「あの人は人間力がある」「管理職には人間力が要る」。採用でも昇進でも、人間力という言葉はよく使われます。けれども、では人間力とは何で、どうすれば高まるのかと聞かれると、答えに詰まる人が少なくありません。専門知識やスキルなら測れますし、研修も組めます。人間力は、そのどちらでもないところを指しているからです。

この言葉に一つの定義を与えたのが、内閣府が2003年(平成15年)にまとめた「人間力戦略研究会報告書」です。報告書は人間力を「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」とし、三つの要素に分けました。

  • 知的能力的要素:基礎学力や専門知識、それを続けて高めていく力。その上に立つ論理的思考力や創造力
  • 社会・対人関係力的要素:コミュニケーション能力、リーダーシップ、公共心、規範意識、他者を尊重して互いを高め合う力
  • 自己制御的要素:これらを十分に発揮するための意欲や忍耐力、自分らしい生き方を追う力

よくできた整理です。ただ、要素を並べただけでは「全部大事」で終わってしまいます。どれから手をつけ、毎日なにをすればよいのかまでは書かれていません。

実は、東洋の古典はこれとほぼ同じ三分割を二千五百年前に示していて、しかも鍛える順番と、日々の具体的な手順まで書き残しています。この記事では、人間力とは何かを『中庸』の「知・仁・勇」で読み直し、人間力が高い人の特徴と高め方を、『論語』『大学』『荀子』『孟子』『言志四録』の原文でたどります。

人間力とは――内閣府の三要素と、『中庸』の「知・仁・勇」

儒教の古典『中庸』に、孔子の言葉としてこういう一節があります。

【白文】好學近乎知,力行近乎仁,知恥近乎勇。知斯三者,則知所以修身;知所以修身,則知所以治人;知所以治人,則知所以治天下國家矣。

【書き下し】学を好むは知に近く、力行(りっこう)は仁に近く、恥を知るは勇に近し。斯(こ)の三者を知れば、則ち身を修むる所以を知る。身を修むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。

学ぶことを好むのは知に近い。力を尽くして実行するのは仁に近い。恥を知るのは勇に近い。この三つが分かれば、自分の修め方が分かり、人の治め方が分かり、やがて国の治め方まで分かる。

「知・仁・勇」は儒教で三達徳と呼ばれ、誰にでも通じる三つの徳とされてきました。内閣府の三要素と並べてみると、驚くほど重なります。知は知的能力的要素、仁(人を思いやる心)は社会・対人関係力的要素、勇は自己制御的要素です。とくに勇の入口が「恥を知る」になっているのは見逃せません。古典の勇は腕っぷしではなく、自分の至らなさを恥じて立て直す力、つまり自己制御のことでした。

そのうえで、この一節には報告書にない視点が二つあります。

一つめは、三つとも行為で書かれていることです。知そのもの、仁そのものを持て、とは言っていません。学ぶことを好む、力を尽くして行う、恥を知る。どれも今日からできる行動で、その行動が徳に「近い」と言っています。人間力を能力として測ろうとすると手が届きませんが、行動としてなら誰でも始められます。

二つめは、三つの行き着く先が修身、つまり自分を修めることに束ねられている点です。人を動かす力も、組織を治める力も、自分を修めることの延長にある。人間力を「総合的な力」と呼ぶ理由を、『中庸』は順序で説明しているわけです。

出典:中庸

人間力が高い人の特徴――惑わず、憂えず、懼れず

では、知・仁・勇が備わった人はどう見えるのか。『論語』は、その姿を三つの「無いもの」で描いています。

【白文】子曰:「君子道者三,我無能焉:仁者不憂,知者不惑,勇者不懼。」子貢曰:「夫子自道也!」

【書き下し】子曰く、「君子の道なる者三つ、我能くすること無し。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。」子貢曰く、「夫子自ら道うなり。」

仁者は憂えない。知者は惑わない。勇者は恐れない。孔子は、自分はそのどれもできていないと言い、弟子の子貢は「先生はご自分のことをおっしゃっているのです」と受けました。

