言志四録 / 言志後録 第百二十八条 九思と三省
孔子九思。曾子三省。有事時以是省察。無事時以是存養。可以爲靜坐工夫。
新字:孔子九思。曽子三省。有事時以是省察。無事時以是存養。可以為静坐工夫。
書き下し
孔子の九思、曾子の三省、事有る時は是を以て省察し、事無き時は是を以て存養す。以て静坐の工夫と為すべし。
現代語訳
孔子の「九思」(『論語』季氏篇、見るには明を思い、聴くには聡を思うなど九つの心がけ)と、曾子の「三省」(『論語』学而篇、日に三たび我が身を省みる)。事のある時はこれによって自分を省察し、事のない時はこれによって心を保ち養う。これを静坐の工夫とすることができる。
解説
静坐という修養を、『論語』の具体的な教えに結びつけた一条です。九思は、見る時は明らかに、聴く時は聡く、顔色は温和に、疑わしい時は問うことを思うなど、場面ごとの九つの心がけです。三省は、曾子が人のために誠を尽くしたか、友に信義を守ったか、習ったことを復習したかを日々省みたという話です。一斎は、事に当たる時はこれらで行いを点検し(省察)、何もない時はこれらを心に据えて養う(存養)と言います。静坐を、目を閉じて無になる時間ではなく、自分の行いを具体的な基準で振り返る時間として捉えているのが特徴です。振り返りの時間を持つとき、何を基準に振り返るかを決めておくことの大切さを示しています。
この章句が説くこと
九思三省省察存養静坐
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