武田信玄といえば、風林火山。戦国最強とうたわれた武田軍が旗に掲げた四文字です。ただ、あの四文字が何を意味しているのか、そしてなぜ信玄がそれを選んだのかとなると、意外と知られていません。
先に答えを言ってしまうと、風林火山は信玄が考えた言葉ではありません。二千五百年前の中国の兵法書『孫子』の一節です。
信玄は、たいへんな読書家でした。甲斐国(いまの山梨県)の領主の家に生まれ、母が招いた禅僧のもとで、中国の古典を体系的に学んでいます。『孫子』などの兵法書、『論語』『孟子』といった儒教の書、歴代の皇帝の記録、禅の語録。当時の日本で望みうる最高水準の教育でした。
ここからが本題です。信玄は、それを教養として持っていただけではありませんでした。読んだ内容を、軍旗に、法律に、治水工事に、そのまま変換しています。本を読んで賢くなった人ではなく、本の中身を仕組みに変えた人でした。
この記事では、信玄が読んだ書物の原文にあたりながら、彼が何をどう使ったのかを一つずつ見ていきます。まずは、いちばん有名な旗から。
風林火山 ― 四文字の意味と、旗から外された二句
信玄といえば、風林火山。武田軍の旗には、正確にはこう書かれていました。
疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山
疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。紺色の絹地に金泥で大書されたこの旗は、信玄が深く帰依した恵林寺の僧・快川紹喜(かいせんじょうき)が筆を執ったものと伝えられます。
大事なのは、この四つが「武田軍の性格」を並べたものではない、という点です。速いのが取り柄でも、堅いのが取り柄でもない。四つの態度を、状況に応じて切り替えられるということが強さの中身でした。そして四つの中でいちばん難しいのは、実は「山」です。速く動くことより、動かずにいられることのほうが、はるかに難しい。
さて、出典は『孫子』軍争篇です。そして原文を見ると——四つではありません。六つあります。
【書き下し】故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し。
「知り難きこと陰の如く」——こちらの動きを敵に悟らせない。「動くこと雷震の如し」——突然かつ決定的な一撃。信玄は、末尾に並ぶこの二句を旗から外しました。
理由を考えると、筋が通っています。旗は、敵から見えるものだからです。 「陰」とは情報を隠し、意図を読ませないこと。それをわざわざ旗に書いて敵の目にさらすのは、自分の手の内を明かすのと同じでした。
見せる四つと、伏せる二つ。 信玄は『孫子』をそのまま写したのではなく、旗という道具の性質を計算したうえで選び分けていた。原典に六つあることを知らなければ、この判断そのものが見えません。
六句にはさらに続きがあること、「風林火山」という呼び名が信玄のものではないこと、そして孫子が同じ篇で「そもそも旗は何のためにあるのか」を説明していることまで含めて、この四文字だけを深く辿った記事を別に用意しています。
→ 風林火山の意味 ― 原文には六句ある。そして信玄はこの言葉を使っていない
出典:孫子 軍争篇
旗そのものの記録も残っています。武田軍の旗は全部で六本。赤地に八幡大菩薩が二本、赤地に将軍地蔵大菩薩が二本、武田二十七代までの御旗が一本、そして黒地に金で四句を書いたものが一本でした。この旗が使われはじめたのは川中島の合戦から。三方ヶ原のあと、信長と手切れして東美濃へ向かうときに「天上天下唯我独尊」の二句が加えられます。そして持たせはじめた翌月、信玄は死にました。天正元年三月に持たせはじめ、四月十二日に他界。旗を変えた直後の死でした。
出典:甲陽軍鑑 品第四十二
信玄がいちばん嫌ったのは、戦うことだった
戦国最強と呼ばれた武将が最も重んじた教えは、意外なものです。同じ『孫子』の一節をご覧ください。
【書き下し】是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。
百回戦って百回勝つのは、最高ではない。戦わずに相手を屈服させることこそ、最高である——。
きれいごとに聞こえるかもしれません。ですが信玄にとって、これは理想ではなく必要でした。