人間力が高い人の特徴として、よく「感情のコントロールができる」「トラブルやプレッシャーの中でも冷静さを保つ」が挙げられます。この一句は、その冷静さがどこから来るのかを三つに分けています。人間関係でくよくよしないのは仁があるから、判断に迷わないのは知があるから、結果を恐れないのは勇があるから。

裏返せば、これは自分を見立てる道具にもなります。いま自分が憂えているのか、迷っているのか、恐れているのか。それが分かれば、三つのうちどれが足りていないかが分かります。

そしてもう一つ、孔子が「我能くすること無し」と言っている点も見逃せません。人間力が高い人ほど、自分にはまだ足りないと思っている。これは謙遜の作法ではなく、三つとも完成しない徳だという認識です。「自分は人間力がある」と言い切れる人を、周りがあまり信用しないのは、このためかもしれません。

出典:論語 憲問篇

知的能力――学ぶとは、怒りを他人に遷さないこと

人間力の一つめ、知の要素から見ていきます。報告書は知識を持つことに加えて、「自らそれを継続的に高めていく力」を挙げていました。孔子はこの「学び続ける人」を、意外な基準で見分けています。

【白文】哀公問弟子孰為好學。孔子對曰:有顏回者好學。不遷怒,不貳過。不幸短命死矣。今也則亡,未聞好學者也。

【書き下し】哀公問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対えて曰く、顔回という者あり、学を好む。怒りを遷さず、過ちを二たびせず。不幸短命にして死せり。今は則ち亡し、未だ学を好む者を聞かざるなり。

魯の哀公に「弟子の中で誰が学問を好むか」と聞かれ、孔子は顔回の名を挙げました。その理由が、怒りを他人に遷さないこと、同じ過ちを二度しないこと、の二つです。

知識の量にも、頭の回転にも触れていません。学ぶことが好きかどうかは、感情の扱い方と、失敗からの立ち直り方に出る、と孔子は見ていました。上司に叱られた腹いせを部下に向ける。同じミスを三度目もする。どれほど知識があっても、そういう人を孔子は「学を好む」とは呼ばなかった。ここで知と自己制御は、もう一つにつながっています。

荀子は、学び続けることの中身をもう少し具体的に書きました。

【白文】學不可以已。……君子博學而日參省乎己,則智明而行無過矣。

【書き下し】学は以て已むべからず。……君子は博く学びて日に己に参省すれば、則ち智明らかにして行い過ち無し。

学問は途中でやめてはならない。広く学んで、毎日わが身を振り返れば、知恵は明らかになり、行いに過ちがなくなる。「青は藍より出でて藍より青し」で知られる勧学篇の冒頭です。

要点は、学ぶことと振り返ることが一組になっている点です。本を読み、研修を受けるだけでは、知識は増えても行いは変わりません。読んだことを自分の一日に当てて点検したとき、はじめて知識は判断に変わります。安岡正篤はこの変化を「知識・見識・胆識」の三段階で説明しました(知識・見識・胆識とは)。人間力でいう知的要素は、知識の段で止まらず、見識へと育てていく力のことだと言えます。

出典:論語 雍也篇/荀子 勧学篇

対人関係力――分かってもらう前に、分かろうとする

二つめは、社会・対人関係力の要素です。コミュニケーション能力、傾聴力、リーダーシップ。どれも研修のテーマになりやすいところですが、『論語』はまず、目を向ける向きを問題にしています。

【白文】子曰、「不患人之不己知、患不知人也。」

【書き下し】子曰く、「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う。」

人が自分を分かってくれないことを気に病むな。自分が人を分かっていないことを気に病め。

「なぜ評価されないのか」「なぜ部下は分かってくれないのか」。人間関係の悩みの多くは、自分がどう見られているかから始まります。孔子はその矢印を逆に向けよと言います。相手が何を考え、何を大切にし、どんな事情を抱えているかを、自分はどれだけ知っているか。傾聴の技術は、この向きが変わったあとで初めて生きてきます。向きが変わらないまま技術だけ身につけた人の「聞く姿勢」は、相手にすぐ見抜かれます。

では、人と関わるときの基準を一つだけ持つとしたら何か。弟子の子貢がまさにそれを尋ねています。

【白文】子貢問曰:「有一言而可以終身行之者乎?」子曰:「其恕乎!己所不欲,勿施於人。」

【書き下し】子貢問いて曰く、「一言にして以て終身之を行う可き者有りや。」子曰く、「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」

