬上少年過ぐ」の四行です。

最後に一つだけ書いておきます。

有名な遺訓が後世の作だと知ると、がっかりする人がいるかもしれません。ですが、辿ってみると、こちらのほうが面白いというのがこの記事の実感です。

明治の誰かが考えた「政宗らしい言葉」より、本人が酔って口ずさんだ四行のほうが、はるかに具体的で、はるかに人間的です。 馬上で青春が過ぎ、気づけば白髪で、生き残った体は天からの借り物で、それなら楽しむしかない。

遅れて来た男が、最後にたどり着いた結論がこれだった。 五常訓には、この味は出せません。

『中庸』『孟子』『易経』『老子』の各書は、師導に全文を収録しています。

中庸の名句一覧 孟子の名句一覧 易経の名句一覧 老子の名句一覧

同じ「明治の遺訓」の構図は、家康の記事で詳しく辿りました。

徳川家康の愛読書 ― 名言「人の一生は重荷を負うて」の真偽と、家康が刷った本

同じ明治期でも、性格の違う遺訓があります。 『南洲翁遺訓』は、西郷と戦った旧庄内藩の人々が直接聞いた話をまとめたもので、後世の仮託ではありません。

西郷隆盛の愛読書 ― 「敬天愛人」の出どころと、敵が作った遺訓

本記事の出典について

「五常訓」の初出は、明治二十七年(一八九四年)の『好古叢誌』第三編八の巻の漫録「仙台黄門政宗卿遺訓」であり、伊達氏に関連する史料のなかに根拠となるものは見当たらない——本記事はこの事実に基づいています。同種の文言が、幕末の写本類において別人の作として伝えられているという指摘もありますが、その典拠を確認できていないため、本文では触れていません。

五常訓の本文は、広く流布している表記のまま引用しました。 読みやすさのために手を入れてはいません。

漢詩「馬上少年過」と辞世の和歌は、政宗の作として伝わるものです。 漢詩には「酔余口号」という題が付いています。

伊達政宗が何を読んだかを直接示す蔵書目録のような記録は、多くありません。 本記事は、彼の師が臨済宗妙心寺派の虎哉宗乙であったこと、そして彼が漢詩・和歌・能・茶・香に通じた文化人であったことを出発点に、彼の置かれた状況と、東洋古典が同じ場面について書いていることを突き合わせるという方法をとっています。「政宗はこの書を読んでいた」と主張するものではありません。

漢籍の白文・書き下し文・現代語訳・解説は、すべて師導が収録する底本の値です。 長い章句は「……」で中略していますが、残した部分は一字も変えていません。各節の末尾のリンクから、その章句の全文と解説をご覧いただけます。