甲斐国は、四方を険しい山に囲まれた内陸の国です。平地が少なく米がとれにくい。海がないので塩も自前では手に入りません。そのうえ、相模の北条、駿河の今川、越後の上杉と、複数の方角から常に圧力を受けていました。
この条件下では、一つの方角で兵と財を使い果たした瞬間、別の方角から食われます。孫子は「戦えば必ず自分も傷つき、資源を消耗し、勝っても得るものは目減りする」と書きましたが、甲斐ではそれが即座に致命傷になった。
だから信玄は、戦う前に決着をつけようとしました。調略で相手の家臣を寝返らせる。外交で敵の敵と手を結ぶ。勝算が立たない戦いには手を出さない。派手な決戦を避け続けたのは、慎重だったからではなく、そうしなければ国が保たなかったからです。
これは現代の経営でもそのまま使えます。正面から競合と体力勝負をするより、戦わずに済む立ち位置を先につくるほうが賢い。ただし、それを本気で選べるかどうかは、自社の体力を正確に見ているかで決まります。信玄がこの教えを実行できたのは、志が高かったからではなく、甲斐の乏しさから目をそらさなかったからでした。
出典:孫子 謀攻篇
情報は、人からしか取れない
『孫子』には「用間篇(ようかんへん)」という章があります。「間」とは間諜(かんちょう)、つまりスパイのことです。二千五百年前の兵法書に、情報活動だけを扱った章が独立して置かれている。
【書き下し】先知は、鬼神に取るべからず、事に象るべからず、度に験すべからず、必ず人に取り、敵の情を知る者なり。
「先知」とは、敵の状況を先に知ることです。それは神仏への祈りでは得られない。過去の似た出来事からの推測でも得られない。星の動きを占っても得られない。必ず人から取る——三つをきっぱり否定したうえで、孫子はそう言い切ります。
戦国時代に、占いや縁起担ぎを退けてここまで言い切れることの意味は小さくありません。信玄は「三ツ者」「乱波(らっぱ)」と呼ばれる専門の情報部隊を持っていました。彼らが敵国に入り込み、内情、地形、兵の数、家臣の不満まで持ち帰る。信玄が合戦の前に勝敗の大半を決めていたのは、この生の情報の量と精度によるものでした。
現代に置き換えても、そのまま通じます。データの外挿、前例の踏襲、経営者の勘。どれも「人から取る」の代わりにはなりません。現場に行く、顧客に会う、当事者に直接聞く。判断の質は、情報をどこから取ったかで決まります。
そしてもう一つ。この最も重要な技術こそ、信玄が旗から外した「陰」でした。使うけれども、掲げない。
出典:孫子 用間篇
殿様も、法律を破れない
信玄は軍事の人だと思われがちですが、統治者としての仕事のほうが大きいかもしれません。
天文十六年(一五四七年)、信玄は『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)』という法律を定めます。戦国大名が自分の領国のためにつくった法律を分国法(ぶんこくほう)といい、これはその代表例です。上巻五十七条が具体的な規制、下巻九十九条が心構えを定めています。
この法律が日本の法制史上で画期的だったのは、条文の中身より、ある一点でした。信玄自身も、この法律に従うと明記されているのです。法に不備があれば、身分を問わず直訴してよいとまで書いてあります。殿様が自分を縛る法律をつくった。当時としては異例のことでした。
その発想の下敷きにあるのが、中国の「法家(ほうか)」という考え方です。人の情や身分ではなく、明文化されたルールと賞罰で国を動かす、という思想。その代表的な書物『韓非子』に、こうあります。
【書き下し】過ちを刑するに大臣をも避けず、善を賞するに匹夫をも遺れず。
過ちを罰するときは、相手が高い地位の家臣でも遠慮しない。善い行いを褒めるときは、身分の低い庶民でも見逃さない。
罰するときだけ下の者に厳しく上には甘い。褒めるときだけ目立つ人ばかり見て、地道に働く人を見落とす。それをやった瞬間に、公平さは崩れます。会社の人事でも、家庭でも、起きていることは同じです。
信玄が法度に組み込んだのは、まさにこの一本の物差しでした。家臣が理由なく領地を取り上げることを禁じ、許可なく他国と手紙をやりとりしたり縁組したりすることを禁じ、けんかは理由を問わず双方を罰する「喧嘩両成敗」を定め、隠していた田畑は何十年たっていても調べ上げて年貢を取る。