一言で、生涯行い続けられるものはありますか。孔子の答えは「恕」でした。自分がされたくないことを、人にしてはならない。

この基準の強みは、判断が速いことです。何をすべきかは場面ごとに変わりますが、されたくないことは自分に聞けばすぐ分かる。会議で人の話を途中で遮る、メールの返信を放っておく、手柄を自分のものにする。どれも、自分がされたら嫌なことです。リーダーシップや公共心といった大きな言葉も、突き詰めればこの一言の積み重ねに行き着きます。

出典:論語 学而篇/論語 衛霊公篇

自己制御――春風で人に接し、秋霜で自分を律する

三つめは自己制御の要素です。人間力が高い人の特徴として挙げられる「感情のコントロール」は、ここに入ります。江戸後期の儒者・佐藤一斎は、これをわずか十二字で書きました。

【白文】以春風接人。以秋霜自肅。

【書き下し】春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む。

春風のような和やかさで人に接し、秋の霜のような厳しさで自分を引き締める。

自己制御というと自分に厳しくすることばかりが思い浮かびますが、一斎は対人の温かさと対にしています。ありがちなのは、この逆です。人の欠点には秋霜のように厳しく、自分の欠点には春風のように甘い。仕事ができる人ほど、この逆転に陥りやすいものです。自分に甘いまま人に厳しくすれば、人は離れます。自分に厳しいのに人にも厳しければ、人は息が詰まります。人間力の高い人は、温度の使い分けが逆になっていません。

では、感情を抑えればよいのかというと、『中庸』はそうは言いません。

【白文】喜怒哀樂之未發,謂之中;發而皆中節,謂之和;

【書き下し】喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂い、発して皆節に中(あた)る、之を和と謂う。

喜び・怒り・哀しみ・楽しみが、まだ湧き起こっていない静かな状態を「中」という。湧き起こって、すべてがちょうどよい節度に当たっている状態を「和」という。

感情を消せとは書いていません。怒るべき場面で、ちょうどよい強さで怒れることも「和」です。部下の不正を見て眉一つ動かさない上司は、冷静なのではなく、鈍いのかもしれません。感情のコントロールとは、感情を持たないことではなく、出すときの量と向きを外さないこと。その土台として、感情が湧く前の静かな軸(中)を持っておけ、と『中庸』は言います。先に見た顔回の「怒りを遷さず」は、まさに向きを外さない怒り方でした。

出典:言志四録 言志後録/中庸

誠実さ――信は車の軸、誠は独りのときに出る

人間力が高い人のもう一つの特徴が、誠実さと責任感です。報告書が「規範意識」と呼んだものも、根はここにあります。孔子は、信のない人をこうたとえました。

【白文】子曰:人而無信,不知其可也。大車無輗,小車無軏,其何以行之哉?

【書き下し】子曰わく、人にして信無くんば、其れこれを知ることなきなり。大車に輗無く、小車に軏無くんば、其れこれを以て行かんや。

人として信がなければ、牛車に輗(げい)がなく、馬車に軏(げつ)がないのと同じだ。どうして進めようか。輗・軏は、車の本体と、引く牛馬とをつなぐ横木の留め具です。

この比喩が鋭いのは、信を「飾り」ではなく「連結部品」として扱っている点です。車体がどれほど立派でも、牛との連結が外れていれば一歩も進みません。能力がどれほど高くても、約束を守らない人には仕事が回ってこない。信は能力の上に載るものではなく、能力を周りの力とつなぐ部品です。人間力が「総合的な力」と呼ばれるのは、この連結部品が欠けると他の要素が全部空回りするからでしょう。

そして、その信がどこで作られるかについて、『大学』は厳しいことを書いています。

【白文】所謂誠其意者,毋自欺也,……小人閑居為不善,無所不至,……此謂誠於中,形於外,故君子必慎其獨也。

【書き下し】謂う所の其の意を誠にすとは、自ら欺くこと毋(な)きなり。……小人閑居して不善を為し、至らざる所無し。……此れ中(うち)に誠なれば外に形(あらわ)ると謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり。

意を誠にするとは、自分を欺かないことだ。つまらない人間は、一人でいるとどんな悪いことでもする。けれども心の中にあるものは、必ず外に現れる。だから立派な人は、独りのときを慎む。

「慎独(しんどく)」と呼ばれる教えです。人前での誠実さは、誰でもある程度は演じられます。差が出るのは、誰も見ていないところです。経費の扱い、手を抜いても分からない作業、いない人の噂話。そこで自分をごまかした分は、本人が思うよりずっと正確に、表情や言葉の端に出てくる、と『大学』は言います。利他心や誠実さは、人に見せる性格ではなく、独りのときの習慣のほうに宿っています。

出典:論語 為政篇/大学

人間力を高める方法①――順番は「行い」が先、学問は後

ここからは、人間力の高め方です。よく挙げられるのは、日常の習慣(挨拶・感謝・約束を守る)、学びと挑戦(読書や新しい経験)、振り返り(日々のリフレクション)の三つでしょう。孔子は、この並び順そのものに意味があると言っています。

【白文】子曰、「弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有餘力、則以學文。」

【書き下し】子曰く、「弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有らば、則ち以て文を学ぶ。」

若い人は、家では親を大切にし、外では年長者を立て、言動を慎んで信を守り、広く人を愛して徳のある人に親しむ。それを行って余力があれば、書物を学べ。

学問を勧め続けた孔子が、ここでは学問を後に回しているのです。先に来るのは、家と外での振る舞い、慎みと約束、人への接し方。挨拶ができる、約束を守る、分け隔てなく人に接する。まずそれをやって、余った力で本を読め。知識は人間力の一要素ですが、土台ではないということです。部下や子どもを育てるときにも、教える順番がここから見えてきます。

では、日々の行いとは具体的に何か。佐藤一斎は、先のことばかり考えて目の前が雑になる人を、道のりばかり気にしてせかせか歩く旅人にたとえたうえで、こう書きました。

【白文】人須先料理當下。……一寢一食。造次顚沛。亦皆當下事。其料理當下得恰好處。即并過去將來。亦自得恰好耳。

【書き下し】人は須らく先づ当下を料理すべし。……一寝一食、造次顛沛も、亦皆当下の事なり。其の当下を料理して恰好の処を得れば、即ち并せて過去将来も、亦自ら恰好を得るのみ。

人はまず「当下」、つまり今ここを料理しなければならない。一度寝て一度食べることも、とっさの時もつまずいた時も、みな今ここのことである。今ここをちょうどよく処理すれば、過去も将来も、おのずとちょうどよくなる。

一斎が省いた部分には「居処恭しく、事を執りて敬し、言忠信、行篤敬」と、『論語』の言葉が並んでいます。ふだんの居ずまいを慎み、仕事に真剣に当たり、言葉は誠実に、行いは手厚く。どれも特別な修行ではありません。人間力を高める方法として「日常の習慣」が真っ先に挙がるのは、人間力が今日の一件の処理の仕方にしか現れないからです。将来の自分の人間力を思い悩むより、目の前の挨拶一つ、返信一つを丁寧に片づける。一斎の言う「料理」は、その手つきのことです。

出典:論語 学而篇/言志四録 言志後録

人間力を高める方法②――振り返りは、基準を決めてから

学び、行ったら、振り返る。荀子が「日に己に参省す」と書いたとおり、古典は振り返りを修養の中心に置いてきました。その代表が、孔子の弟子・曾子の言葉です。

【白文】曾子曰、「吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。」

【書き下し】曾子曰く、「吾日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。」

私は毎日、三つの点で自分を省みる。人のために考えて、真心に欠けなかったか。友と交わって、誠実さに欠けなかったか。よく身につけていないことを、人に伝えなかったか。

注目したいのは、曾子が何を振り返るかを先に決めていることです。「今日一日を振り返る」だけだと、印象に残った出来事をなぞって終わりがちです。曾子の三つの問いは、それぞれ仕事・人間関係・学びに当たっていて、人間力の三要素ともほぼ重なります(この一句については吾日に吾が身を三省すで詳しく読めます)。