狙いは二つあります。年貢を確実に集めること。そして、地方の有力者が勝手に裁いたり兵を動かしたりする権利を取り上げることです。これによって、誰が何人の兵をどんな装備で出すかを中央から管理できるようになりました。武田軍の強さを支えていたのは、騎馬隊の勇猛さより、この事務でした。
出典:韓非子 有度第六
信玄が下敷きにした『韓非子』については、名言を十二句集めた記事があります。分国法の背後にある発想が、原文で読めます。
→ 韓非子の名言12選 — 原文・現代語訳と、人の善意を当てにしない組織設計
「耳の痛い話」を聞く仕組みをつくる
厳しい法律だけで国を治めれば、人心は離れます。信玄はそこを別の書物で補いました。『貞観政要(じょうがんせいよう)』です。
これは唐の二代皇帝・太宗と、その家臣たちの議論を記録した本で、東洋における帝王学の教科書とされてきました。徳川家康も愛読しています。その中でも最も有名なやりとりが、これです。
【書き下し】君の明なる所以の者は、兼ね聴けばなり。其の暗なる所以の者は、偏り信ずればなり。
太宗が「よい君主と悪い君主の違いは何か」と尋ねたのに対し、家臣の魏徴(ぎちょう)が答えた言葉です。よい君主が明るいのは、あらゆる声を聴くから。悪い君主が暗いのは、一人だけを偏って信じるから。
魏徴はそのあと、実例を三つ挙げます。秦の二世皇帝は趙高という一人だけを信じ、天下で反乱が起きても知ることができなかった。梁の武帝は朱異だけを信じ、敵軍が宮殿の門に迫っても知らなかった。隋の煬帝は虞世基だけを信じ、賊が町を襲っても知らなかった。
いずれも、情報が一つの経路しかなく、その経路を握った人物に支配されていた例です。前の章で見た用間篇の、ちょうど裏返しになっています。
信玄がこれを重く受け止めた背景には、武田家の事情がありました。武田家はもともと、甲斐の独立心の強い地方領主たちの連合体から出発しています。当主が力で押さえ込める構造ではありませんでした。だから信玄は独裁に走らず、平時の政治では「評定」という会議を開き、家臣の意見を吸い上げる仕組みを制度として据えます。
ただし戦場では、正反対でした。「軍兵は 物言はずして 大将の 下知聞く時ぞ いくさには勝つ」——信玄が詠んだとされる歌です。平時は徹底的に聴き、戦時は一切の議論を許さない。この使い分けが、武田家の統治の骨格でした。
出典:貞観政要 君道
「兼ね聴けば明、偏り信ずれば暗」をはじめ、『貞観政要』の名言を十二句集めた記事もあります。太宗が晩年に少しずつ崩れていった記録まで、原文で読めます。
→ 貞観政要の名言12選 — 原文・現代語訳と、名君が崩れていく記録
信玄堤 ― 水を止めずに、弱める
信玄の事業でもう一つ有名なのが、治水です。
甲府盆地を流れる釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)は、たびたび大洪水を起こしていました。天文十一年(一五四二年)の洪水を受け、信玄は約二十年をかけて堤防の築造にかかります。のちに「信玄堤」と呼ばれるものです。
工法が独特でした。急流に正面から堤を築いて水を止めるのではありません。川の中に「聖牛(せいぎゅう)」という木組みの装置を置いて流れの勢いを弱め、堤で川筋を分けて力を散らす。真正面から力で受け止めず、勢いを削いで受け流す考え方です。のちに甲州流河除法(こうしゅうりゅうかわよけほう)と呼ばれ、日本の河川工学の出発点になりました。この発想には、中国の歴史書に記された黄河の治水技術の知識があったと考えられています。
では、なぜ戦国の真っ只中に、二十年もかけて堤を築くのか。その答えらしきものが、信玄が読んだ『管子(かんし)』にあります。斉の名宰相・管仲が、君主のやるべき仕事を五つ挙げた段です。
【書き下し】君の務むる所の者は五。……二に曰く溝瀆隘に遂げず、鄣水其の藏に安んぜざるは、國の貧しきなり。
管仲は、国が富んでいるか貧しいかを、金額で測りませんでした。現場の五つの様子で測ります。山や沢が火事から守られ、草木が育っているか。水路が詰まらずに通り、堰き止めた水が落ち着いているか。桑と麻が野に植えられ、穀物が土地に合っているか。家畜と野菜がそろっているか。そして五つ目が意表を突きます。工事が彫刻の細かさを競い、機織りが凝った模様に走っているのは、貧しい国の姿である、と。
飾りに人手が回っているのは、余裕の証拠ではなく本業が痩せている印だ——管仲はそう見ました。