佐藤一斎は、この三省に孔子の「九思」を合わせて、振り返りを二つの時間に分けました。

【白文】孔子九思。曾子三省。有事時以是省察。無事時以是存養。可以爲靜坐工夫。

【書き下し】孔子の九思、曾子の三省、事有る時は是を以て省察し、事無き時は是を以て存養す。以て静坐の工夫と為すべし。

九思とは、見るときは明らかに見ることを思い、怒ったときは後の面倒を思い、利益を前にしたら筋を思う、といった九つの心がけです。事のある時はこれで自分を点検し、事のない時はこれを心に据えて養う。

振り返りを「終わったことの反省会」だけにしない、という工夫です。出来事の最中には基準に照らして点検し、何もない時間にはその基準を自分に染み込ませておく。基準が体に入っていなければ、忙しい日には真っ先に消えるからです。

最後に、振り返りの向きについて。孟子はこう言いました。

【白文】愛人不親、反其仁。治人不治、反其智。禮人不答、反其敬。行有不得者、皆反求諸己。其身正而天下歸之。

【書き下し】人を愛して親しまずんば、其の仁に反れ。人を治めて治まらずんば、其の智に反れ。人を禮して答えずんば、其の敬に反れ。行いて得ざる者有れば、皆諸を己に反求す。其の身正しければ天下之に歸す。

人を愛しても親しんでもらえなければ、自分の仁を省みよ。人を治めても治まらなければ、自分の智を省みよ。礼を尽くしても応えてもらえなければ、自分の敬を省みよ。思うような結果が得られないときは、すべて原因を自分の中に求めよ。

振り返りが他人の欠点探しになると、人間力は一歩も伸びません。部下が動かない、相手が分かってくれない。そういうときに、自分の思いやり、知恵、敬意のどれが足りなかったかを問う。孟子の挙げた仁・智・敬の三つは、対人で行き詰まったときの点検表として、そのまま使える形になっています。

出典:論語 学而篇/言志四録 言志後録/孟子 離婁章句上

結び――人間力とは、「修身」の今の呼び名である

ここまでの原典を並べ直すと、人間力とは何か、どう高めるかが、一本の筋で見えてきます。

人間力の三要素は、『中庸』の知・仁・勇に重なります。知は「学を好む」ことから、仁は「力行」から、勇は「恥を知る」ことから近づける。いずれも能力ではなく行動で、行き着く先は修身でした。

人間力が高い人は、惑わず、憂えず、懼れない。けれども本人は、自分にはまだできていないと思っている。学ぶ人は怒りを他人に遷さず、人と関わるときは分かってもらう前に分かろうとし、春風で人に接して秋霜で自分を律し、独りのときを慎む。

高める順番は、行いが先で学問が後。今ここを丁寧に料理し、基準を決めて振り返り、うまくいかないときは原因を自分の中に探す。

『大学』は、この全体をひとことでまとめています。

【白文】自天子以至於庶人,壹是皆以修身為本。其本亂而末治者否矣,其所厚者薄,而其所薄者厚,未之有也!

【書き下し】天子より以て庶人に至るまで、壹(いつ)に是れ皆身を修むるを以て本となす。其の本乱れて而も末治まる者は否(あら)ず。其の厚くする所の者薄くして、其の薄くする所の者厚きは、未だ之れ有らざるなり。

天子から庶民まで、誰もが自分を修めることを根本とする。根本が乱れているのに末端が治まることはない。

人間力という言葉は新しいものですが、その中身は、古典が「修身」と呼んできたものとほとんど変わりません。専門知識やスキルが枝葉なら、人間力は根にあたります。根は目に見えず、伸びたかどうかも測りにくい。だからこそ古典は、それを能力として語らず、毎日の行動として書き残しました。

全部を一度にやる必要はありません。今日の振り返りに曾子の三つの問いを一つ借りる。怒りを感じたら、それを関係のない人に向けていないかだけ確かめる。人間力は、そういう一件一件の手つきの総和として、少しずつ厚くなっていきます。

仁・義・礼・智・信のそれぞれの意味は仁義礼智信(五常)とは何かで、古典が人の器をどう段階づけたかは聖人、君子、小人、愚人の違いで読めます。部下の人間力を育てる側に立ったときは、部下が育たないと感じたらも参考になるはずです。

出典:大学