二番目に置かれているのが、まさに治水です。水路が通っていないこと自体が、国の貧しさの定義に入っている。裏を返せば、治水は災害対策ではなく国を富ませる本体の仕事だということになります。
信玄が二十年がかりの大工事をやり切れた理由が、ここにあります。当時、他国の武将たちは、信玄が治水に財と労力を注いで自滅するだろうと見ていたといいます。実際には逆でした。氾濫が収まると新田開発が進み、米の収穫量が安定して増えた。それが武田軍の食糧と装備を支えます。軍事、法律、土木が、古典の知識を通して一本につながっていました。
出典:管子 立政
「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の出どころ
もう一つ、信玄をめぐる有名な言葉があります。「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」。心の中の雑念を消し去れば、火さえも涼しく感じられる、という意味です。
天正十年(一五八二年)、武田家が滅びたあと、恵林寺が織田軍に焼き討ちされました。そのとき、信玄が師と仰いだ僧・快川紹喜が、炎に包まれた門の上でこの言葉を唱えたと伝えられています。風林火山の旗を書いた、あの僧です。
ただし、これは快川がその場でつくった言葉ではありません。もとは晩唐の詩人・杜荀鶴(とじゅんかく)の詩の一節で、それが禅の書物を通じて日本の禅寺に広まった、よく使われる決まり文句でした。さらに、快川が実際に炎の中でこれを唱えたと確認できる同時代の記録は見つかっておらず、後世に脚色された可能性も指摘されています。
それでも、この言葉が信玄と快川の目指した境地を指していることは変わりません。むしろ、出どころを辿ると、なぜその言葉が選ばれたのかがはっきりします。
信玄が深く親しんだ禅の語録『臨済録』に、日本でもよく掛け軸になる一節があります。
【書き下し】隨處に主と作れば、立處皆な真なり。
どこにいてもそこで主人になれば、立っている場所がそのまま真実になる——前向きな標語のように読まれがちですが、直前に条件が置かれています。「人の惑わしを受けないこと」。主人になるとは、来たものを片っ端から受け取らないことなのです。
続けて臨済はこう言います。迷いが起きたとき、それをどう解決するかではなく、考えるのをやめて、外に答えを求めるな。来たものは、ただ照らせばよい。取り込まず、追い払わず、映すだけ。そして最後に問いかけます。いま働かせているそこに、何が足りないのか、と。
「動かざること山の如し」を旗に掲げた男にとって、自分を焼く炎さえ客観的に眺めて熱に振り回されない境地は、理想そのものでした。
出典:臨済録 示衆
信玄の言葉は、どこに残っているのか
ここまで引いてきた信玄の言動は、その多くが『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』という一冊に由来します。信玄に仕えた重臣・高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)の口述として書き留められた軍記で、全二十巻五十九品。「人は城」の歌も、風林火山の旗の記録も、出どころはこの書です。江戸時代の武士が兵法を学ぶといえば、まずこれでした。
ただし、この本は長く疑われてきました。年号や合戦の日付に誤りがあることから、明治には偽書と断じられています。評価が変わるのは近年で、本文の語彙と文法が、編者とされる小幡景憲の時代より古い層を含むことが国語学の研究で示され、原型は高坂弾正周辺の口述にさかのぼると考えられるようになりました。年紀は誤るが、言葉と作法は伝えている。 いまはそう扱われています。
その軍法之巻に、信玄が侍大将たちに示した勝ち方の物差しがあります。
【書き下し】十の物六分・七分の勝一ツ、十の物八分・九分の勝一ツ、十の物十ながらの勝一ツ、第一に十を六分・七分の勝はこれ十分の勝なり、第二に十を八分・九分の勝はこれあやうし、第三に十を十分の勝はかならずけが有て、跡のほまれを無にすべきとの御諚なり
十のうち六分七分で止めた勝ちが、本当の十分の勝ちである。八分九分は危うい。十割勝てば必ずどこかに怪我をして、それまでの誉れを無にする——。残らず討てば相手に恨みが残り、味方も消耗し、次に立ち向かう敵が増える。だから、どこで手を止めるかを戦う前に決めておけ、という指図です。この巻には続けて、十割勝ちたいという思案そのものが「我が心中より大敵・強敵の数を作り出す」とも書かれています。敵は外にいるだけではない、という言い方でした。
出典:甲陽軍鑑 品第四十一
まとめ ― 信玄は、読んだものを仕組みに変えた
ここまで見てきたことを、一言にまとめます。信玄は、読んだものを動く仕組みに変えました。
『孫子』は旗になり、情報部隊になりました。『韓非子』は分国法の条文になり、年貢と裁判権の集中になりました。『貞観政要』は評定という会議の制度になりました。『管子』は二十年の治水と、増えた収穫量になりました。禅は、極限で判断を誤らないための平常心になりました。
どれも引用ではありません。翻訳です。しかもその翻訳は、原典に忠実であることと、原典を切り捨てることの両方を含んでいました。風林火山がそれを最もよく示しています。六つのうち四つを掲げ、二つを伏せる。原典を知り尽くしていなければ、この判断はできません。
最後に、信玄のもう一つの有名な言葉を置いておきます。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」。城や石垣を立派にするより、人を大切にすることが国の守りになる、という意味です。信玄が生涯、本格的な城を築かず、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)という館で通したことともつながります。
この歌が『甲陽軍鑑』に出てくるのは、一箇所だけです。信玄が自分の生涯を数え上げていく場面で、甲州の内に城郭を構えず屋敷構えのままでいる、と述べた、その締めに置かれています。標語として掲げられた言葉ではなく、築かなかった理由として語られた言葉でした。
出典:甲陽軍鑑 品第三十九
そしてこの言葉は、ここまで見てきたすべての要約でもあります。人を石垣にするために、法で公平さを担保し、耳の痛い話が届く経路を開き、治水で食えるようにし、情報を人から取る。精神論ではなく、設計でした。
古典を読むことと、古典を使うことは違います。信玄の蔵書を眺めても、何も起きません。彼が何を採り、何を捨て、どこに置き換えたのか。そこを見て初めて、二千五百年前の兵法書がなぜ甲斐の山国で機能したのかが見えてきます。
この記事の肖像について
よく見る武田信玄の絵——恰幅がよく、髭を蓄え、袈裟をまとって座っている、あの像——は、高野山成慶院に伝わる長谷川等伯筆の作品です。教科書にも大河ドラマにも、この顔が使われてきました。
ところが近年、あれは信玄ではないのではないかという説が有力になっています。根拠は家紋です。画中の打敷に描かれているのが武田菱ではなく、能登の畠山氏が使った二引両(ふたつびきりょう)である。加えて、等伯は能登の出身で畠山氏と接点があり、生前の信玄に会える立場ではなかった。そこから、能登畠山氏の誰かを描いたものだろうと考えられています。
この記事をSNSで共有したときに出る肖像には、代わりに高野山持明院に伝わる「武田晴信像」を使いました。晴信は出家前の名です。侍烏帽子に直垂という正装で、装束には武田家の花菱紋。武田家が滅んだあと、勝頼の遺品として高野山へ納められたと伝わり、信玄本人を描いたものと考えられています。十六世紀・絹本著色・作者不詳。パブリックドメイン。
有名なほうを使えば、多くの人が「信玄だ」とすぐ分かったでしょう。それでもこちらを選びました。原典に当たる、という記事の中身と、揃えておきたかったからです。
信玄が三方ヶ原で完敗させた相手が、のちに天下を取ります。徳川家康です。家康は信玄の遺臣と統治の仕組みを自分の中に取り込み、そして同じ漢籍を、まったく違う形で使いました。
→ 徳川家康の愛読書 ― 名言「人の一生は重荷を負うて」の真偽と、家康が刷った本
『孫子』そのものを読んでみたい方は、名言を十三句集めた記事を用意しています。この記事で触れた軍争篇・謀攻篇・用間篇のほか、始計篇や虚実篇の名句も原文で読めます。
→ 孫子の兵法の名言13選 — 原文・現代語訳と、戦わずして勝つの本当の意味
そして、信玄が生涯で最も長く向き合った相手も、同じ本を読んでいました。五度にわたって川中島で対陣した越後の上杉謙信です。ただし、読み方はまるで違いました。